方丈記3

長明26歳の時には、遷都(首都移転)という大事件が起きた。
原文
また、治承四年水無月の比(ころ)、にはかにみやこ移り侍りき。いと思ひの外也(ほかなり)し事なり。おほかた、此のこの京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百余歳を経たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず憂へあへる、実(げ)にことはりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣公卿みな悉く移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰れか一人、ふるさとに残りをらむ。官位(つかさくらゐ)を得ることに思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとくうつろはむと励み、良き時をうしなひ世にあまされて、期する所なき者は、憂へながらとまりをり。軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて、淀河に浮かび、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の床園を好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京にいたれり。所のありさまを見るに、その地ほど狭(せば)くて、条里をわるにたらず、北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすしく、潮風ことに激し。内裏(だいり)は山の中なれば、彼(か)の木の丸殿(まるどの)もかくやと、なかなかやうかはりて、優(いう)なるかたも侍り。日々にこぼち、川もせに運び下す家、いづくに作れるにかあるらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋(や)は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は、皆浮雲(うきくも)の思ひをなせり。もとより、このところにをるものは、地を失ひて憂(うれ)ふ。今移れる人は、土木(とぼく)のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべき方々は馬に乗り、衣冠(いくわん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。みやこの手(て)振り、たちまちに改(あらた)まりて、たゞひなびたる武士(ものゝふ)にことならず。世の乱るゝ瑞相(ずいさう)とか聞けるもしるく、日を経(へ)つゝ世の中うきたちて、人の心も収(おさ)まらず。民(たみ)の憂(うれ)へ、つゐに空(むな)しからざりければ、同じき年の冬、なをこの京に福原より帰りたまひにき。されど、すでにこぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様(やう)にしも作らず。古(いにしへ)の賢(かしこ)き御世(みよ)には、あはれみを以(もち)て国を治め給ふ。すなはち殿に茅ふきても、軒(のき)をだにとゝのへず、煙(けぶり)の乏(とぼ)しきを見給ふ時は、かぎりあるみつき物をさへゆるされき。是民をめぐみ、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
 
現代語訳 佐藤春夫訳
治承四年六月頃の出来事であったのだが、俄にわかに都が他の場所に移った事があった。この事が非常に急に、不意打ちに行われたので都の住人は驚き且かつは狼狽したのであった。
 大体京都に都が定められたのは嵯峨天皇の御時であって、もう既に四百余年も経っているのであるから、何か特別の事情の無い限りはそう易々やすやすと都を改める等と云う事はあるべからざる事なのである。だから人々はどんな特別の事情があるのかと心配して、その心配の余りに平和であった人心が乱されてしまったのも真に無理からぬ事ではあった。けれども人々の心配も何もあったものでなく、遂に天子様はもとより、大臣、公卿達も皆悉ことごとく新しい都である福原へ移転してしまった。世に重要な地位を占めて働いている人々はもう誰一人として古い都の京都に住んでいる人は居なくなってしまった。位くらい人身じんしんを極める事を唯一の希望とも理想ともする人々や、天子様の御覚えの目出度い事を願っている人々は一日も早く古い都を捨て去って新しい都の福原へ移り住む事を一途に心がけた。けれども世に取り残されて位もなく何等の望も、理想もない人々はこの出来事に対して悲しみ、愁えながらも古き都を捨て得ずに淋しく残っていたのである。
 高位高官の人々、富有な人々の居なくなった古き都の有様はあまりにも物淋しかった。軒並にその美しさを争っていた堂々たる住家は、日が経つにつれてだんだんと住む人もなく手入も行き届き兼ねて荒廃し果てた。又その住家の中には打ち壊されて福原へと筏いかだに組まれて淀川に浮べ送られて行ったのも多い。毀こわれた屋敷の跡は見ている間に畑になってしまった。真に昔の面影すら見る術すべもない有様であった。こんな大きな変事は人心にも多大な影響変化を与えずには措かなかった。見る見る中に都会人としての優雅な気持はすっかり無くしてしまった。そんな気持が色んな所に現れたものであるが先まず昔の様に牛車等に公家達が乗ったのも、もうそんなものには乗らずに武家風に馬に乗ってその敏捷な所を好むと云う様な所に現れて来た。これを見ても昔の如く優雅なのんびりとした風はなくなってしまった。又その所領の望みでも今は平家に縁故の多い西南海の所領を人々は目ざしたけれども新都に遠く離れた東北の庄園は誰も望むものはなくなってしまった。この様に総てのものが変ってしまったのである。
 私はふとした偶然の事から摂津の国の福原の新しい都の有様を見る機会を得たのでその状態を述べて見ると、先ずその広さと云うものは京都に比べると実に狭いもので、京都に習ってその市街を碁盤の目の様に区劃する事さえ出来ない有様なのである。北の方は山になっていて高く、南の方は海に面して低くなっている。そして海岸に近いので浪の音が絶えず騒々しく響いて来るのである。海から吹いてくる潮風が殊の外に強い所であまり恵まれた土地と云う事が出来ない有様である。さて最も重要な皇居は山の中に建てられてあった。ふとその建物を見て斉明天皇の朝倉の行宮あんぐうの木の丸殿まろどのもこんなのではなかったかと思えて考え様によっては存外に風情があって、風変りなだけに雅致のあるものであるかも知れないとも思われた。こう云う新しい皇居のお有様、新しい都の状態であった。
 京都の方では毎日毎日引越に人々は忙しかった。多くの住居は毀されては筏に組まれて河を下って運ばれるので、さしもに広い淀河も如何いかにも狭い様に思われる程筏で一杯になってしまった。この様にして多くの家が福原へと運ばれているのであるが、福原の土地を考えて見るとこちらから送られた程には家が建っていないからまだまだ空すいている土地が多くあった。建ててある家の数は少ししかない。一体あれだけ、河幅が狭く見える位に送られた家は何処に建てられるつもりか又何処に建てているのか一向に見当も付きそうにはないのであった。
 京都は益々、日々と荒れ果てて行く、そして新しい都福原が都として完備するにはまだまだ日数が必要なのである。こんな時勢の間に住む人々の心持の落ち着こう道理もない。まるで青空に浮び漂う雲の如くに風の間に間に動いて真に不安定そのもの、人々の心は暗かった。元から福原に住んでいた人々は新しくお天子様と一緒にやって来た官人達の為にその土地を奪われてしまって嘆き悲しんでいる。又新しくやって来たそれらの官人達は自分達の住家を建てなくてはならないので、その面倒な仕事の為に苦しんでいる。どのみち好もしい事どもではないのである、ふと往来を行き交う人々に目をやって見ると牛車に乗るべきである所の貴い身分のものがそんなものには乗らずに馬に乗ったり、衣冠いかん布衣ほいを着ていなければならない筈はずの大宮人達は新興の勢力に媚びて武家の着る筈の直垂ひたたれなどを着て大宮人の優美な風俗を無くしてしまい、そうして遂には都らしい優美に、雅致のある風俗は見る見る中に無くなって唯もう田舎めいた荒々しい武士と少しも変る所のない真に情けない有様となった。
 ほのかに聞き伝える所によると昔の聖天子様の御代には御政治の中心点は一般庶民を憐れむと云う所にあった様である。民草達が貧乏の為に苦しんでいる時とか、何かの変事の為に苦しんでいる時などは尊貴の御身であらせられながら御自身のお住いの皇居の事などは少しもお構いなさらずに、軒の端に不揃いな茅かやの端が出ていてもそれさえお切りにならせられずに、その上に民草が食べるお米のない時には年貢さえも免除された程なのである。こうした御事は世を平和にお治めなされたいという忝かたじけない大御心から出るのであって有り難いものなのである。所が現在の有様はどうであろうか、やれ都の移転だとか何だかと云っては人心を平和に治める所か不安のどん底に落し入れている有様ではないか、もっともこれは清盛が無道の極端な専横の現れなのであるが、何にせよ昔の聖天子様の御代の事を考え合せて見ると実に隔世の感に堪えぬ有様は、真に嘆かわしい事である。
 養和の頃の出来事であったと覚えているが何分なにぶんにも古い事ではっきりした時は云われないのだが、その頃の二年の間と云うもの実にひどい飢饉のあった事があった。実に惨憺たる状態ありさまを呈した事があった。春から夏にかけての長い間に一滴の雨すら降らず、毎日毎日の日照り続きで田畑でんぱたの作物は皆枯死してしまう有様であった。それかと思うと秋になると大風があったり、大雨が降って大洪水になったりして全く目も当てられない様子で穀物等の収穫はまるで無く、唯徒いたずらに田を耕し畑に種を蒔いたのみでその甲斐はなく、秋の忙しい苅入れ時には何もする事がなく、全くの、前代未聞の災難が起ったのである。だから一年分の米もなく、食物もない有様である。
 食物の無い先祖伝来の土地の生活、それは苦難の連続でなければならない。だから人々はその先祖代々住みなれた土地を見捨ててしまって諸国を放浪して歩いたりする様になった。またある人々は家や耕地を全まるで見忘れたかの様に見捨ててしまって山の中に入り込んで暮らしたりしていた。山の方がまだまだ木の実等の食物があったからであろうと思われる。
 こうした真に惨憺たる状態にあっては人々は自滅の途を辿るより他に道がないと天子様の方でも御心配にならせられて色々な御祈祷や特別に霊験あらたかなと云われている修法等を執り行わせられたものであるが、一向にその験しるしも現れては来なかったのであった。
 元来京都の人々は何事によらずその物資の供給を総て田舎から受けているのであるから、その供給者である田舎が天災の為に物資が全然取れなかったのであるから、京都の人々は勿論もちろん物資の不足を告げる様になって来たのである。京都は全く物資の供給者を失った事になったのである。こうなると困るのは京都の人々である。第一に食物を得る事が出来ない。それでその食物を得る為にとうとう恥も外聞もなく、家財道具を捨て売りにしてはお米を持っている人々の所へ買いに行くのだけれどもこう物資の不足している時に大事なお米は売れないとあって、とても高い値でなければ売ってくれない。こう云う状態だから、どれだけお金があっても宝物があってもどうにもならない有様である。だからだんだんと日の経つにつれて乞食共が多くなって来て、路傍に一杯群がって食を乞うその哀れな叫び声が道に満ち溢れて聞えて来る様になって来たのである。しかし養和元年もこの様な惨憺たる有様の中にどうやら暮れてしまったのである。
 
治承四(1180)年六月二日に、平清盛が平安京を捨て、摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)の福原遷都したのだ。遷都のような重大な出来事が、何の前触れもなく、いきなり行われようとは、誰も予想だにしておらず、都は上を下への大騒ぎになった。遷都のきっかけは、隻に触れた「鹿ヶ谷の陰謀」である。しかし、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の福原行幸からわずか半年も経たない十一月二十一日には京都へ還幸せざるを得なくなった。源氏挙兵に伴う措置である。これは人災ともいうべきものである。独裁者の身勝手な思い込みによる人災はいつの世にも絶えないのだ。
 
安徳天皇の即位に伴い、代始改元として「養和」が次の年号になった。出典は『後漢書』(逸民伝・台佟たいとう)の「幸得保性命、存神養和」である。勘申者は藤原敦周。ただし、平清盛は改元を待つことなく、治承五年閏二月四日に熱病で病死した。ちなみに、源氏としては平氏手動で行われたこの改元を認めず、ずっと「治承」という元号を用いた。朝廷が源頼朝による投獄支配を公認する「寿永二年十月宣言」が出される寿永二年十月十四日までは治承を使ったのだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?