百人一首についての思い その18

 第十七番歌
「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは」 
 在原業平朝臣
 様々な不可思議な事象が起こったという神代の昔でさえも、竜田川の川面がこんなに見事な紅葉に飾られるとは、聞いていなかったであろう。
 
 Such beauty unheard of
 even in the age of the raging gods―
 the Tatsuta River
 tie dyeing its water
 in autumnal colors.
 
 今度は在原行平の弟である業平の登場である。
 支那や朝鮮は、王朝が交代する度に前の王朝の文化や歴史をことごとく全否定するところから始まる。正当性は自分たちにあるぞという主張である。今日の韓国でも、政権交代のたびに前大統領が逮捕されるが、あれもやはり選挙の洗礼を受けて誕生した政権は、新しい王朝交代なのだということの証しのだろう。
 
 しかし、日本は世俗の政治権力こそ変化するが、権威を持つ皇室のおかげで古代からの文化や歴史をそのまま引き継いでいる。これはなんともありがたいことであり、実に喜ばしいことである。
『古今集』にはこの歌の詞書きとして「二条后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形をかけりけるを題にて詠める」とある。二条后は、藤原高子であり、清和天皇の女御だった人である。つまり、二条后が皇太子の女御だったときに作られた竜田川に紅葉が流れている屏風に、業平が歌を添えたということだ。
 
 業平は、『日本三大実録』には「体貌閑麗、放縦不拘 略無才学 善作倭歌」とある。つまり、「見た目は良く、物腰は優雅である。性格は自由奔放で、学問はできるほうではないが、良い歌を作る」ということらしい。
 ある歌を読めばだれにもその歌の意味が理解出来て、しかも絵と非常にマッチした歌を作れるという人は、現代でもそんなにいないだろうと思う。視覚に優れた人が聴覚にも優れているとは限らないからだ。だが、業平は視覚も聴覚も鋭かったのだろう。
 
 

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