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特別講義の課題図書p152に出てきた言葉ではっとした。「すごい人は、なんとかなるんですよ。でも社会としては、すごくない人に合わせていかないと、うまく回っていかない。仕組みを作るときは、すごくない人に照準を合わせないといけないんです。」

偶発性


「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」という計画的偶発性理論の通り、生活や人生には偶然・運に依る部分もあると思う。生い立ちから学ぶ場、人間関係や職場に至るまで。
生活の中で起こる出来事には運のあるなしで大きく4つに分けられると思う。
①「運よく経験」
②「運悪く経験」
③「運よく未経験」
④「運悪く未経験」
例えば九大生の今年に関しては
①伊都へ移転完了、ノーベル賞受賞者が九大の訪問教授
②台風で学祭が中止
③3年前のように入学式が荒天でなかった
④人それぞれ(個人的にはロバートキャンベルや上野千鶴子氏の講演を多くの人が聞く機会がなかったこと)

JOKER

ここで最近見た映画が思い浮かぶ。バットマンの悪役の誕生を描いた『JOKER』では、アーサー・フレックの悲劇的半生が時に迫真的に、時に明るく映される。
舞台のゴッサムシティでは伝染病が蔓延しており、路地裏では日中でも暴行が行われるなど町の文化レベルは低い。そこで病気で寝たきりの母と暮らしている。まずその時点で彼は恵まれていない。引っ越そうにもできない事情があるのだ。
偶然を受け入れられるかどうか。今置かれた場所で咲くことができるか。彼は序盤は貧しくも明るく暮らしていた。だが、ある出来事から脆く保っていた基盤が崩れていく。そうなる背景をマップ化したのがサムネ画像だ。
下の画像は学校生活を運により「経験・未経験」した結果得ると考えられるものだ。

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運悪く経験したことでも、「運が悪かったのも一因だ」と割り切ることができればいいものも、簡単なことではない。自分を責めたり周囲や環境のせいにしたりしてしまうことも多々ある。ここでは全く同等の努力をしていても生まれや自立するまでの経済的事情等どうしようもない要因により異なる結果がもたらされることを取り上げる。

運は再分配できるか

中学受験や就活、転職という次のステージへの審査が注目されるが、そこに至るまでに文化資本の蓄積や障壁なく学ぶことができる環境に左右される部分もある。
私の地元には漁師の息子やひとり親家庭、ひいては○○団の子どももいる。ドラえもんで描かれるような父親がサラリーマン、母親が専業主婦で家に帰れば誰かがいるというような家庭はテレビの中だけなんだなぁと思ったことを記憶している。
そのような野比家のような家庭とそうではない家庭では、子どもが同じ時間机に座っているとしても教材の有無や見える進路の違いがある。それが試験の合否に少なからず影響を与えている。ドラえもんのような勉強を促す・教えてくれる存在(塾や家庭教師、通信講座)や未来の進路を見据えアドバイスしてくれるような存在(オープンキャンパスとかキッザニアとかに簡単にアクセスできる)は「運よく経験」できるものだと思う。当たり前だと思った世界が国内の別の場所では全く別の様相を見せる。SNSを通して分断が可視化されてきた。
理想と現状が乖離していること、それが課題というならば現状を改善するのが解決策たり得る。だが、運というものはお金のように形はないから、再分配することはできない。
じゃあどうすればいいのか。(あまりこういう表現は好まないが)運悪く外れくじを引いた人にもできる限り平等にチャンスを与えるような制度がより重要になってくる気がする。

まとめ


”社会”という、人が介在する以上ある程度主観や感情的部分にゆだねられる環境では運悪く絶望の淵に叩き込まれた経験は重視されないかもしれない。社会を動かすor仕組みを作る立場にある人・団体は、一人一人に寄り添い問題をくみ取り解決へと動き出すことが求められるのではないだろうか。マザーテレサのような。ネットでリディラバの活動や安部さんの信念を見るとそう思う。


また現代ではほとんどの人がネットにアクセスできる。(2017年時点で日本国内のインターネット利用者は80%超)
しかしながら「情報弱者などおらず、情報を取捨選択して各々で判断できる」という見解は誤りだ。機器を持っていても利用の仕方・何の情報源に重きを置くかは千差万別。
複雑情報にあふれている世界ではより情報に踊らされる可能性もある。
技術が進歩していく中で分断がより進んでいるように感じられる。
すごくない人に照準(仕組み)を合わせていかないといけない。この言葉が響いた。