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相手が子どもでも、初心者でも”簡単に弾ける楽譜”を使わないわけ

最近文学の専門の方A氏とお話する機会があった。

話の内容は生徒に提供する教材について。
A氏は基本テキストを使わないそうだ。特に難解な原書を初心者用に編集されたものは使わないとのこと。
その代わり、原書を使うとのこと。

難しすぎるから生徒にはどうなんだろう?

そんな疑問をぶつけてみた。

「別に理解できないところがあってもいい」
「え?いいの?」

昨今簡単にされたものを与えられ、それで理解することをよしとする風潮がある。難しいものだとスタートする気が起きないのでとりあえず漫画で理解するなどということを否定するつもりは全くない。それは個人の好み、目的によると思う。
知識として知りたいなら価値があると思う。

A氏は続けて、
「何年も読み継がれてきたのはその価値があるから、本物だからでしょ」
「有名な文学は簡単にしてしまったら意味がない」と言っていた。

「著者が有名だから続いたのではなく、作品がすばらしかったから著者は有名になったよね」と。

だから簡単なものを与えられると理解はできるし楽だけれど、生徒は馬鹿にされたような気持ちになるのだという。

「絵画だって本物をみてもわからないからって簡単な絵を見せたりしないでしょ」と。

小さな子や絵画に疎い人に本物を見せたって、と思うかもしれないが未来に向けての投資なのかな?と思った。

何年も後になって本当の意味を知るということもあり、喜びもある。でも本物を知らないとそこで学びは終わる。

以前、「これなかなか良い本だよ」とA氏に頂いた本がある。
「なんじゃこりゃ?単語の意味を調べても意味わからんな。なんか詩っぽい書き方だし・・・」そして日に日にそのきれいな本は鉛筆の書き込みで真っ黒に。どうしてもわからなかったところも多々あるものの(不明部分、現在も絶賛継続中)、多読用のガンガン読める本より満足感があった。

でもいつかふとその本を開いた時に「あ!こういうことか!」と分かれば嬉しいし、その時が来なくても自分はいいと思った。

一方多読のためにと買ったどう見ても子ども用の洋書を読んでいる時はどこか情けなかった。
別にクッキーがうまく焼けようが焦がそうが、誰がクラスメイトの宿題を隠したとかどうでもいいのだ。

何にせよ、A氏が大学生の時に読んだ本で名作と言われたものにチャレンジし、時々こんな美しい言い回しがあるんだ、と感じることが財産になった。

そんな話をしていてふと思ったのが、生徒用の楽譜。

「自分の生徒にも本物を提供したい。」

名曲を弾きたい生徒用に簡単にされた楽譜をよく見かける。
これもやはり好みで、生徒がそれでピアノをもっと好きになればプラスに作用しているのだと思う。

でも可能な限り本物を見せたい。確かに多すぎる音、そして小さな手では届かない音がある。
それは音をレベルに合わせて削ればいいかもしれないと思った。そして弾いていくうちに弾ける音符が増えていくことも喜びだ。

そう言えば先日のルイサダ氏が言っていたこと。
「よく小さな子がショパンのバラードをきれいに弾いているのを見るが、精神がまだ未熟な状態で弾かせることに疑問を持つ」というもの。

適齢敵曲ということか。
その年齢にあった曲がありますよ、と言っていた。

またこうも言っていた。
「環境によって年齢で精神年齢がものすごく発達している子もいるのでそれも考慮しなければならない」と。

自身もピアノの生徒でもあり、色々な先生に習ってきた。
ある先生は〇〇氏の運指も丁寧に書かれ、編集してあるものを勧めてくれた。
一方ある先生はなるべく原書で、という方針。
編集されていないと弾きにくい部分もあったり、自分で考えないといけないことが増えた。

取組中は苦痛に感じてやっていたことだが、その苦痛が同時に誇りも与えてくれた気がする。そして作曲者との距離がぐんと縮まった。いちいち感動しながら楽譜とにらめっこ。

ウィーンで買ってきたお土産。マグネットシートの上で睨みを効かせるベートーヴェンを以前より近くに感じるのは気のせいか。

難しくても本物に触れることの機会を与えてくださった先生に感謝しかない。そして基本子どもでも初心者でもなるべく同じ体験をしてもらいたいと思った。

話の始めは夏の疲れでいまいち覇気のなかった先生。
文学について話しが進むにつれ瞳がキラリ☆、口角アップ⤴、なんだか肌艶も良くなってきていた気がした。




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