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第5話 本能寺の変と忠勝~徳川家臣としての立場~

軍事面・外交面で活躍している忠勝ですが、本能寺の変前後の立場が諸史料から窺えます。天正8年と10年には家臣たちによる家康への正月年頭の挨拶において奏者(取次)を務めており、5月には家康と同族である深溝松平家忠へのお礼の使者として派遣されています(「家忠日記」)。
また、本能寺の変後には石川数正とともに織田家家臣へ書状を発給し、内外ともに徳川家重臣としての役割を果たしています。このころの徳川家中において、忠勝は酒井忠次、石川数正という両家老に次ぐ立場であったことが窺えます。
天正10年5月、忠勝は家康とともに安土城の信長のもとへ参上した。おそらく、忠勝も家康同様にもてなされたことでしょう。その後、堺へと赴いた家康一行に先んじて、忠勝は京へと向かいます。この日はちょうど6月2日でした。その途中で、茶屋四郎次郎とあい、本能寺の変のことを知り、急ぎ馬を引き返して家康へ知らせたとされています(「石川忠総留書」)。
この時、忠勝は腹を切ろうとした家康を諫めて帰国させた(「石川忠総留書」)とも、雑人の手にかかるぐらいなら自ら腹を切ろうと勧めた(「石川正西聞書」)ともいわれていますが、どちらが正しいかはわかりません。ともかく、忠勝が何らかの助言をして家康を浜松城へと帰還させたことは間違いないでしょう。その後、家康は光秀討伐のために出陣します。
6月14日、忠勝は織田家家臣の吉村氏吉と高木貞利へ書状を遣わし、家康の鳴海着陣を知らせるとともに、参陣と人質提出を呼びかけました(「吉村文書」等)。忠勝らはこれより以前に彼らと情報を共有しており、光秀討伐に対して用意周到であったことがわかります。なお、吉村宛は石川数正との連署です。

「石川忠総留書」の該当箇所
「石川正西聞書」の該当箇所


しかし、すでに光秀は織田軍によって討ち取られており、その報が伝わると、やむなく浜松城へと撤退しました。ちなみに、貞利との関係はその後も有していたようで、貞利から吉野織の敷物を贈られた返答の副状を忠勝が発給しています。

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