西行の足跡 その44

恋と月の条
 
42「ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん」 
 山家集上 秋・353
 月を見ていると私の心は澄みに澄む。このままどこまで澄んでいくのだろう。私は一体どうなってしまうのか。
 
「ならんとすらん」は、いくつか先例がある。
 
「世の中をかく言ひ言ひの果てはいかにやいかにならむとすらん」 
 拾遺和歌集・巻八・雑上・哀傷・詠み人しらず
 この世の中をこう言ってみたり、ああ言ってみたりしても、あげくの果ては一体何がどうなってしまうのだろう。
 
 ここで、少し分解して考えないとわかりにくい言葉がある。
「ならむとすらんむ」とは、「成ら+む+と+す+らむ」となる。つまり、ラ行四段活用動詞「成る(《変化して》別の相を現す)」の未然形「成ら」+推量の助動詞「む(…う)」の終止形「む」+格助詞(帰着点を表す)「と(…と)」+サ変動詞「す(…する)」の終止形「す」+推量の助動詞「らむ」(…だろう」の連体形「らむ」である。つまり、成ら(成ろ)む(う)と(と)す(する)らむ(のだろう)で、「なろうとするのだろう」。
 
「とてもかくかくてもよそに嘆く身の果てはいかがはならとすらん」
 和泉式部集
 ああしてもこうしても結局は世の中からの疎外感に泣くことになる私は、そのあげくの果ては一体どうなってしまうのだろうか。
 
 さて、西行の歌に戻ろう。西行のこの歌は、未来への期待と不安が綯い混ざった表現になっていると、西澤教授は解説する。そういえば、西行という人は出家したことを後悔するのでもなく、修行が足りないことに絶望するでもなくという境地というか立場や考えが一筋縄では行かないようなところが最初からあった。
 
「くまもなき月の光に誘われて幾雲居まで行く心ぞも」 
 山家集上・秋・327
 一点の陰りもない月の光に誘われて、私の心は浮かれる。どこまでも遠くどこまでも空高く。
 しかし、私の心はそこに行ったからと言って、満たされるものだろうか。
 
 この歌を詠んだのは「菩提院前斎宮」(殷富門院)の御所である。御所や門院を「雲居」を比喩している。月光の清聴を以て御所や門院を賞賛しているのだ。




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