百人一首についての思い その42

 第四十一番歌
「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」 
 壬生忠見(ただみね)
 恋をしていると私の噂が早くも立ってしまいました。誰にも知られないように、密かに思っていたのに。
 
 I had hoped to keep secret
 feelings that had begun to stir
 within my heart,
 but already rumors are rife
 that I am in love with you.
 
「まだき」は「早くも」という意味だ。
 第四十番歌の平兼盛と第四十一番歌の壬生忠見の二人が歌を詠んだときに年齢がいくつだったのかは私には分からない。だが、私の勝手な想像ではもうすでに若くない男だったのではないかと思う。しかし、平兼盛の歌には純朴さや純粋さがあったのに対して、壬生忠見のほうはいささか技巧に走りすぎてしまった。だからこそ、平兼盛に軍配が上がった。少なくとも小名木さんはそのように解釈している。私には、和歌の技巧については素人であり、そこまでは分からない。
 
 だが、現実は残酷である。勝つか負けるかは判者がどのように優劣を付けるのかにかかっている。壬生忠見は身分が低かったので、この歌合で勝てば立身出世も可能だったが、惜しくも敗れてしまった。それにしても、和歌の才能一つで立身出世も叶うとは、なんとも凄い仕組みがあるものだ。まあ、支那にも詩歌の才で出世したり、公邸の近くに仕えたりした人は多いことも事実だ。
 
 話はがらりと変わるが、小名木さんよれば、当時の絵画を見ると女性は腰よりも長い髪を後ろで縛った形をしているらしい。髪が長ければ手入れも大変であろう。つまり、長い時間を掛けて髪の手入れができるほどに豊かで平和な時代だっのだろう。男性は女性に対して純情であり、女性は大切にされていたという。
 
 一説によれば、どちらも名歌なので判者が困っていたところ、帝が「しのぶれど」の歌を口ずさんだことから、平兼盛の勝ちとなったというエピソ―ドがある。負けた忠見は落胆のあまり食欲がなくなり、ついには病で亡くなってしまったという話もあるが、真偽のほどは分からない。
 
 ところで、話は変わるが、私がとても好きな女流歌人に宮内卿という人がいる。後鳥羽院の元で活躍した人だ。
『薄く濃き野辺の緑の若草にあとまで見ゆる雪のむら消え』という非常に優れた歌を詠んだので、「若草の宮内卿」とよばれた。だが、和歌にのめり込んでしまい、20歳くらいで亡くなってしまう。だから、壬生忠見が歌合に負けたことで、食欲がなくなりついには死にに至ったというのも分からないわけではない。
 
 なお、私は宮内卿の歌を元歌にして、次のような狂歌を詠んだ。
「薄く濃き鏡の己が髪見れば後頭(あと)まで見ゆる髪のむら消え」
 
 

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