和歌史12

題詠の達人 頓阿
 
頓阿の俗名は二階堂貞宗という。御子左家の二条為世の弟子であった。為世の弟子の中でも、特に優れた四人を為世門の四天王と言い方をした。頓阿・慶運・浄弁・兼好の四人である。かれの家集には『草庵集』と『続草庵集』があり、どちらも自撰である。歌学書も残していて、『井蛙抄』という書物がある。また、『愚問賢注』は頓阿 (とんあ)と二条良基 (よしもと)の共著である。二条良基が問いを発して頓阿がそれに応えるという形式で進む。
しかし、二条良基は摂関家の二条家の出身であり、高貴な人物であり、連歌などにも詳しく、当時一流の文化人のひとりである。そんな有名人と頓阿が共著を著したというのは不思議なことだ。
二条良基は『近代風体抄』という歌学書の中で、次のように頓阿を表している。
「頓阿は、かかり幽玄に、すがたなだらかに、ことごとしくなくて、しかも歌ごとに市かどめづらしく当座の感もありにしや」
頓阿は、歌のたたずまいがえも言えず優美で、一首全体の流れも停滞感や屈折感なくなめらかに感じられ、大袈裟な表現を用いることもなく、それなのに、詠む歌こどにひときわ目立つ新鮮さがあって、その場の人々を感動させたといえましょうか。
 
雅であり、古典的表現に即している。そして、新鮮さがある。工夫はするが、伝統に溶け込むような歌風だったのだ。そして、渡辺教授は別の側面から、「題詠の達人」であるとの評価を下している。
 
建武二年内裏千首に、春天象
朝ぼらけ霞へだてて田子の浦にうち出でて見れば山の端もなし 草庵集・四六
明け方、霞を隔てて田子の浦に出てみると、そこには山の端さえ見えない。
 
建武は、後醍醐天皇の治世である。後醍醐天皇の治世で最も大きな和歌の行事がこの千首歌である。「天象」とは月・日・空・星などの天体現象のことを指す。この歌は、次の歌を本歌取りしたものである。
 
田子の浦にうち出でてみれば白妙の藤の高嶺に雪は降りつつ
新古今集・冬・六七五 山辺赤人
 
『新古今集』では冬の歌であるが、これを春に転用した。赤人の歌では富士を明確に示しているが、頓阿の歌では富士を明示してはいない。しかし、富士であることが暗示はされていると言える。そして、山の端さえも見えない。霞が空全体に懸かっているのだ。
 
閼伽井宮にて、古渓花を
立ちならぶ花のさかりや谷陰に古りぬる松も人にしられん 草庵集・一八四
立ち並んでいる花の盛りがあるからこそ、谷の陰にある待つも人に知られるのだろう。
 
閼伽井宮とは、亀山院の皇子で、醍醐寺座主も務めた道性(どうしょう)のこと。『草庵集』には道性が催した歌会での詠がいくつかあるので、親しく交流していたのだろうと、渡辺教授は言う。
さて、古渓花という表現だか、渓(谷)の花に新旧などないはずだ。そして、このよう場合は、「古い」という言葉は使わずに詠むのが作法だと渡辺教授は言う。そういう詠み方を「回して詠む」という。そこで、頓阿は知恵を絞った。白居易の『新楽府』(しんがふ)という諷喩詩の中に「澗底松」(かんていのまつ)という漢詩がある。それを利用した。「澗底松」とは谷底に生えている松の大木が誰にも知られずにおいて死んでいくということを詠んだ。つまり、優秀な人材が埋もれたままで死んでいくと言うことを嘆く漢詩だった。そのようにも古びた澗底の松も、花と並んで立っているので、花盛りには菱に知られることだろうと詠んだのだ。人跡まれな谷底にまで花を探し求めているという趣旨である。
 
等持院贈左大臣家に歌よまれしに、花随風
さそひゆく嵐ばかりや桜花散るぞわかれと思はざるらん 草庵集・二○八
誘っていく嵐だけが桜花が散るのを分かれと思わないのだろう。
 
等持院贈左大臣とは足利尊氏のことである。「回して詠む」べき題は、「随(したがふ)」である。これを直接言わずに、どのように納得させられるかが鍵である。日は誰しも゜花が散るのは別れだと思っている。だけど、嵐だけはそうは思わない。誘いかける花は付き従ってくれるのたから。まるで、花と嵐が恋愛関係にあるかのような擬人法であり、落花を惜しむ人のうち捨てられたような気持ちを匂わせている。
 
民部卿家老若歌合に、風前夏草
夏草の茂みに見えぬ萩の葉を知らせて過ぐる野べの夕風 草庵集・三四六
夏草の茂みの中に隠れて萩の葉があることを、知らせるようにして野辺の夕風が吹きすぎる。
 
民部卿は、二条為世の次男為藤のことを指す。頓阿は為藤にも歌を教えてもらっていた。さて、風に吹かれる夏草を詠むのだが、鬱陶しく茂っている夏草と涼しげな風をどのように関連づけて詠むかが問題なのだ。
頓阿は風に吹かれる夏草の茂みに隠れている萩を選んだ。萩の葉が風に吹かれる音で分かる。秋を先取りしたのだ。秋は涼しさをも伴う。
 
前関白殿にて、九月尽夜といふことを
迷ひても立ち帰れとや行く秋の別れを月は送らざるらん 草庵集・六六一
迷って立ち戻れというのか、月は行く秋との別れを惜しむことなく隠れたままだ。
 
前関白は二条良基を指す。「九月尽」とは九月の最終日、つまり秋の終わりを詠むことになる。「夜」と秋との結びつきを月で示した。月末最後の日は、「つごもり(月籠り)」であって、月は出ていない。つまり、月が出ていないので暗いから月は迷う。迷わせて立ち戻らせようとするのかと推測する形を取った。
 
渡辺教授は、これらの例から頓阿の手法を読み取る。次元の違うと思われる観念や景物を対置して、そこから中心になる題材を照らし出す。新しさを盛り込み、肝心なことは想像に委ねて「余情」を生む。想像に委ねられた事柄は「理想」に当たるものだろう。理想は祈りの一形態だと見なされる。
後岡屋前関白家にて、時鳥未遍
いづくにか今宵鳴くらん時鳥月も里わく村雲の空 草庵集・二七三
 どこで今鳴いているのだろう、時鳥は。月でさえ里を分け隔てする、村雲のかかる空のもと。
 
後岡屋(ごおかのや)前関白家は近衛基嗣(もとつぐ)のこと。時鳥未遍(ほととぎすいまだあまねからず)は、時鳥が自分間ところで鳴いてくれない事を歌う題である。月が村雲のために里を区別して差している。「里わかぬ」月光は、『源氏物語』の末摘花の光源氏の歌の言葉である。連歌的一首であるが、次の付合が収載されている。
 暮れ行けば村雲まよふ風吹きて 
時雨も月も里や分くらむ 続草庵集・六○二
 
金蓮寺(こんれんじ)にて暁時雨
 うき物と思ひもはてず有明の月にしぐるる村雲の空
 辛いものだと思い切ることさえもできない。有り明けの月に時雨を運ぶ村雲がかかる、そんな空模様で。
 
 暁と時雨を結びつけるのに月を介入させた。有明の月で暁を表した。それが時雨の雲で定めなく曇る、とした。これは本歌取りの次の歌を見れば一目瞭然だ。
 
有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし
古今集・恋三・六二五 壬生忠岑
有明けの月が無情に見えた別れのときから、暁ほど辛いものはない。
 
有明けの月がかかる暁の空は、別れを思い出させるので辛い。忠岑はそう詠んだ。しかし、頓阿は、辛い物だという恨みに浸りきることもできずにいる。晴れたり曇ったりする時雨の雲に、月もまた隠れたり現れたりする。ここにも連歌的な手法だと渡辺教授は言う。
 

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