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第8話 小田原北条氏討伐での働き

天正16年(1588)、西国の大大名・毛利輝元が上洛しました。秀吉謁見後、輝元ら一行は諸大名の屋敷をまわり、御礼を行っています。7月25日、家康の屋敷へ訪ねた際、家康は聚楽第へ出仕しており、留守でした。この時、対応にあたったのが忠勝です(「毛利輝元上洛日記」)。
忠勝は大久保忠隣とともに輝元らから太刀代千疋を贈られており、この二人が屋敷の留守居を任されていたと考えられます。つまり、忠勝は本来家康が果たすべき御礼への対応を代理として務めたのです。
またこの年、忠勝は甲斐などへの伝馬手形、駿河の金山衆への定法の発給などそれまで見られなかった領内統治への関与が確認されており(「秋山文書」等)、豊臣政権から「従五位下 中務大輔」に任命されています。忠勝にとって天正16年はまさに躍進の年なのです。
天正18年(1590)、秀吉は諸大名に小田原北条氏の討伐を命じました。家康も忠勝らを先発させました。4月、忠勝は徳川本隊と別れて鳥居元忠や平岩親吉とともに別動隊として関東へと出陣しました(「家忠日記」)。5月20日、浅野長吉(長政)のもとで岩付城を攻めます。
この際、忠勝らは秀吉から女子供はこちらへ送り、そのほかは撫で斬りにするよう直接命じられています(「古今消息集」)。その結果、忠勝らは三河衆を失いながらも岩付城を落城させました(「家忠日記」等)。なお、この手柄は浅野から秀吉に報告されたようで、家康から浅野にお礼を言うよう指示されています(「古文書集」)。

忠勝らに宛てた秀吉の朱印状写。岩付城攻めに関する指示をしています。


6月25日、相模へと移った忠勝らは津久井城を包囲し、1日で降伏させました。家康から津久井城の受け取りと兵糧等の用意を怠らないよう命じられています(同上)。なお、この前日に元忠らと連署で三増郷に禁制を発給しており、その後7月23日付で高谷延命寺へ禁制を出しているので、忠勝は単独で上総方面へと出陣したようです(「相州文書」)。上総方面にいる北条方への牽制のためと考えられます。
小田原城落城後、忠勝は滝川忠征に宛てて書状を送っています(「滝川文書」)。秀吉から万喜城と兵糧計4000俵を拝領したことを伝えるとともに、忠征が共に戦ってくれたからだと感謝の意を述べています。なお、秀吉は忠勝のほかにも井伊直政、榊原康政へも領地を与えています。
この3人が徳川家を代表する家老であることを如実に示しており、酒井忠次ら松平時代から家康を仕えてきた譜代家臣が次々と去っていったこの頃には、忠勝らがその役割や地位を引き継いでいたと考えられます。

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