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こんなことがしたかったんじゃない。

「教職課程を取らないなら、大学辞めなさい」

 本当は、絵を描きたかった。出来るなら、愛知を出たかった。
「そんなに上手じゃない」
「うちにそんなお金は無い」
「そんなレベルの低い大学目指すの」
振り返ると、大好きな母親はそんなことばかり言っていた。筆も持てなくなった。金銭の話題を盾にされたら、もう諦めるしか無かった。私には、県内の大学で、普通の文学部を選ぶしかない。と、いう本質は大学生になってから顕在化した。受験生当時の私は、「自分が選んだ進路」だと信じて疑わなかった。4月にスーツに身を包み、大学へ繰り出した。新しい生活が待っている。そう心躍らせたあの時間は何だったのだろうか。

 「世界史」が好きだから、歴史学を専攻した。教職課程は取るものだと思っていた。しかし、いざ箱を開いてみると、それは「不自由」の塊だった。ふんわりとした認識しか持っていない私は、「教育」というものを分かってはいなかった。大学で取らなければならない教養の単位。私は歴史が好きなだけなのに、歴史だけが好きなのに、教職の都合で地理まで勉強しないといけないのだという。教職には基礎科目もあって、卒業単位にプラスして59単位も取らなきゃいけないのだという。そんなの、やってられるか。私は「NO」を示した。母は憤慨して、父は「何しに大学行くの」なんて言い出した。教員免許なんて、持っていたって何の役にも立たない。英語の免許を持つ母が何にも活かしていないのに大口を叩く。父は持ってすらいないのに。

 父と母がそんなことを言い出す原因は明白だ。私にはなりたいものが何も無いからだ。そんな娘に、逃げ道として公務員の免許を用意しようとしているのだろう。自分だって親だったらそう思うに違いない。自分の子どもが、ましてや長女が就職難に悩まされる姿なんて見たくないだろう。二人の優しさは痛いほど分かる。その優しさが刃となって私の大学生活を蝕むのだ。

 教職課程の基礎科目を受けている時、未来予想図を書かされた。「〇〇な教師になる」とか、理想の教師像を書きなさいなんて言われた。シャーペンを持つ私は硬直した。どんなに振り絞っても「なりたくない」と涙しか出てこないのだ。どうしてこんなことをしているんだろう。どうして、こんなことをしなきゃいけないんだろう。私はただ、普通の大学で普通に歴史の勉強をしたかっただけなのに。

 でも、私と同じように教職課程をとっているひとは、みんな希望に満ちたキラキラした目をしていた。これを頑張れば「教師になれる」。そんな希望しかない彼らにこんなクソみたいな理由で受講して免許だけ貰おうとしている輩なんて邪魔でしかない。もちろん辞めたいだなんて相談は出来ない。だから教職仲間なんてできっこない。ただ1人で、意味の無い授業をイヤホンをして聞く耳をもたずに無駄な時間を過ごしている。だって子どもが嫌いだから、そんな職に就くとは思えない。

 でも真面目だから毎日講義に出てしまい、休まず課題を提出してしまう。そんな生真面目な自分も大嫌いで、反抗出来ない自分が大嫌いだ。喧嘩しようとすると、涙が出て何も言えなくなってしまう。「すぐ泣く」なんて罵られては、止まらない涙に自己嫌悪が連なっていく。よくこんな精神状態で、リストカットも不登校もしなかったなと思う。教室に居ても友達なんて居なくて、部活にだけ拠り所があった。そんな、そんな奴が、教員になんてなれるわけないだろう。

 そんな、そんな感情が、地誌の講義中に込み上げた。目の前では興味もない南アメリカの風景が映し出され、何喋ってるかよく分からんジジイがピーチクパーチク喚いている。あぁ、私がしたかったのは、学びたかったのはこんなのじゃない。西洋古代史のゼミの授業は一瞬で終わってしまうのに、このクソつまらない教職に必要な科目の数々は、私を追い詰め、履修登録の時期にはまた私を病ませる。あぁ、辞めたい辞めたい辞めたい辞めたい。

 辞めたって何が残るんだ?

勇気のない私は、また踏み出せずにそんなことを考えてしまう。母と向き合い、真っ直ぐに気持ちを伝えることも出来ない。今までずーっと優等生だった。怒られずにここまで大きくなってしまった。私がやりたいことはなんだったんだろう。ノートに少女の絵を描いた。もう、下手で下手で嫌いで嫌いで仕方なくて、すぐにそのノートを閉じてしまう。

 こんな状態で教職課程を辞めたいなんて、自信を持って言えない。「やりたいことを見つける」という夢が、自分の不甲斐なさを痛感させる。小学生の頃の、漫画家になりたいとかいう夢を諦めてから今まで、私の22歳以降の人生は黒いままなのだ。でもだからって、やりたくも無い職業で生活を繋げるとは思わない。一般企業より金を貰えるからって、そこで担うのは何人もの子供を背負い導いていくこと。自分のことも導けない奴が何を偉そうに。

 いつだって足りないものは勇気だ。成績だって別に悪くない。磨けば協調性だって、苦手なことだって出来るようになる。知恵も力も持っている。ゲームでも、現実でも、いつも欠けるのは勇気だった。

 母が大好きな、中島みゆきの歌が頭の中を駆けた。ふと思い立ってYouTubeで検索をかける。「ファイト!」
その歌に耳を傾けて、電車で座って泣き出してしまった。誰も隣に座ってはくれなかった。

「私の敵は私です」


 慶應義塾大学に入って、自分の学部に興味を持てなかったから、相方の卒業に合わせて中退。

 高校を卒業してからフリーで活動。

そんな選択どんな勇気があったら出来るんだろうか。母が弟に「NSC行きなよ」なんて言った。弟は申し分なく面白いから。


「私男に産まれれば良かったわ」


私の絵はずっと褒めて貰えなかった。だけど母は、妹に「絵上手いから美術系の大学でも行けば」なんて言った。妹は、私の心をへし折るほどに絵が上手だった。


「闘う君の歌を闘わない奴等が笑うだろう」





私は闘えてすらいない。逃げて、これが正しいと言い聞かせては、失敗して、こんなはずじゃなかった場所にいる。もうどうしようも無い。やりたくない事の数々が、私の前に立ちはだかり、私を狂わせる。才能があったらまた違ったのか?自信を持って自分を売り出せたのか?勇気を持って選択を出来たのか?分からない。分からない分からない分からない。

ガクチカになりもしない教職課程に日々を蝕まれ、私の大学生活は酷くつまらない物になろうとしている。流れ流されてきた人生だった。でも、母が私にだけ「〜しなよ」とかを言わない理由も分かるのだ。私が自分自身の選択だと信じていたように、母も私の選択だと思っているからだ。


3年生になる前に、教職課程をやめなければならない。このまま無駄な時間に人生を蝕むのは絶対に違うから。抗わなければならない。勇気を持たなければならない。なんにも使えない免許のためにこんな涙を流す必要は絶対にない。

 「助けて」を言えない人生だった。「この日休んじゃったからノート見せて欲しい」とか、言える人間じゃなかった。だからそれを回避したくて毎日学校へ行った。だから今も「助けて」を言えずにここまで来てしまっている。

まとまりのない愚痴がボロボロと零れるだけの酷い文章の羅列だ。もう読んでる人は居ないのではなかろうか。


中学生の頃からずーっと真っ暗な22歳の春の予定。私はその時笑っているのか。はたまた息をしているのか。







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