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生活に足りない行間
『Life Goes On』のアルバムを作っていたとき、「繰り返しの日常」のようなものについて、曲や映画や小説や、いろんな形で人の表現を見た。
そのころ僕は、実家で細々とアルバイトをしながら他人の表現を浴びるように摂取したり、夜な夜な一人で親の車を乗り回したり、その車内にコンデンサーマイクを立てて夜明けまで歌を録ったりしていた。エンジンの音も拾うので夏場でもエアコンは無し。長くてもせいぜい2、3時間程度だけど、終わるころには身体は汗でぐしょぐしょ。冬場なら自分の熱気で窓が真っ白になった。
僕は地元にあまり馴染めなかったので、高知から愛媛に戻ったあとは一人の時間が多かった。地元でライブをするわけでもなく、周りや自分自身にいらいらしたりしながら、ただ悶々と日々が過ぎていった。
その時期に戻りたいとは思わないけど、今思えば、あのときの生活にはたっぷりの行間があったと思う。
「繰り返しの日常」を本文とするなら、その行間になる「予期せぬ非日常的瞬間」は、たとえば自分にとっては映画や本を摂取したり、曲を作ったり、帰り道で見つけた綺麗な夕焼けを気の済むまで眺めたり、たまたま通りがかった知らない街並みに惹かれて寄り道探索したりすることだった。それは自分の意識を「今いるここ」から連れ出してくれた。そこにずっと留まることはできないけれど、帰ってきた自意識は何かが少し変わっていて、それが積み重なって、なんとか生き永らえていた。
今、僕は前より多く働いていて、ありがたいことに関わる人も増え、前はできなかったこともたくさんできている。けれどこの生活に行間は少ない。しかも実家にいたときより、毎日ずっと疲れている。だから気の済むまで思いを馳せる時間がなかなか取れず、「次の電車が来るまで見る夕日」とか「移動中の車内で考える歌詞」みたいなことになってしまう。それはそれで意味のある時間だけど、意識がずっと「今いるここ」に留まったままになるのは、とてもつらい。
かと言って何かうまくできる工夫があるだろうか?やることに追われて、毎日疲れていて、遠くに思いを馳せる余裕もなくて、自分の中の大事なものが少しずつくすんでしまってる気がする、みたいな曲が出来たらいいなぁ、と思いながら、歩き慣れた道をとぼとぼと帰る。
たとえ社会的肉体的に満たされていたとしても、本文だけの生活になってしまったら、気持ちは狭い枠に閉ざされてしまって、しんどくなっていくだろう。もっと余白が欲しい。最適化じゃ削ぎ落とされるもの。おやすみ。
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