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【桜花拾】郁田はるきへの鳴き声、あるいはすべてが無駄であるとして私たちに残されるものは何か?

 本来、シャニマスで誰か一人のアイドルを扱う際、私たちはゲームの要請であれ私たち自身の問題であれ、任意のカードコミュはひとつの断片としてしか受け取ることができない。それは彼女ら自身の時間の流れ方もそうだし、共有されている空間もそうだし、人格においては何をかいわんやである。ゆえに、本記事が【桜花拾】に限って――筆者が他の郁田はるきのカードを持っていないという単なる事実に制限されるというただそれだけの要因で――郁田はるきに言及することは、筆者がこれまで書いてきた浅倉透や黛冬優子への言及ほどにはフォーカスが適切であるかどうかは分からないし、実際精度としても上の二人ほどのものは望めないだろう。この記事もあまり長いものにはならない(6000字弱)。が、アイドルマスターシャイニーカラーズというゲームがいかなる問題を扱っていて、なおかつその問題にどういう展望を与えているのかのひとつの指針がこの【桜花拾】というコミュに端的に表れているだろうという見立てから、本記事は書かれている。そしてこのコミュへの言及の少なさに対して、いくらか筆者の書くような雑文でも【桜花拾】が貢献できるようなことがあるのだとすれば、それはその時点でこの文章の目的は果たされたことになるだろう。

はじめに――道徳モラルとしての永遠、その彼岸

 ここでは名前を出さないが、ある人が言っていたシャニマスに対する言及で非常に適切だったものに、「世界がほんの少しだけ良くなる物語」という文章がある。これは、単にビッグバジェット産のプロジェクトであるがゆえに「きれいごと」を言わなくてはならないという要請以上に、私たちが意識的にであれ無意識的であれ、ほとんどの場合よくあろうとする意志によって普段生活していて、その「よくあろうとする意志」の程度にシャニマスという物語が要求する道徳の水準が適しているということでもある。それは黛冬優子という人間が悲劇そのものであろうと、七草にちかの喜劇性が痙攣した笑いを引き起こすものであろうと、最終的には彼女たちは救われようとはせずに運命によって救われる。それを予定調和と呼ぶかどうかは些細な問題であって、ここで言われるべきはいかに彼女らが悲惨な宿命を背負っていようと私たちは彼女らに救われてほしいといつの間にか願ってしまうようにこのゲームは仕向けられているということである。
 しかし、そういった道徳性と骨がらみとなっていながら、私たちはコミュの中に明文化されていてもいなくても、シャニマスに確かに「永遠」というテーマを嗅ぎ取ってもいるだろう。浅倉透や幽谷霧子、杜野凛世といったキャラクターに表象される、プレイしていて清められていくようなあの感覚が永遠でなくてなんだろうか。あるいは、【三文ノワール】や【ノンセンス・プロンプ】ではっきりと「永遠」というテーマが打ち出されたコミュを読んで、少しでもアイドルという呪いと祝福で引き裂かれた職能とそれに潜む無限の時間について思いを馳せないプレイヤーがいるだろうか。そしてそれらのキャラクターやコミュは、「今」という線でも点でも表せない時間と永遠が「よりよく生きよ」という命法のもとで合致することの美しさによって私たちの記憶に残っている。「一瞬をよりよく生きることが、私たちの永遠なのだ」というテーゼは凡庸だが、すべての凡庸が悪というわけではない。そういった凡庸じみた普遍によって、私たちの気高さや誇りというものが支えられているのだから。
 しかし、である。アイドルになったことが、プロデューサーと出会ったことが、すべて「それはただそういった帰趨に収まっているからそうなっただけのこと」として捉えられ、「今という永遠」ですらなく、より巨大で道徳も倫理も存在しない無常において「永遠」という時制を捉えるのだとしたら、どうなるだろうか。そしてその場合、プロデューサーだけでなく、「私たち」とアイドルの出会いさえ、「そういう収まりにたまたま落ち着いているだけ」としか言いようのないものだとして、私たちはシャニマスというゲームをただむなしいだけのものとして一蹴しないことができるだろうか。【桜花拾】で、郁田はるきは、今までシャニマスで表現されてきた「道徳と永遠」の結びつきについて、判断を無限に留保してしまう。いや、彼女が取る方法は、単なるエポケーよりもいっそうラディカルとさえ言えるかもしれない。というのは、彼女がプロモーションムービーのセットにおいて表現した「この世ではなく、はじまりも終わりもない場所」においては、よいことも悪いことも何もないからだ。すべての彼岸で、あらゆる価値判断は霧消する。そこでは時間や空間といった直観の形式は消え失せ、溶け込んでしまう。こういったうねりの磁場とでも言うべきものが、【桜花拾】においては働いているのだ。
 本記事では、【桜花拾】の物語を説明することは特にしない。それは他の書き手がいずれやることだろうし、物語のコンティニュイティをここで別の言葉に置き換えることにはあまり意味がないからだ。しかし、二つのトピックに焦点を絞り込むことによって、それぞれの記述は短いものとなるだろうが、【桜花拾】の本質を可能な限り汲み出すことを目的とする。そして、最終的に郁田はるきという人物は、永遠と時間のアンビヴァレントにいかなる結論を見出すのか、ということについていくばくかの考えを巡らせてみよう。

誰の「永遠」なのか?――いや、誰のためでもなく

 はるきに家具のプロモーションムービーの演出の依頼が舞い込んでくる。テーマは「永遠」。家具を使うのと、はるきがムービーに出演するのが条件である。「永遠」というテーマのみが与えられた時点で、はるきはこんなことを言う。

「わたしの永遠」なのか「みんなの永遠」なのか、という二項対立がここで示される。個人と一般における主観性において、主観も客観も存在しない「永遠」という時制を、しかも映像で表現するのは当たり前に難しい。提示されているのは、この段階ではまだ「永遠」が示されることによってはるきやプロデューサー、もしくは私たちが人称性を伴って救済されるということの前提である。もう少しシャニマスのコミュの通史的な視点を持ってパラフレーズしてみるのであれば、例えば【三文ノワール】では「アイドルという永遠」を冬優子が監督に向かってこれでよしとするものの、映画の冬優子演じる「ユウコ」が台本上で肉体的な永遠を選び取ってしまうことによって「アイドル」という永遠の中でしか、、、、救われない、つまりフィクションの外側でやがて朽ち果てる肉体を持った冬優子は永遠によって救済されることはないという結論が示されていた。【桜花拾】の冒頭では、個人と一般のどちらの視点から「永遠」を描くのが適切か、、、、という問いが提起されることによって、どうすれば誰にとっても(あるいは、フィクションの外側も内側も)朽ち果てることのない文字通りの「永遠」を表象しうるかという真の問題が浮上させられることになる。
 当然、このようなあいまいさに対するはるきの厳密さは、他のところでも現れることになる。映像に限らず音楽などにおいても、非言語芸術におけるステートメントの恣意性はいい方向に転ぶこともあれば悪く作用することもある。「永遠」というタイトルをつければ、なんでもそのように見えてしまうのではないか、というはるきの疑問は、きわめて真っ当である。

これに対してプロデューサーは、「それでもいいんじゃないか」という旨の台詞を返す(このあと選択肢になるが、基本的にどれを選んでも同じ内容である)。【桜花拾】の難しさは、最後までプロデューサーがミスリードの役割を果たしていることで、このミスリードは結局それがミスリードであることが明かされない。後ほど述べるように、はるきの「永遠」は、はるき自身も、プロデューサーも、誰に対しても等しく訪れるものでありながら、誰に対しても不干渉なものでしかない。ただそこにある、という形でしかはるきは「永遠」を表現しないのだが、プロデューサーはTrueEndまで「はるきにとっての永遠」にこだわってしまう。ここでのプロデューサーの「それでもいいんじゃないか」は、「はるきだけの永遠」というような形で素朴な読みを許してしまいかねない。

「あなた」を――人称なき後の呼びかけ、そしてアンチヒューマン


 少し飛んで、もっとも重要なコミュである4コミュ目「ここにいないあなたを」の末尾に触れよう。はるきは、事務所でプロデューサーを待つ間、プロデューサーの椅子を見てもう彼が帰ってこないのではという悲劇的な予感に襲われる。インスピレーションを得たはるきは、そこからムービーの草案を書き上げる。「はじまりも終わりもない場所」と、「いなくなってしまった人の椅子」。そこでは、あたかも「かつていた誰か」、もしくは「かつていたあなた」が奇妙に両立している。不定の三人称と、固有の二人称のはざまで、はるきはその椅子に腰かけるのでもなくもたれかかる。それでは、この「永遠」と名前のついたムービーの中で、はるきが呼びかける「あなた」、誰でもない「あなた」、ここにいない「あなた」の「あなた」とは誰なのだろうか?

このシーンではテクストオフで「あなただけ」とボイスが乗る

はるきがここで言う「あなた」は、一見するとプロデューサーのようだ。なぜなら、プロデューサーと一緒に歩いているときにそれを「永遠」と呼んでもいいのではないかとか、プロデューサーの椅子を見ているときにアイデアを思い付いたというあたりが、そのような安直な発想を引き込みかねないからである。しかし、ここで肝というべきなのは、はるきは「あなた」と言っておきながら、それが誰のことも指示していない、、、、、、、、、、、、という事実である。つまり、ここではるきが「あなた」と呼びかけることの目的とは、出演してしまった、、、、自分の像を映像からではなく呼びかけの次元における「あなた」と「わたし」において「わたし」を消去するとともに、呼ばれている「あなた」でさえそれを呼ぶことで「わたし」が消え去り、「あなた」という言葉の責任を失効させて二人称としての意味を失わせることである。そしてその自己の消去と二人称の無化によって、はるきの言う「永遠」は誰のためのものでもなくなる。はるき自身も、はるきとプロデューサーも、「みんな」も、何もかも指示し包摂する対象を失うことで、「永遠」はそれが永遠であることの固有の普遍性を獲得する。テクストオフで音声のみで「あなただけ」とされているのは、文字にされることで発生する「あなた」の指示対象を消去し、郁田はるきという特異な圏域(ここでは人格でさえない)の中で発生する「永遠」という時間のアスペクトを示すためである、とさえ言うことも可能であろう。
 そして、TrueEndでははるきによる「ネタバラし」が行われる。先ほどのプロデューサーのミスリードも踏まえつつ、はるきのここでの述懐は、やはり彼女の考える永遠というものが徹底的に唯物論的なものでしかありえないことの証明になっている。つまり、「いつかプロデューサーがいなくなり、二度と会えなくなる」というアイドルにとっていずれ訪れるある種の「死」を予見しつつ、それはそういうものであり、その後も時間は流れていくことをはるきは自覚している。この自覚は、私たちにとって生活の上では当然のことかもしれないが、シャニマスをやっていて「アイドルにならなかった(あるいは、やめた)彼女たち」に固有の人生があり、そしてそれがコミュに描かれていないところで続いていくという事実を突きつけ、ややもするとぎょっとするような印象を抱かせるのではないか。

ここでは、「永遠」がアイドルの永遠でもなく、アイドルとプロデューサーの永遠でもなく、収まるべき帰趨を示すだけのそれとしてしか表現されていない。そして本来永遠とはそういうものだったはずである。道徳や実存といったものの救済として、確かにアイドルが見せてくれる永遠というものは存在したし、そしてそれが永遠である以上今後も存在し続けるだろう。しかし、他方で、私たちを覆い尽くす巨大な事象のうごめきとしての永遠もまたある。はるきが桜の花をつけた枝の横で遠くを見つめるその視線の先に、そういった揺るがしがたい運命や宿命といったものもあっただろう。反人間的であることをいつか私たちはありうべき文学の在り方として称揚したが、どこまでも人間主義的なこのゲームの中で、ぽっかり空いた空洞のようなアンチヒューマンの響きが冴え渡るその瞬間を、必ずや聞き逃してはならない。そして、人間の力ではどうにもならないものの存在を隣に感じることによって、もう片方の隣にいる誰かのことを真に愛することができるのである。【桜花拾】の幕切れは、そのようにして終わっている。

 

 【桜花拾】が示す永遠が特異なのは、その永遠がアイドル自身をさえも賦活しえないものであるということである。何を名指すのでもなく、何に名指されるのでもなく、何を救うのでもなく、ただ自己顕現するものとしての永遠。そういう意味で、はるきは永遠を表現したのではなく、永遠にかぶさっているヴェールを剥いだとも言える。プロデューサーとの二者関係に関してさえももはや問題ではない。「ただそこにある」ということのかけがえのなさのみが賦活されるべきなのである。

おわりに

 大変駆け足になってしまった上、十分な長さを持った記事ではないが、ざっくりと【桜花拾】の旨味を説明できたのではないかと思う。冒頭にも書いたように、一つのコミュを取り出してきて、それを一つの完結した宇宙として語りなおすことはほぼ不可能である。様々なコミュが異なる時間や空間、また一貫した人格を語るのだし、その中でホログラムのように浮かび上がってくるアイドルの像をかろうじて結ぶことが私たちシャニマスファンがコミュを読むうえでできる精いっぱいのことである。【桜花拾】は、それまでアイドルの実存と結びついてしか(そして、それゆえ説得的だった)表現されてこなかった「永遠」を実存と結びつけることなく、ある種の因果の帰結のみを取り出し、なおかつ郁田はるきという人物のパーソナリティやチャーミングさ、そして幽谷霧子にも通じる彼女自身が超越と通じていると感じさせるような不思議な魅力とマッチさせた稀有なカードコミュであると断言できる。

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