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ロロ 劇と短歌『飽きてから』感想 飽きてから愛おしいものをこそ


少し前に、ロロ 劇と短歌『飽きてから』を観てきた
ギリギリだけど配信終わる前に劇を見て思ったことがまとまったので、感想noteにします

以下すべて敬称略



とにかく鈴木ジェロニモが良すぎる


メタ的な良さとキャラクターとしての魅力が両方振り切れている

そもそもこの『飽きてから』を絶対に観に行こうと思ったきっかけは、鈴木ジェロニモの出演コメントの最後を読んだからだった

三浦さんのまなざしによって僕の体がロロになる。

夏ごと好きになりそうだ。

https://x.com/llo88oll/status/1809067906032152598?t=Jzbn752wEmdpZ6c3fTb8zQ&s=19


なんて素敵な言葉だろうと思った
劇場に行ったら、少しは私の体もロロになれるだろうかと思った だから絶対に観に行こうと思った

そんな鈴木ジェロニモの、ちいさくなりたい無骨さみたいなものがもうフルパワーで観られる こんなに愛おしいことはない


具体的に言うと

まず登場から良い、「謝るなら、僕ですよね」
激ポジティブ弱気で良い

友達の子どもにプリキュアステッキ買っていったらもう持ってて飽きちゃってて、どうでもよくなっちゃうの愛おしい

で、ワイヤレスイヤホンで聴いてたのが恋人が自分に宛てたラジオて

頬杖(森本華)と青(望月綾乃)とがふたりで話し始めたから薔薇丸(鈴木ジェロニモ)がすみっこでそのラジオ聴いてるシーン、あんまり楽しそうに嬉しそうに愛おしそうにしてるからもうそっちしか観れなかった 「神回だぁ」じゃないよ


ブリーチの短歌のあとかなぁ

だいぶしんみりしてうるうるしてたのに、「瞳をとじて」feat.鈴木ジェロニモはずるい
1番全部聴けるなんて思わないじゃない

私下手の一番通路側だったから、食らってるの見られたかもしれない
でも会場で一番楽しそうに聴いてた自信ある

Your love forever….


飽きるということ


そんな愛おしい愛おしい言ってるけども

『飽きてから』は、「愛おしさ」の危うさについて描いていたと思う

愛おしさだけではどうにもならないことをひとは「飽きた」と呼ぶのかもしれない

冒頭で雪之(亀島一徳)が「飽きるって、愛ゆえにじゃん」って言ってたのもそういうことだと思う


愛おしさだけでどうにもならなくなったのは、間違いなく雪之・青・しっぽ(上坂あゆ美)の3人だ

青は、雪之やしっぽのことを愛おしいと思っていただろう

でもそれが危ういっていうのは、その愛おしさは容易に庇護欲とか恋愛とか、そういう重さを持ってしまう

重さって結局、ひとを傷つけることにもつながってくる

その重さを、重すぎるからってぽいぽい捨てていったところで、急に飽きちゃうのかもしれない

それで手元に重さがなくなったとき、それでも一緒にいたいというのが飽きてからの愛おしさなのかもしれない


ここまで考えたところで

抱えきれない愛からその重さをぽいぽい捨てていって、それでも残ったものが愛おしかったらいいね、みたいなの、めっちゃ短歌じゃない!?!? って思った


頬杖と薔薇丸


それで言ったら、頬杖は、「捨てるはずのものを大事にするひと」といえるんじゃないか

涙って本来落ちて捨てて消えるものだけど、それをビー玉にして取ってあるんだから

捨てるはずだったくす玉を誰かにあげちゃうのは、捨てるべきものの押し付けが良い方向に働いた例なんだ(本当に良い方向かは置いといて)、それは希望になり得ると思う


そして薔薇丸は、「いっぱい捨てて少しのものしか持ってないけど、残ったものを大事にするひと」なんじゃないか

短歌やってる方がこの役割なんだとしたらすごすぎる

チョコザップを点々として暮らすチョコザッパーなのとかもそうだし、せか中しか観たことないとか、それで恋人とその真似をしてラジオ交換してるとかもう、自分の持てるちいさなものを愛する人として完璧じゃないか

好きだ


雪之・青・しっぽが捨てたもの


雪之は、仕事が重すぎて、仕事じゃないものを捨てちゃったのかな

だから、自分とか人生とかうまく考えられなくなっちゃうし、最後には大好きだったはずの調理師の仕事にも、飽きてしまった

しっぽはきっと、そもそも抱えておける量が少ないのだと思う だからあけっぴろげに何でも口に出すし、ふらりとどこかへ行ってしまう

青から重さを受け取りすぎてしまったから、捨てるためにいなくなったんだと思う そのあとに残ったのは、「家族になりたい」じゃなかったんだね

青は、自分の持ってる重さに気づかなかった
何をあげても受け取ってもらえなくて辛かったんじゃないか

でもだからこそ、頬杖や薔薇丸と関わることで少しずついろんなものを捨てていくんだと思う


そうしてみんないろんなものを捨てて、飽きていって

でもあのラストシーンを見る限り、3人でいること、それ自体はきっと愛おしかった

残ったものは少なかったかもしれないけど、それでも愛おしかったというそのことに価値があるんじゃないか


飽きてから愛おしいものをこそ


飽きてから愛おしいものをこそ、捨てていって残ったものをこそ、私たちは大事にするんじゃないか

だから、いろんなものが捨てられた後の57577の言葉に惹かれるんじゃないか

演劇を観て、全部は覚えておけなくて、それでも自分の中に残るエッセンスを大事に抱えて、それに惹かれるんじゃないか


そして確かに、私は演劇のそういうところが好きなんだと思う

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