源実朝

 慈悲
 
 道のほとりにをさなき童の母を尋ていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、父母なむ身まかりしと答え侍りしを聞て
 七一七 いとほしや見るに涙もとゞまらず親もなき子の母を尋ぬる
かわいそうだなあ、見ていると涙がとまらない、両親のいない子が母を探している。
 
 慈悲の心を
 七一八 物いはぬ四方の獣すらだにもあはれなるかな親の子を思ふ
 話すことのできない、この世のどんな獣でも、親が子を思う気持ちがあることって心動かされるよなあ。
 
 親を求めて泣く子供の気持ちや子供を可愛いと思う親の気持ちには人間も獣も同じである。親が子を可愛いと思う天が与えてくれた本能は、子育てに非常にたいせつなものである。時々その本能が壊れたのがいると育児放棄という現象になって表れる。
 
 小式部内侍なくなりて、むまごどもの侍りけるを見てよみ侍りける
 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり 和泉式部
(あの子は、親である私と自分の子供を)この世に残して亡くなって、いったい誰を一番不憫に思っているでしょうか。自分の子供を思う情の方がまさっているでしょう。(私も)子供を思う情の方がまさっていると分かりましたから。・・・
 この歌は和泉式部が娘を亡くしたときに、娘が残した子供(和泉式部の孫)を見て詠んだ歌である。
 
 この歌を読めば、もう子供に対する愛おしい気持ちが充分に伝わる。和泉式部の思いだけではなく、我々自身の気持ちとして理解できるのだ。これこそが言葉の力である。
 
 建歴元年七月洪水浸天土民愁嘆きせん事を思ひて一人向本尊聊致念云々
 七一九 時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王あめやめたまへ
 
 スケールの大きな歌であるが、そのことよりももっと大切なことがある。いくら政治の実権を北条家に握られているとは言っても、この歌には為政者としての責任を一心不乱に果たそうとする実朝の純粋さや優しさみたいなものを私は感じる。
 
 六八○ 山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
 山が裂けて、海が干上がるような世であっても後鳥羽上皇を裏切ることはありません。
 
 建暦三年(1213)2月27日、後鳥羽上皇と良好な関係を築いてきた実朝は正二位に叙された。しかし、その直後の3月2日、泉親衡の北条義時打倒の企てが発覚し、この事件が和田合戦へと繋がっていくことになる。5月2日、北条義時打倒の挙兵をした和田義盛が滅亡。和田合戦後の騒然たる状況の中、5月21日には大地震が発生する。「家屋は倒壊し、山は崩れ、地は裂ける」という状況だったのだという。翌日には、京都から後鳥羽上皇が鎌倉に下向しようとする御家人を京中警護のために留まらせる措置を講じたことが報告される。和田の残党が京都で反乱を起こすかもしれない中、実朝としては早急に後鳥羽上皇への忠誠を表明する必要があった。
 
 この歌は鶴岡八幡宮に実朝の歌碑が建ててあるので、かなり有名である。
実朝はこの他にももうふたつ歌を詠んだ。
    
 太上天皇御書下預時歌
 六七九 おほ君の勅をかしこみちちわくに  心はわくとも人にいはめやも
 大君の勅書を謹んで承り、あれかこれかと心は分かれますけれども、人に言ったりしましょうか。
 
 六八一 ひむがしの國にわがをれば朝日さす藐姑射の山のかげとなりにき
 東国に私はおりますので、朝日がのぼる藐姑射の山、すなわち上皇の御所の蔭に入っているのです。
 
 いずれの歌も後鳥羽上皇への忠誠を誓った歌である。
 
 こうしていくつかの歌を読むと、実朝という人はかなり慈悲深くもあったと思われる。軟弱で病気がちではあったが、人間としてもなかなか感情豊かなところもあった歌人だと思われる。
 終わり
 

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