和歌史10

 藤原俊成・定家
 
 いよいよ藤原俊成と定家の親子が登場する。この親子は、和歌を通して「古典」を完成の域にまで持って行った。
 和歌に関する様々な知識を歌学と呼ぶ。歌学を継承している家は歌学家である。そのような専門集団が形成されていったのが、俊成・定家親子の時代なのだ。
 歌学家として台頭したのが六条藤家(とうけ)である。藤原顕李(あきすえ)を始祖とし、顕輔(あきすけ。勅撰集『詞歌和歌集』撰者とその子息清輔(きよすけ。歌学書『奥義抄』、『袋草紙の著者』、顕昭(けんしょう。僧侶。顕輔の用紙。『袖中抄』の著者)と継承されていった。
 しかし、俊成は歌学のみならず、和歌でしか表現できないような独自の世界をしめすに至った。歌学、実作、勅撰集編纂、歌合判など、和歌に関する総合的な活動を実践した。
 
『千載和歌集』に自撰した作品から、俊成の和歌観を検証しようというのが、渡辺教授の手法だ。渡辺教授はこう主張する。
「まずこれらの歌の、あふれ出し、流れ出る様な抒情に注意しよう。(中略)『いくらなんでもと思う心』と『弱り果てた虫の音』が、『暮らしかねて身を隠そうとする心』と『山里の隈なき月』が、『つらい夢を見た名残の悲しさ』と『来世への思い』が、『俗世に生きることを断念して院政を決意する気持ち』と『山奥の悲しげな鹿の鳴き声』が、それぞれしっくりと重なり合っている。」
 
 俊成が詠んだ歌には、望みを絶たれた挫折感、衰えていくわびしさ、生きていく辛さの敗北感、そのようなマイナスの感情があふれ出している。それは、個人的な思いに留まらず、多くの人の共感を呼ぶ。このような負の感情を表現することを当時の言葉では「述懐」と呼んだ。さらに、挫折感、敗北感、諦念などの負の感情は、理想への求心力を高めるという効果もある。理想を求める和歌の力の復活をそこに見いださせる。
 
 さりともと思ふ心も虫の音(ね)も弱りはてぬる秋の暮れかな 
 千載和歌集・秋下・三三三
 いくら何でも、このままでは終わるまいと思う気持ちも虫の声も、弱りきってしまった秋の暮れよ。
 
 住みわびて身を隠すべき山里にあまり隈なき夜半の月かな 
 千載和歌集・雑上・九八八
 暮らしかねて身を隠そうとする山里に、あまりに隈ない夜の月がさしてくる。
 
 憂き夢はなごりまでこそかなしけれこの世の後もなほや嘆かん 
 千載和歌集・雑中・一一二七
 つらい夢を見たときは目覚めた名残まで悲しい。来世まで嘆くのだろうか。
 
 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 
 千載和歌集・雑中・一一五一
 世の中とはまあ、恐れる道はないのだった。思い詰めて入り込んだ山の奥にも、このように鹿が鳴いている。
 
 もうひとつの特徴として、錯覚の利用方法ということを渡辺教授は指摘する。それはどういうことなのか。具体的に見ていこう。
 
 春の夜は軒端の梅を漏る月の光もかをる心地こそすれ 
 千載和歌集・春上・二四
 春の夜は軒端の梅を漏れてくる月の光も薫るような気がする。
 
 軒端の梅が馥郁と薫っている。月光がそれを明るく照らす。まるで、光が薫っているようだ。
 
 すぎぬるか夜半の寝ざめの時鳥声は枕にある心地して 
 千載和歌集・夏・一六五
 過ぎていったのか。余波の寝覚めに聞いた時鳥の声は、枕元に残っているように思われる。
 
 夜中に時鳥の声で目覚めた。耳を澄ますがもう聞こえない。通り過ぎてしまったのか。しかしその声は、私の耳に残っている。まるで枕元に落ちてきたかのように。
 
 この二つの歌では、美に対する感動を錯覚であるかのような比喩で現している。
 
 五月雨はたく藻の煙うちしめり潮垂れまさる須磨の浦人 
 千載和歌集・夏・一八三
 五月雨のせいで藻塩を焼く煙も湿ってしまい、涙をつのらせているよ、須磨の浦人は。
 
 藻塩を焼いているが、五月雨が降り続いているので、煙までもがぐっしょり濡れている。衣服は海水に濡れ、涙でいっそう濡れそぼる。そして、場所は「須磨」であるから、光源氏が想起される。光源氏の失意が、自分の悲しみを浦人に託している。
 
 まばらなる槙の板屋に音はして漏らさぬ時雨や木の葉なるらむ 
 千載和歌集・冬・四○四
 隙間だらけの槙の板葺き小屋に音を立てながら漏れてこない時雨は木の葉なのだろうか。
 
 粗末な板葺きの小屋にいて、時雨が屋根を叩く音を聞いている。しかし、あめが屋根から漏れてこない。ああ、あれは雨の音ではなく、木の葉が散り積もる音だったのだ。読者は俊成の歌に同調していく。
 
 浦づたふ磯の苫屋の梶枕聞きもならぬは波の音かな 
 千載和歌集・羈旅・五一五
 浦伝いにやってきた磯野苫葺き小屋や梶を枕に寝ようとすると、聞き慣れぬ波の音が耳につく。
 
 浦から浦へと移動する人が、磯辺の貧しい小屋にいるが、枕がない。そこで、櫓や櫂などの梶を枕にする。高貴な身分の人は、滅多なことで波の音など聞くことはない。だから、「聞きもやならぬ」のだ。高貴な人がいると言うことは、やはり光源氏を想起させる。
 
 照射(ともし)する葉山が裾の下露や袖のかくしほるらむ 
 千載和歌集・恋一・七○二
 火を灯してする猟のために木の葉茂る山裾に入ったら、したたる露でこれくらい漏れるだろうか。恋をし始めた私の袖の涙のように。
 
 以上の四首にある下線部の部分に注目すると、具体的な空間がそれぞれに設定されていることが分かる。そして、その空間にいる人物の視覚、聴覚、触角を動員しているので、読者も必然的にその感覚を一緒に味わう。しかし、その直後に全く違う心象風景・心情が浮かび上がる。そういう仕掛けをした和歌なのである。
 
 夕さればのべの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里 
 千載和歌集・秋上・二五九
 夕方になると野辺の秋風が身にしみる様に吹いて、鶉が鳴いているよ、深草の里では。
 
 傍線部はやり寂しげな情景が描かれている。たが、「深草の里」とあるので、これは『伊勢物語』だと気がつく。(古典愛好者にはそうなのだろうが、無教養な私には分からなかった。)
 
 では、『伊勢物語』ではどうなっているのだろう。第百二十三段にはこのよう歌がある。
 
 年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ 男
 
 野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやに君は来ざらむ 女
 
 男は一緒に暮らしていた女に歌を贈った。私がこの里を出て行ったら、ここは文字通りに草深い里になるだろうな。すると女は功応えた。あなここが草深い里になったら、私は鶉になって鳴きましょう。あなたは仮初めにも狩りにでもやってくるしょう。女の返しを聞いて男は愛情を取り戻し、また女と暮らした。
 
 俊成は、このパッピーエンドの話を逆手に取り、鶉が鳴いているのは女の悲しさなのかと言う。「身にしみて」秋風を感じているのは鶉、つまり女なのだと描く。そして、「秋」には「飽き」が響いている。つまり、言葉が次々につながり、新しい世界が展開していく。
 
 俊成は歌人であったが、彼が本領を発揮したのは歌合の判者としての功績だろう。『六百番歌合』の判詞を見てみよう。
 
 三十番 別恋 
 
 左勝
 忘れじの契を頼む別れかな空行く月の末を数えて 女房(藤原良経)
 忘れはしないという約束を信じて別れたよ。空を行く月がめぐり、まためぐり逢うまでの月日をかぞえながら。
 
 右
 風吹かば峰に別れた雲をだにありし名残りの形見とも見よ 家隆
 風が吹いたら、峰から別れていく雲。せめてその雲を私の名残の形見とだけでもしのんでください。
 
 左歌、右方、感気あり。右歌、左方、頗る宜しきの由申す。
判じて伝はく、左歌は、空行く月に末を数へ、右歌は峰に別るる雲を形見とせり。両首、姿詞(すがたことば)、ともに優(いう)に侍るを、右は、「雲をだに」といへるや。末に叶はぬ様に侍らん。左、「忘れ持の」と置けるより、守備相応せるにや。仍りて左を以て勝ちとなす。
 
「左歌、……」の一行は、対決している左方と右方それぞれによる、相手方への評価である。難陳(なんちん)という。つまり、非難したり弁解したり、互いに議論をたたかわせることである。そして、「判じて」以下が俊成の言葉である。「姿詞」とは、内容や心情はさておいて、詞の連続的なさせ方の外形的側面を、肯定的に務示す際に使われる。そして、俊成はこう言う。右歌は「雲をだに」と「形見とも見よ」が適合しない。左歌は無難だ。たぶん、「せめて雲をだけでも」と言うのなら、「形見とも見ん」という願望を述べればまだましだったのだろう。さらに、外形的側面に絞って論じる方法が、長所を認めながらも、欠点も明らかにする批評方法であり、言葉の自律的展開を捉える視点でもある。それが俊成の創作方法子と連動しているのだ。
 
 古来風躰抄(こらいふうていしょう)
 
 歌のよきことをいはむとては、四條大納言公任卿は金のたまの集となづけ、通俊卿の後拾遺の序には、こと葉ぬひものゝ如くに、心うみよりも深しなど申しためれど、かならずしも錦ぬひものゝ如くならねども、歌はたゞ、よみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、こゑにつきて、よくもあしくも聞ゆるものなり。
 
 現代語訳
 歌の素晴らしさを言い表そうとして、四条大納言公任卿は、『金玉集(きんぎょくしゅう)』と名付け、また通俊卿の『後拾遺集』の序には「表現は縫物の如くに、心は海よりも深い」などと申しているが、必ずしも錦の縫物のようでなくても、歌はただ、口に出して読んだり詠じたりしてみると、何となく優美に聞えたり、哀切に聞えたりすることがあるものだ。そもそも「詠歌」と言うように、詠唱する声によって、良くも悪くも聞えるものなのである。
 
 和歌を評価するのには、作者の意図、狙い、印象などだけでは判断できない。言い難いものがあるということなのだろう。『古来風躰抄』という名前も印象的だ。『万葉集』から『千載集』までの歌を選出していることから、歌の姿を会得することが和歌の道だと主張しているのである。
 
 本歌取りの大家としての定家は、古典・古歌に潜む可能性を掘り起こした。また、歌学の面でも実績を積んだ。その上、『新古今集』と『新勅撰集』の二つの勅撰和歌集の撰者になった。これは、史上初のことだ。
 
 渡辺教授は、定家の中核になるのは、本歌取りであると指摘する。本歌取りとは、ある本歌を取り上げて、本歌と比較してどのような新しさを追加したかとか、どんな新しい展開の仕方をしたかと言う観点から考察することが多いという。渡辺教授は、定家の『拾遺愚草』から例を出した。
 
 本歌
 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし 
 古今集・恋三・六二五 壬生忠岑
 
 定家はこの歌を「これほどの歌、一つ詠み出でたらん、この世の思ひ出に侍るべし」と最高級の褒め言葉で評価した。
 
 賀茂社歌合 御幸日 暁帰雁
 花の香もかすみてしたふ有明をつれなくみえて帰る雁がね 
 拾遺愚草・二一五一
 
「暁帰雁」なので暁という時間帯と春に北国に帰る雁との結びつきにどんな必然性を与えるのかが肝心要である。定家は暁を有明けの月で表した。花の香が霞となって月を慕っているという朧な有明けの月を、雁は見捨てて北に帰る。本歌では「つれなし」は月を形容していたが、こちらでは雁のことである。『古今集』の壬生忠岑の「有明の月」を女の立場としてみて見る。そういうことを思い巡らせつつ、またひとつ新しい歌が生まれた。
 
 おほかたの月もつれなき鐘の音に猶うらめしき在月の空 
 拾遺愚草・一○九一
 およそ有明の月はつれないものだが、これもつれない夜明けの鐘のせいで、恨めしささえ覚える有明の月の懸かる空よ。
 
『千五百番歌合』の中の一首。壬生忠岑の歌では、つれない別れが来る暁が辛いとなっている。しかし、定家は夜明けの鐘を引き入れて、つれない有明の月とさえも別れなければならないといういう。つまり、愛する者との別れは、ここではすでに恋の相手の異性のみではなく、全ての愛するものとの別れを、もっと言えば人生の不条理を詠んだのではないかとも言える。この歌は雑の部に入っていることから、そのような推測もできる。
 
 では、建仁二年(1202)の晩秋九月十三日夜、すなわち「のちの月」の宵、後鳥羽院が水無瀬の離宮で開催した歌合の『水瀬恋十五首歌合』で詠んだ次の歌はどうだろうか。、
 
 面影もまつ夜むなしき別れにてつれなく見ゆる有明の空 
 拾遺愚草・二五四○
 一晩中空しく待っていたあの人の面影も別れのそれに変わり、空には無常な姿で有明けの月が懸かっている。
 ここでは、定家は女性の立場に立って歌を詠んだ。恋しい人の面影を胸に抱いていたのだが、その面影は別れの姿に変わった。別れの記憶が蘇って、別れの時に見上げた月が、無情にも空に懸かっている。そして、恋しい人の面影が、別の姿に変化するというのは、定家が拘った発想だった。
 
 面影の別れに変はる鐘の音にならひ悲しきしののめの空 
 拾遺愚草・八六六
 あの人の面影が、鐘の音によって別れのそれに変わった。そんな習いというものが悲しくてならない、東雲の空よ。
 
 この歌は建久四年(1193)に詠んだ『六百番歌合』での詠である。このときは、慈円と勝負になって、定家は負けたが、「有明の月」「(きぬぎぬの)別れ」が定家固有の発想を生かせると気がついた。連動する言葉の相互関係を密にして、想像の母体とする。定家の本歌取りはこの方法と深く関わっていた。古き良き作品を掘り起こし、さらなる高みに以降と自分の発想と表現に工夫を凝らした。ここに置いて、俊成・定家の親子は、和歌史の「古典」を成立させた。
 

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