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       無辜の人

【あらすじ】
 小学一年生の少女が二人、悲惨な死体の状態で発見されます。
 所轄の二人の刑事が捜査に駆り出されます。先輩刑事の方は、冷めた目で捜査の成り行きを見守ります。一方、新聞社とTV局に勤める友人同士の男性も、捜査の成り行きに注目します。
 その捜査線上に中年男性が浮かび上がります。しかし具体的な証拠が発見されず、捜査は行き詰まります。捜査が行き詰まるなか、捜査班の幹部が交替します。交替した幹部刑事による強引な捜査によって、捜査線上にあった中年男性が起訴され、冤罪を訴えながら死刑になります。
 死刑になった男性には娘が一人いました。その女性が成人し、父の獄中日記を目にしたことから、父の無罪を信じて再捜査を決意します。


無辜の人

 目が覚めて瞼を開く前、生まれたての胎児のようにすべてがクリアされて無に帰している。厳男いわおはその瞬間が好きだ。
 瞼を開くまでの数秒間、自分の今ある状態を確認する。生まれてから六十年余りの出来事が瞬時に巡り、まず自分が生きていることを認知する。寝ている場所を確認し、現在の境遇を記憶の深淵から引きずり出す。現在の自分を確認し終わると、できるだけ静かに瞼を持ち上げる。そうして起床の合図が鳴るのを、布団の中でじっと待っている。
 昨夜は一晩中雨が降り続いていた。重く垂れこめた薄墨色の雲間から、朝の陽ざしが格子窓を抜けて差し込み始めた。房の中の湿度が急激に上がるのがわかる。雨宿りでもしようと思ったのか、一匹の家蜘蛛が窓の廻り縁に巣を張っている。自由に出入りできる家蜘蛛が羨ましい。じわじわと滲んでくる汗が、首筋に纏わりついてきた。
 起床の合図とともに起き上がり、十七年間過ごしてきた生活のテンポに合わせて、体がひとりでに動き始める。洗面、朝食、着替えと、効率よく朝の支度が終わる。一週間前に老朽交換してくれた、651番と書かれた作業服に袖を通した。これから何年間ともに過ごすのだろうかと考えると、新調された作業服が愛おしい。
 午前八時に作業を開始した。今日もいつも通りの一日が始まり、十分もすると作業はテンポよく進み始める。

 遠くから主任刑務官が大声で、「菅田すがだ」と呼んでいる。暫くすると主任刑務官が近づいてきて、「菅田厳男。お前だよ」、といつもの侮蔑の作り笑顔で話しかけてきた。十七年間番号でしか呼ばれたことがなかったので、自分のことだとは気づかなかった。廻りの受刑者たちは、面会に向かう同僚に向ける、妬ましそうな視線を投げかけている。
 面会室ではなく、処遇室へ主任刑務官は導いた。いつになく、主任刑務官の後ろ姿が小さく見えた。
 刑務所では『処遇』という名のもとに、受刑者に対してさまざまな働きかけを行っている。そのために、受刑者の改善更生を図ることを目的として処遇室を設置している。一般的には懲罰の通達を行う部屋であり、受刑者にとっては好ましからざる部屋である。頭を働かせ、懲罰対象となりそうなことを思いだそうとしてみたが、思い当たる節はなかった。
 四畳程度の処遇室に入ると、主任刑務官は雑談を始めた。しかし侮蔑の作り笑いが変わることはなかった。処遇室の窓から見える空には雲一つなく、梅雨の中休みか、一面の碧空が広がっていた。
「家族はいるのか」
「地元の館山に姉がいます。両親は収監中に亡くなりました。それ以外の親戚は、あれ以来疎遠です。いや疎遠というより、拒絶されています。身内に受刑者がいるというのは、恥でしょうから」
「そうか、651番の事件は館山で起きたのか。そうだろうな、身内も一緒に罪を背負うんだよな。でもお姉さんがいるんだろ」
「自分が再審請求をしているのを知っていますから、自分の冤罪が認められて釈放されたときのことを考えて、いろいろ準備をしているようです。その時に姉がこの世にいなくても、一人で生きていけるように準備しているそうです。お互い歳ですから、『自分がいなくてもなんとか』っていって。まだまだ長丁場でしょうから」
「そうか。いいお姉さんだ」
 そこまで話すと話は途切れた。

 小一時間ほどすると、スーツ姿の男性と刑務所長が処遇室に入ってきた。検察官だと名乗るその男性は、厳男に立つように促し、B5サイズの紙を差し出した。厳男がその紙を不動の姿勢で受け取ると、刑務所長が「読んでください」といった。
 その紙の表題の一部には、『釈放』という文字が印字されていた。
 数分間、その二つの文字を見つめていたような気がする。だんだん『釈放』の文字が歪みはじめ、刑務所長がくぐもった声で何かを話しかけているのが分かった。熱い涙が二つの瞼から溢れだし、両の頬を伝い、651番と書かれている作業服の胸元に落ちた。
 だがなぜ、突然に釈放されるのかは分からなかった。
 検察官の説明によると、「唯一の証拠であったDNA鑑定の結果が覆り、無罪であることの明らかな証拠となりうる」と、高等検察庁が判断したとのことであった。これは事実上の再審決定であるともいった。一方刑事訴訟法では、再審の開始前であっても検察官が刑の執行を停止できると定めてあり、今回の処置は、刑の執行を継続すべきではないとの判断に基づくものであると説明した。これは極めて異例のことであり、今までに再審決定前に刑の執行を停止した前例はないともいった。
 主任刑務官は、大切なおもちゃを取り上げられた子供のようない訝しい顔をして、厳男を睨みつけていた。厳男は主任刑務官から眼をそらし、もう一度検察官が持ってきた紙を読み返した。そうして『釈放』の文字を再確認すると、主任刑務官を睨み返した。主任刑務官は咄嗟に目を反らした。厳男は再び検察官の方に向き直ると、「無罪であることの明らかな証拠となりうる」ではなく、「無実であることの明らかな証拠となりうる」ではないのですかと、声を荒げていった。

 昼食はカレーであった。いつも通りの麦飯カレーだったが、通常より五割り増しの量が盛られていた。処遇室で一人食べるカレーは涙が滲み、水っぽい味がした。釈放後初めて食べるカレーの味を、一生忘れまいと思った。沢山のここでの辛い思い出が、いつになく辛さの増したこのカレーの味に凝縮されていると思った。
 午後からは荷物の整理を行った。房の荷物、領置してあった荷物、洗面道具、それぞれに記入されている囚人番号を確認しながら、段ボールに詰めた。それが終わると風呂場に案内された。通常十五分と決められている入浴時間は気にしなくていいといわれ、三十分近く入浴した。髪を洗い、髭をそった。湯舟の上縁面に後頭部を乗せ、思いっきり手足を伸ばしてみた。体が少し浮いた。監視のいない湯舟に、一人で入ったのは十七年振りだ。厳男は初めて、釈放後の自由を実感した。
 風呂から上がると、弁護士が用意してくれていたズボンやジャケットに着替えた。新調されたジャケットの匂いと、型崩れするまえの少し硬い感触が、これから生活してゆく世界の新しさと堅苦しさを、厳男に教えているかのようであった。

 応接セットが置いてある立派な部屋に通された。そこには姉と弁護士が待っていた。
 二人の顔を見たとたん、崩れんばかりの笑顔が目に入ってきた。言葉が出る前に大粒の涙があふれだし、ジャケットの袖で拭っても拭っても、拭いきれることはなかった。姉が涙でぬれた笑顔で、厳男の胸に飛び込んできた。二人は膝から崩れ落ちたまま、しっかり抱き合った。そうして泣いた。言葉はいらなかった。
 主任刑務官が封筒を差し出した。
「工場での労働に対する報奨金だ。明細は弁護士さんに確認してもらっているから」
 弁護士が「四十二万六百三十五円。確認しています」というと、厳男はうなずいた。
 主任刑務官が封筒を厳男に渡すときに、「ご苦労様」と一言つぶやいた。その一言以外、刑務所関係者からの労りの言葉はなかった。迎えの車に乗ると、五十メートルほど先に頑強そうな門が見えた。車が近づくと、門がゆっくり開いた。
 平成十九年六月四日、厳男は無辜の人となり、再び自由な世界へと戻っていった。

 門の前にも、記者会見場にも、大勢のマスコミが押し寄せていた。口々に「菅田さんおめでとう」と声をかけてきた。当時は先頭きって犯人扱いしていたマスコミである。
 弁護団は、記者会見で司法への非難を述べた。
「逮捕から十七年経過しており、真犯人を見つけることは既に不可能となっております。この事実は、警察、検察、裁判所の瑕疵であります。この三つの組織は、真犯人の共犯者といわざるを得ません。なぜ司法は瑕疵を犯しても罰せられないのでしょうか。なぜ手続き上間違っていなければ、謝罪しなくていいのでしょうか。まるで司法には、謝罪しなくていいといった法律でもあるかのようです」
 記者会見で厳男は、「検察と県警に謝罪してほしい」と涙を浮かべて語った。

 正俊まさとしは朝食を食べながら、昨日房窓から見た夕焼けを思い出していた。房窓から地平線を見ることはできないが、山端で終わる夕焼けのグラデーションを想像することはできた。できることならもう一度、水平線に沈む夕焼けと、それが水面に反射する風景をこの目で見てみたいと思った。大根の味噌汁は正俊の好物だ。今日はいいことがありそうな気がしてくる。麦飯に山葵のふりかけをかけ、だし巻き卵をおかずに朝食を食べ終わった。
 何時もの疑問が頭をよぎる。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜ拘置所の独房で暮らしているのだろう。過去に何かを起こしたからであろうことは想像できたが、それが何であったのかは思い出せない。盗み、暴行、傷害、もしかして殺人。記憶にはない。だがしかし、自分は独房に監禁されている。それは事実だ。
 妻や幼い娘のことは、はっきり覚えている。妻にせがまれて奥入瀬渓流まで車で旅したことも、男鹿温泉からみた水平線に沈む夕日も、宿でトランプをして自分が負けたことも覚えている。自分が湾岸の石油精製会社で働いていた時のことも、はっきりと覚えている。
 だがなぜ既決囚になったのかは思い出せない。
 時折自分の魂が体から抜けだし、浮遊していることがある。拘置所を抜け出し、荒川を渡り、浅草寺雷門の上から参拝客を見ていることがある。その時だけは拘置所の拘束から解き放たれ、自由になった自分がいる。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッと、複数人の刑務官が歩調を合わせて歩いてくる。その足音が独房の前で停まった。ガチャガチャガチャという鍵の束が擦れあう音がした後、カチャと鍵を開ける音がした。
大串おおぐし。行くぞ」
 顔なじみの刑務官がそういい終わると、隣にいる刑務官長が言葉を継いだ。
「お別れの時が来ました」
「どこに行くのですか? お別れ? 誰と別れるのですか?」  
 正俊は怪訝な顔をした。刑務官のいつにない真剣な顔つきに、何か大変なことが起こっていることが分かった。
 刑務官が一人房の中に入ってきて、手錠と捕縄を掛けた。
 連れられていった教誨室には、教誨師の僧侶が待っていた。
「今から刑が執行されるのは分かりますよね」
 僧侶の言葉に正俊は頭を振った。
「私には分からないのです。何も分からないのです。死刑になるようなことは、何もしていないと思います。多分そんなことは・・・。なぜ拘置所にいるのかすら分からないのです」
「裁判で十分に審理されたはずですよね」
「裁判ですか。記憶にないのです。私は裁判で裁かれて、死刑の判決を受けたのですか?」
 僧侶は弱り切った顔をして、正俊の両手をしっかり握ってから、読経を始めた。
「死刑になるようなことは何も・・・。教えてください。私が何をしたのか」
 最後に祭壇のお供えものを食べるように勧められたが、正俊はここでも頭をふり、「私は何もやっていない」と繰り返した。
「最後にいい残すことや、伝えたいことはありませんか?」
 僧侶は紙とペンを正俊に渡し、最後にいい残す言葉を書き記すように促した。
 正俊は総白髪の髪を振り乱し、顔は憔悴しきって青ざめていた。そうして、「私は何もしていない」と繰り返していた。

「あなたの名前をいってください」
 最後に刑務官が氏名を確認しようとした。
「そんなことは・・・。あなたには分かっているじゃないですか」
 その後も最後の時まで、「私はなにもしていない」と繰り返していた。

 二十四節季でいう雨水の頃ともなると、空気もなんとなく湿り気を帯びてくる。草木が芽吹き始めるのももうじきだ。朝の七時半を過ぎると、小学生が家々の玄関ドアを勢いよく開き、全力で駆け出していく。その姿を、母親が心配そうに見ている。
「車に気を付けてね」
 母親の甲高い声が湿気を含んだ空気に吸い込まれ、愛犬も母親の声に合わせて吠え始める。子供たちは追いかけてくる母の言葉に気を取とられることもなく、休み時間に何をして遊ぼうかと、それだけを考えながら駆けていく。その小学生の直ぐ傍を、出勤のための車がスピードを上げて通り過ぎていった。
「麻衣ちゃん、いくよ」
 美穂と成美は登校時、麻衣の家に迎えに行くのを日課としている。あと一か月もすると、三人は二年生になる。一年近く続いている日課である。
「美穂ちゃん。成美ちゃん。おはよう。麻衣早くしなさい」
 早起きの麻衣にしては珍しく、登校の準備にもたついている。少し時間をおいて玄関に出てきた麻衣は、浮かない顔をしていた。それでも美穂と成美の顔を見ると少し元気がでたのか、大きな声で「行ってきます」といって、三人揃って登校していった。母は「車に気を付けて」といいながら三人を見送ると、忙しそうに玄関の中に消えていった。
 バブル経済崩壊の萌芽が見え隠れする、平成四年厳冬のことである。
 麻衣の家から京葉工業地帯を見下ろせる高台の小学校までは、子供の足で二十五分程度の道程である。
 麻衣の足が進まない。美穂は麻衣のランドセルを後ろから押しながら、むずかる麻衣を何とか学校に向かわせようとしていた。
「香織ちゃんに私が言ってあげるから。麻衣ちゃんを仲間外れにしないでって」
「でも昨日だって」
「何をされたの」
「靴箱の靴を隠されたの。やっぱり嫌だ。今日は休む」
 麻衣は体を翻し、家に向かって歩き始めた。
「麻衣ちゃんは家に帰ってから、お母さんになんていうの。叱られるよ。学校に行きなさいって」
 遅々として進まない二人に、成美は愛想をつかしている。
「もう登校している小学生はだれもいないよ。遅刻だよ。もう知らないから。私一人で行くからね」
 その二人の様子を見ながら少し先を歩いていた成美は、ひとり学校に向かって駆け出した。美穂は麻衣を一人にすることはできなかった。道路わきにしゃがみこんだ麻衣に、美穂は寄り添おうとしていた。
「美穂ちゃん何をしているの? 八時二十分だよ。もう学校は始まってるよ」
 美穂の母が親しくしている森本のおばさんが、声をかけてきた。二人はとぼとぼと、学校にむかって再び歩き始めた。

 陽子の車にあるオーディオからは、朝の情報番組が流れている。情報番組が八時三十分を告げたとき、赤い陽子の軽自動車が、美穂と麻衣の横を通り過ぎて行った。
 陽子は数分後に勤務先の運送会社に到着した。そのときオーディオの情報番組から、ドリカムの曲が流れ始めた。その曲を車の中で最後まで聞き、陽子が車から降りようとすると、久美子の白い軽自動車が駐車場に入ってきた。
「おはようございます。車の中でなにをしていたんですか」
 久美子は陽子の二年後輩社員である。
「おはよう。ドリカムを聞いてたの。今度渋谷に、ドリカムのコンサートに行くのよ。そうだ、今度一緒に行こうよ」
 二人が会社の事務所に向かって歩き始めると、陽子が久美子に問いかけた。
「ところで二人連れの小学生を見なかった? もう学校は始まってるはずなんだけど、とぼとぼ歩いていたから」
「どこでですか」
「小学校の少し先にある、二丁目バス停のところよ」
「別に見ませんでしたけど」
「確かピンクの防寒着に水色のランドセルだったけど。そう。変ね」
「陽子先輩。髪切りました?」
「前髪少し切りすぎたかしら」
「大丈夫です。似合ってます。素敵ですよ」
「そうかしら」
「そうですよ」

 隆は朝が弱い。いつも出勤ギリギリまで布団の中にいる。目覚ましが鳴ると寝ぼけ眼で着替え、前日の夜買っておいた、おにぎりと缶コーヒーが入ったポリ袋を掴んで車に乗り込む。冬場は顔を洗わない。フロントガラスの夜露をウインドワイパーで掃き取りながら車を発車させ、背中を丸め、悴んだ指先を丸めたままでハンドルを握る。
 小学校の前を通り過ぎるころ、やっと車の暖房が効き始めた。小学校の校門付近では遅刻しそうになった小学生が数人、校門の中に走りこんでいる。立会している教諭が「走れ」と怒鳴っている。
 隆は叔父の造園業を手伝っている。その日は小学校と二丁目バス停の中間付近にある栗田邸で、築山の増築を行う予定であった。
 隆は栗田邸前の路肩に車を停めた。停めると間もなく小学低学年の少女が一人、半べそをかきながら小学校の方へ走っていった。遅刻しそうになって急いで登校しているのかと思うと、少女の白息が微笑ましかった。自分も遅刻しそうになってよく走ったものだと、思い出していた。
 隆は運転席でおにぎりと缶コーヒーを飲み、煙草を一本吸った。それからポリ袋の底に潜んでいる、コンビニで貰った紙ナプキンを広げて顔を拭いた。その間、正面から来た赤い軽自動車と、白の軽自動車が通り過ぎて行った。
 依頼主の栗田が庭から顔を出した。隆は道を横断して、依頼主のところへ駆け寄ろうとした。その時二丁目バス停の方から、一台の車が猛スピードで走って来た。
「なんだよ。あの車。もう少しで撥ねられるところだった」
 隆は通り過ぎていく車を睨みながら、栗田にぼやいた。栗田は小学校の方に走り去る車を見ていた。
「今度見かけたら文句をいってやるからな。シボレーのブレイザーだ、よく覚えておくといいよ」
 栗田はそういい終わると、車の特徴を声を出してなぞり始めた。
「車高が高かっただろう。アメ車のステーションワゴンだ。医者の甥っ子が乗っているから分かる。車体の色はあずき色。シボレーブレイザー特有の色だな。サイドウインドーとリアウインドーには、フィルムが貼ってあったみたいだ」
 そういい終わると「さあ仕事だ」といって、庭の方に入っていった。

 九時になっても登校してこないことを心配した教頭は、車で二人を探しに行くことにした。二丁目バス停まで行ったが、二人の姿を確認することはできなかった。
 連絡を受けた美穂と麻衣の母は、二人を探し始めた。学校までの道を三往復して探した。通学路だけでなく、脇道にも分け入って探した。森本のおばさんに確認し、そこまでは登校していることが分かった。その時まではまだ、学校をさぼって裏山にでも遊びに行っているのだろうくらいに思っていた。そんな時は決して叱らず、「無断で休んではいけないよ」、と言い含めようと思っていた。午後からは小学校の教頭も加わった。放課後、学校の教諭も何人か参加してくれた。
 二人の父親も早退して帰ってきた。美穂の母は、自分を叱りつけない夫の態度がもどかしかった。いっそ怒鳴りつけられた方が、気持ちが休まるとも思った。町会長の呼びかけで、有志が十人近く捜索に参加してくれた。警察にも捜索願を出した。太陽が西の山際まで傾くと、地元の消防団が山狩りをしてくれた。
 日が落ちて薄暮の時間となると、美穂と麻衣の母には、心配する気持ちに加えて不安の気持ちが襲ってきた。父親の励ましにも応じず、二人の母はまるで徘徊する老人のように、淡々と捜し続けていた。娘たちの不安な気持ちを考えると、大きな岩が覆いかぶさっているかのように胸が締め付けられた。捨てられたポリ袋が風に揺らめくと、娘ではないかと目を凝らし、そして失望した。猫が植栽の下を走り抜けると、娘の名前を呼んで駆け寄った。
 遠くから、娘の名前を呼ぶ声が微かに聞こえてくる。その小さくて弱弱しい呼び声を聞くと、娘の不安な気持ちを思いやり、瞼に冷たい涙が浮かんできた。遠くの街路灯が、淡く、儚く、冷たく照らしていた。
 夜も九時を過ぎると美穂の家の前では、捜索してくれていた町内会の人たちの懐中電灯の光が、一つまた一つと増えてきた。口々に二人の安否を心配し、明日も仕事があるからと言って、一人、また一人と、立ち去っていった。
 二人の両親だけは夜を徹して探した。捜索範囲を広げ、隣町まで探すことにした。東の空が青みがかった藍色に色づき始めると、何かが起きていると自覚せざるを得なくなっていた。だからこそ、捜索を中断することはできなかった。
 翌朝九時からは、町内会の有志が二十人に増えた。市の消防隊からも応援が来た。森本のおばさんがおにぎりを持ってきてくれた。二人の母はその時はじめて、昨日の朝から何も食べていないことに気付いたが、食べ物はのどを通らなかった。暖かい牛乳を飲んで、また捜索に出て行った。
 通学路には小学生の登校姿があった。ピンクの防寒服と水色のランドセルを見ると、また涙が溢れてきた。不審者が二人を誘拐したとの噂が流れ、小学生には親が付き添っていた。

 源氏山ゴルフ倶楽部の柵に沿って走り、右折して源氏山の山頂に向かって二十分ほど車で走ると、クヌギの雑木林が見えてくる。その雑木林の下で、整然と整列しているのが椎茸栽培のホダ木である。二月になると椎茸の収穫が始まる。昭は椎茸の春子を収穫するために、ホダ場を毎日のように訪れている。早朝は山路が凍りついている恐れがあるので、すこし遅めに出かける。
 昼前に収穫を終え、帰るために坂道を降り始めた。降り始めてすぐ尿意を催した。年末に七十歳になった昭は、最近とみに排尿の間隔が短くなっている。軽トラックを路肩に停め、崖の下を見るとピンクと白の小旗のようなものが見えた。また誰かがゴミの不法投棄でもしたのだろうと思った。崖に向かって排尿が終わろうとしたとき、小旗のようなものの下に、肌色の足のようなものが見えた。四本の足が絡まっているかのようにも見えた。マネキンでも投棄したのだろうと思ったが、マネキンにしては小さすぎる。何かおかしい。だが夜露が乾ききっていない崖を降りるのは、七十歳の昭にとって困難だった。
 下山時に、昨晩テレビで少女が行方不明になったとのニュースが流れていたのを思い出した。昭は下山の途中で交番に寄り、念のため通報した。

 小学校から二人の死体発見現場までは三十キロほどあった。遺体は投げ捨てられたような状態で遺棄されていた。二人とも、ピンクと白の防寒着は身に着けていたが下着は脱がされ、下半身には複数の血痕が付着していた。 
 警察で両親による身元確認が行われた。安置台の上に置かれた遺体は、安置台の半分程の長さしかなかった。その遺体の小ささが、犯人の残忍さを物語っていた。母親は遺体を直視することができず、泣き崩れてしまっていた。母親たちの号泣の声が響き渡る遺体安置所で、父親が娘たちであることを確認した。
 市原警察署に市原事件捜査本部が設置され、登校路の聞き込みと、遺体遺棄現場近辺の捜索が開始された。
松田まつだ警部補。今日はどこから聞き込みを始めますか」
 細田巡査部長が車を運転しながら問いかけた。松田警部補は名前を麻雄あさおいう。本当かどうかわからないが、父親が麻雀をしている最中に生まれたので、麻雄と名付けたとうそぶいている。就業時間以外は、すべからく雀荘に入り浸っている豪のものだ。細田巡査部長とコンビを組んでいるが、細田巡査部長を一人前に育てようとする気はないらしい。細田巡査部長の何事にも無頓着な性格は、麻雄の言動に何ら違和感を持つことなく自由に行動し、麻雄とのコンビを楽しんでいるかのようにも見える。
「警部補はよせ。職位で呼ばれるほど俺は馬鹿じゃない。まず遺体遺棄現場に行ってみようじゃないか。たまには森林浴としゃれこむのもいいぞ。雀荘の空気程悪い空気はない。酸素濃度は、人類生息可能濃度ぎりぎりの十七%だと断言してもいい」
 遺体遺棄現場に到着したが、麻雄が車から降りる気配はない。
「松田さん。降りないんですか」
「窓を開ければフィトンチィットは十分入ってくる。三船みふねは遺棄現場を見てきていいぞ」
 麻雄は細田のことを三船と呼ぶ。どうやら名前が敏郎としろうということから、三船敏郎を連想するらしい。かなりの世代間ギャップだ。
「フィトンチィットってなんですか?」
「俺の汚れた体を、肺から消毒滅菌できる森林の精霊だな」
 麻雄はポケットから煙草を取り出し、吸い始めた。助手席側の窓は開けているが、煙草の煙が車内に充満した。
 敏郎は遺棄現場を確認するために、車から出て行った。花束が山のように積まれた崖の法面には、二メートルほど雑草が生えているが、その先には樹木が生い茂り、そこで遺体が止まったのであろうことは想像できた。つまり犯人は急いでいて、遺体を十分隠すこともせずにただ投げ落としたのだ。遠くから沢の水音が、被害者を悼むかのように微かに聞こえていた。
 敏郎が帰ってくると、麻雄はめんどうくさそうに言い放った。
「ホシは小児性愛者だ。必ず前があるし、このように陰湿な犯行は単独犯の男性だ。今から二人でやることはないだろう。何もしなくても被疑者はリストアップされるから、それからだな。それに車の運転ができるやつだ。こんなとき、所轄は焦るは必要ない」
「そうなんですか? それじゃあ、焦らずに行きますか」
「だがここに来る前にも、いくらでも遺棄する場所はあったよな。それに遺体以外の遺留品がないのも変だ」
 敏郎は遺留品を発見しようと、車をゆっくり走らせながら源氏山を降っていった。下山の途中、遺留品を捜索する警察官の一団とすれ違った。

 源氏山を降り終え、源氏山ゴルフ倶楽部の柵が終わるころ農協の支所があった。そこから聞き込みを始めることにした。ここでも麻雄は車から降りなかった。敏郎一人で聞き込みに行った。聞き込みに向かう敏郎の後ろ姿は、まるで幼児がおやつに向かって一目散に駆け寄るかのように弾んでいた。「源氏山は椎茸の栽培が盛んですから、誰かが毎日のように山に上がっていると思いますけどね。とくには変わったことは・・・」
 農協の職員は、昨晩のニュースで事件のことは知っていた。だが参考になるようなことは何も聞き出せなかった。そのとき、お盆にお茶を乗せた職員の女性が近づいてきた。
「そういえば今日の朝、一昨日の昼に不審な車を見たって、長原のおじいちゃんがいっていたわ」
「不審な車ですか」
「そう。あずき色のステーションワゴンで、車高の高い外車だって言っていたんです。源氏山に登る人は限られていますから、見知らぬ車がいるとすぐに分かるんです。それに冬場に登山する人は殆どいませんから」
 その時捜査本部から連絡が入った。遺留品の発見だった。麻雄と敏郎は、遺留品発見現場に引き返した。
 その現場は遺体遺棄現場から一キロほど手前だった。二人のランドセルと、下着と靴下が遺棄されていた。犯人が遠くまで投げ捨てようとしたのか、レースのフリルが付いた膝までの靴下が、片方だけ下枝に引っかかって揺れていた。娘を可愛く着飾らせようとする母の気持ちが、むなしさを際立たせていた。二つあった下着の股間付近には、淡黄色の尿斑が付着していた。
 朝雄と敏郎は農協に引き返し、長原なる人物を呼び寄せてもらった。今度は麻雄も車から降りてきた。
 長原が不審車を見たのは、一昨日の午前十一時ごろである。椎茸の収穫を終え、下山途中で遭ったといった。車の特徴は農協の女性職員がいうとおり、あずき色のステーションワゴンで、車高の高い外車であったという。下山途中、左にカーブしているところで見たその車は、長原の車に対向して駐車していた。
「その車の持ち主は、助手席付近の路肩に立っていたんです。私の車を見ると、ボンネットの下に隠れようとしたように見えました。もしかして、足を滑らせて前のめりになっただけかもしれません。変なやつだなあと思って、通り過ぎてから振り返ってみました。冬なのに、薄着だなと思ったのを記憶しています。昨日ラジオで死体遺棄のことを知って、事務員の智ちゃんに話したんです」
 翌朝、捜査会議が開催された。
 敏郎から不審車の情報が報告されたが、反響は薄かった。引き続き、聞き込みは通学路周辺と源氏山の麓を中心に行うことになった。麻雄と敏郎には近隣に住んでいる小児性愛者のリストが渡され、しらみつぶしに聞き取り捜査をするよう指示された。
「またなんと地味な役回りなんですかねえ」
「所轄の仕事とはこんなんもんだ。アリバイだけ当たればいいんだろ。楽でいいじゃないな」
「楽でいいのか。そうですね。でもこんなに沢山いるんですよ」
「前がある奴だけでなく、疑わしいやつも入っているからな」

「やあ、待ったか」
 卓見たくみは、東関東テレビ報道局に入社して十四年目になる。学生時代は女性の噂が絶えない卓見であったが、結婚してからは妻一筋に変貌した、ともっぱらの噂である。学生時代の同期で、東関東新聞社会部の勝三かつみと居酒屋で待ち合わせをしていた。東関東テレビとは系列の新聞社だ。武闘派の勝三は、友人の間では「かつぞぅ」と呼ばれている。剣道部で一緒だった二人は、時折お酒を飲む仲だ。卓見は少女二人が殺害された市原事件の打ち合わせで、待ち合わせの時間に遅れてしまっていた。
「遅れたんだから、今まで飲んだやつは卓見の奢りだな」
「お前も市原事件を担当しているんだよな」
 卓見が学生時代を彷彿とさせる笑顔で、女性店員にビールを注文しながらいった。
「これからも情報交換するぞ」
「それはいいけど、事件に関する社の雰囲気はどうだ」
「こういう事件は、なんか暗くなるよな。三年前の同じような事件も解決していないし、今度こそは犯人を挙げてほしいっていう雰囲気が溢れてるよ」
「局の方も同じだ。娘の美帆も同じ年だし、事件のことを聞いたときは胃袋を大きな手で直接つかまれたような、重苦しい気持ちになったよ。それも事件のことを聞くたびに、何度も起こるんだ。勝三のところはもう大きくなってるから、それほどでもないかもしれないけど」
 卓見は手に持ったジョッキの残りを、一気に飲み干した。
「そんなことはない。いろんな事件があるけど、こんな事件が一番神経にこたえるよ。せめて一日でも早く、犯人が挙がることを皆願っている。当面は警察のリークが頼りだけどな。人にはいえないが、実は強力なリークソースを持ってるんだ。まあ、期待していてくれ」
 勝三は自慢そうにいった。
 翌日共同記者会見が行われた。卓見と勝三も出席していた。出席者全員がいつになく押し黙っている。何とかして犯人を挙げてほしいという雰囲気が、会場の空気を重苦しくしていた。警察側もそれを察してか、事件の悲惨さを述べるとともに、早急な事件解決の決意を言葉の端々に匂わせていた。
 東関東テレビのワイドショーでは、連日市原事件のことが報じられている。元刑事の解説者が、少ない情報にもかかわらず推測に推測を重ね、あたかも見てきたかのように犯行状況を解説している。そうして再発の可能性が高いのだと、視聴者を恫喝しているともとれるような言葉で締めくくっていた。
 専門家と称する者が推測して話をしただけで、それが真実となってしまうのだ。活字情報とちがい、一度流れてしまった生放送の情報は取り消すことができない。一度過激な発言を流してしまうと、次からも同様の発言を求められ、過激さがエスカレートしていく。毎日放送されるワイドショーとともに、視聴者の犯人への憎しみが倍増していくのがわかる。視聴者の恐怖を煽る内容とともに、ワイドショーの視聴率は上昇していった。

 捜査会議では、新たな目撃情報が報告された。二人の運送会社女性社員の目撃情報から、少女二人が連れ去られた時刻が推定できた。植木職人の情報から、成美の登校状況と不審な外車情報がもたらされた。
 朝雄と敏郎の捜査にも進展があった。
 三十人近くの小児性愛者と面談した。その中の一人はアリバイが不確かだった。その他の捜査対象者にはアリバイがあった。造園職人からの情報を聞いた敏郎は、その男性があずき色のシボレーブレイザーを所有していることを報告し、男性の顔写真とその車の写真を提出した。そうして農協支所で聴取していた、あずき色の外車情報も再度報告した。
 捜査会議は色めき立った。捜査線上にあずき色の外車が浮かんできたのである。
 長原の詳細情報確認と、アリバイの不確かな小児性愛者リストの男性が重点捜査項目となった。

 捜査本部は長原の情報を踏まえ、不審な車との遭遇場所を特定した。長原は遺留品発見現場の前を三度ほど往復し、遺留品発見現場を、不審車との遭遇場であると断定した。それに伴い、捜査本部は長原から供述調書を作成した。
 供述調書の内容は次のようなものであった。
 車両番号は不明だが、国産車ではない。車高が高く、あずき色で、室内が荷台部分まで伸びている。サイドウインドウには黒いフィルムが貼ってあり、車内は見えなかった。リアウインドウにもフィルムをはっていたようだと証言した。その男は少し長めの黒い髪を、中央で二つに分けていた。冬場なのに、白のワイシャツだけ身に着けていた。咄嗟のことでよくは分からないが、年齢的には四十歳から五十歳位だと証言した。
 小児性愛者のリストにはないが、シボレーブレイザーを所持している者の捜査も行った。県内約三十件の捜査対象者には全員アリバイがあり、サイドとリアのウインドウにフィルムを貼ってある車は発見できなかった。
 朝雄と敏郎は、小児性愛者のリストにありながら唯一アリバイが不確かな男性の、捜査担当となった。

 その男性の名前は大串正俊といった。
 大串正俊は、三年前に発生した少女失踪事件の捜査線上に浮かんだ男性である。失踪した少女が失踪直前まで、大串家で大串の長女と遊んでいたのである。その少女と大串の長女とは、当時小学一年の同級生であった。失踪事件発生当日、大串は在宅していた。その事件は未だに解決していない。
 朝雄と敏郎は大串家を訪問し、アリバイの再確認を行った。
 大串は紳士然とした、落ち着いた表情で二人を迎えた。ふっくらとした柔和な顔つきと、少し長めの髪を中央で分けた髪型は、信頼できる初老の男性には見えても、小児性愛者には見えない外見をしていた。三年前の事件のこともあり、自分が被疑者として挙がることは予想していたといった。警察を信用しているから、自分が無関係だということを必ず証明してくれるともいった。
 大串は五年前、四十九歳で早期退職している。妻が湾岸の企業で経理課長をしており、幼いわが子に目が届かないことを憂慮しての、妻の希望であった。大串は主夫になる条件として、中古車ではあるが、念願のシボレーブレイザーを退職金で購入した。
 大串は朝一番で妻を会社に送り届けると、一人娘の長女が帰宅するまで自由な時間があった。
「その日は妻を勤め先に送り届けまして、一度帰宅したあと母の家に庭木の剪定に行きました。十日ほど前から依頼されていたので・・・。その後は本屋に行って少しぶらついて、何も買わずに帰宅しました」
 敏郎はメモに、病院、送り、母、剪定、本屋と書いた。いつも証言内容を小刻みに書く癖があり、読み返すときに文脈が分からなくなることがよくあった。
「母に電話しますから確認して貰えますか」
「いいですよ」
 敏郎が諒解すると、大串は電話を掛けた。確かにそのころ剪定に来たといったが、日付ははっきりしないともいった。
 その後指紋と頭髪を任意提出してもらい。麻雄と敏郎は帰署した。そのとき頭髪を五本要求したが、大串は十本近くの頭髪を抜いて差し出した。捜査には全面協力すると、念を押していった。

「えーと。剪定を頼まれて何日経っていたんでしたっけ?」
 敏郎はメモを見ながら報告書を書いている。いつも通りメモが簡素すぎるため、細かなところに確信がなくて困っている。
「一週間でも十日でもいいだろ。所詮身内の証言は採用されない」
「そうか。じゃあ間を取って八日にしておきます」
「剪定に来た日が明確ではないというところは、押さえておけ」
「なぜですか?」
「大串が嘘をいっていたとしたらどうだ」
「でも証拠価値はないんでしょ」
「こちらに都合のいい証言は別だ。大串の心情を悪くできるじゃないか」「そうか。こちらに都合がいい場合は、ですね」
 敏郎は何の疑いも持たず、報告書には日付が明確でないと、大きめの字で書いた。
 警察は沢山の証言を持つことができる。その証言の中で、都合のいいところと都合の悪いところを選別して採用することもできるのである。当然ながら、都合の悪い証言は闇に葬ってしまうこともできる。証拠につても然りである。
「俺のいった通りだろう。この事件はほぼ解決だな。膨大な証言や証拠から、大串が犯人だということを積み上げればいいんだ。大串が犯人だということは、状況証拠からして間違いないからな」
「そうか。こちらの都合のいい証拠や証言を積み上げて、大串が犯人だということを作り上げればいいんですよね」
「馬鹿かお前は。作り上げるんじゃない。積み上げるんだ」
「そうでした。積み上げるんでした」
 敏郎は書き上げた報告書をしまいながら、麻雄に問いかけてきた。
「それにしても、今日の捜査会議での長原の証言内容ですが、より具体的になっていましたよね」
「前回の会議で、お前が大串と車の写真を見せただろう。だから具体的になるのは当然だ」
「それって、どうゆうことですか。写真を見せながら質問するとゆうことですか」
「違う。写真は見せなくていいんだ。取り調べるときにシボレーブレイザーのカタログを見せながら、『この車と似ていませんか』と聞くだろ。長原が『似ているような気がします』というと、目撃車両はシボレーブレイザーということになる。お前が提出した写真の車にフィルムが貼ってあれば、『サイドやリアのガラスにフィルムが貼っていませんでしたか』と聞くだろ、もし長原が『そういえば車内が見えなかったような気がします』と答えると、フィルムが貼ってあったということになる。容姿や服装も同じ原理だ。お前が見せた写真に似るように質問し、証言を引き出すんだ」
「そういう具合に誘導するんですね」
「本当にお前は馬鹿だな。誘導するんじゃないだろう。こちらに都合のいい回答を、自発的に引き出すだけなんだ。誘導じゃないぞ」
 今までの捜査結果に基づき、大串を任意で取り調べることとなった。
 同時に科警研で、血液型とDNA鑑定も実施された。DNA鑑定は近年脚光を浴び始めた捜査手法であり、近代科学捜査の切り札と目されている捜査技術であった。

 大串は任意同行を要請され、それに応じた。
 三畳あまりの取調室の窓には、カーテンが掛かっていた。異様に明るい照明の下で、二人の取調官が尋問を始めた。取調官の尋問に、大串が誠実に答えようとしていることは分かったが、犯行については終始否認した。警察を信頼しているから必ず無実を証明してくれると、何度も繰り返した。
 取り調べはこれといった進展もなく、最後にポリグラフを受けるよう依頼された。捜査への協力姿勢を示そうと思い、大串は当然のように諒解した。
 ポリグラフ検査を開始する前に、検査官が簡単なゲームを行った。最初に大串が三枚のカードの中から一枚を選び、次に検査官が三枚のカードを順番に示した。大串は必ず「いいえ」と答える。それが終わると、検査官が最初に選んだカードを当てた。ポリグラフを信用させるためのトリックを、開始前に見せたのである。それからおもむろに検査が始まった。
 市原事件に関する質問が数十個出され、大串はすべて「いいえ」と答えた。
 検査が終了した。
「詳細な解析をしないと分かりませんが。不幸な結果が出たようです」
 検査官は思わせぶりな言葉とともに、退室していった。その言葉が精神的な圧力をかけるためだとは分かってはいても、自分が不安な気持ちになっているのが分かった。
 検査官が出ていくと、取調室で一人になった。むなしさが、取調室の中に垂れこめているのが分かった。大串は立ち上がり、カーテンの端をめくって窓の外を覗いてみた。警察署の前を通っている国道には、ひっきりなしに車が走っている。一台のオートバイがトラックを追い越し、トラックの直前に急ハンドルで割り込んだ。トラックの運転手が長く大きな警笛音を響かせ、走り去るオートバイを追ってスピードを上げた。オートバイが逃げ切ることを願っている自分に驚いた。
 警察とは何なのか。警察は潔白を証明するところなのか。それとも見込みを付けた被疑者を、罪の深淵に落しいれる組織なのか。所詮、被疑者と警察のだましあいなのか。犯罪とは、被疑者とは、一体何なんなのだろうか。  
 その後警察からの出頭要請はなかった。

 任意同行されると、大串の家にメディアが押し寄せてきた。塀を乗り越え、家族からのインタビューをとろうとする。
 メディアは犯人捜しを開始した。警察のリーク情報と正式な情報を混同し、専門家のコメントで修飾して、大串を犯人だとする恣意的な予想を大衆に行き渡させる。メディアの推測を導くかのように、警察はさらにリークを繰り返す。まるで警察の世論操作に、メディアが手を貸しているかのようであった。
 視聴者は刑事ドラマの名探偵になった気分になって、推理という名のもとに憶測を重ねる。タクシードライバーという名の捜査官が、推理と憶測を広める役割を果たす。密室での推理が、聞く者にさらに真実味を与える。
 そのようにして、警察の捜査環境が整えられていった。
 何時もの居酒屋で、卓見と勝三は意見交換をしている。
「少し大串を犯人と決めつけすぎてないか」
 開口一番、勝三はいさめる口調でいった。
「コメンテーターが、こちらの予想を超えて発言するんだ。その過激な発言が、人気の源なんだけどな。彼が過激な発言をすればするほど、視聴率が跳ね上がるんだ」
 卓見はそういいながら、蛸の酢の物を口に放り込んだ。
「だからといって、あそこまでいうかね」
「視聴率は毎週発表されるだろ。新聞は定期購読というベースがあるから、ある程度長い目でみることができるのだろうけれど・・・。テレビは毎週毎週が勝負なんだ。それにライブで電波に乗ってしまったものは、取返しつかないじゃないか」
「大串の家には、毎日非難の電話がかかっているようだぞ。それも早朝から深夜までだ。先日大串が玄関先に現れて、『無実の者を犯人に仕立て上げることだけは許せない。警察もその後、何もいってこないんだから』と、いってたぞ」
「これはキー局間の争いでもあるんだ。キー局が過激路線を推奨しているわけだから、ローカル局もそれに従わない訳にはいかないだろ。新聞にはそういったしがらみがないじゃないか」
「だが大串には、三年前の事件で容疑者に挙がったのと、シボレーブレイザーに乗っているという状況証拠だけしかないんだぞ」
 卓見は押し黙ったまま、ジョッキのビールを空けた。

 任意の取り調べが終わったあと、朝雄と敏郎は大串の見張りや尾行が任務となった。
「大串が犯人だということは分かりきっている訳だから、逮捕すればいいじゃないですか。逮捕すれば直に自白しますよ。秘密の暴露を引き出すのも簡単でしょう」
「拘留期間は最長でも二十三日だ。その間で自白させ、秘密の暴露まで引き出さなきゃならないんだ。自白が唯一の証拠だと有罪にならないんだから、確実な証言や証拠でもなければ、裁判所も逮捕令状は出さないんだぞ。それに見張りや尾行なんて楽なもんだ。そのうち捜査本部が証拠を見つけ出すから、まあ、ゆっくりやろうや」
 朝雄はあきれ顔で煙草を吹かしていた。
「今度大串の家のゴミ箱を漁ってみましょうか? きっとなにかでますよ」
「お前に任す。そんな汚れ仕事は俺にはむいていない」
「そうですか。じゃあ、やめておきますか」

 そんな日々が四か月近く続き、大学医学部の遺体解剖と、科警研での鑑定結果が捜査本部にもたらされた。少女達の死因は、手で頸部を圧迫したことによる窒息死であった。
 美穂の鼻孔からは鼻血が流れ、頬や口元に付着していた。膣内には新しい傷があり、血液が露出していた。出血の状態からして、指の爪が原因であろうと推測された。また、下腹部や防寒着にも複数の血痕が確認された。心臓血の鑑定から、美穂の血液型はO型と断定され、胃内部の状態から、推定死亡時刻は八時半から九時と推定された。
 麻衣の解剖結果もほぼ同様であったが、鼻孔からの出血は認められず、血液型はA型と断定された。
 それにもまして驚かされたのは、このような犯罪には珍しく、男性の精液がどこにも発見できなかったことだ。
 科警研の鑑定は、被害者二人以外の血液およびDNAの発見が主な目的であった。血液型については、第三の血液型が発見された。その血痕からは、O型とA型に加え、B型が新たに検出されたのである。
 DNA検査には、科警研が開発したMCT118法が使用された。この検査手法は指紋による個人識別以来の画期的手法であり、近代科学捜査の切り札として、科警研が近年採用を開始したものであった。
 ヒトゲノムにおける23対の染色体の内、第一染色体にあるMCT118座位の部位には、連続した16の特定塩基が繰り返し配列されている。科警研の手法により、その繰り返し回数は12回から37回までの26通りが経験的に知られていた。一対の染色体は片方を父親から、もう一方を母親から受け継ぐことから、その組み合わせは理論上351通りとなる。さらに血液型の要素を加えると、個人識別の確率は千人に一人にまで向上する。
 MCT118型検査とは全ヒトゲノムを分析するものではなく、この繰り返し回数の組み合わせを分析することによって、個人を識別する方法である。DNA検査といっても、ヒトゲノムのほんの一部分を検査する方法なのだ。
 DNA検査では、美穂の周りから採取された血痕から17、24、27、28の型が検出され、麻衣の周りからは17,19,26,27の型が検出された。したがってこれらの血痕は、二種類以上のDNAが混合されているものと考えられた。美穂と麻衣の心臓血は、それぞれ24・28型と19・26型であった。これらのことから美穂はO型と24・28型で、麻衣の方はA型と19・26型である。残りのDNA型から推測し、犯人はB型と17・27型であることが推定できた。
 一方大串から任意提出されていた毛髪を分析することにより、大串はB型と17・27型であることが分かった。鑑定結果は、大串が犯人であると示していたのである。
 さらに実績の少ないMTC118法を補完するため、東関東大学法医学教室において、HLADQα型のDNA鑑定を行った。HLADQα法とは、第六染色体上のHLADQA1座位にある塩基配列の違いを分析するものであり、MCT118 型鑑定とは基本的に変わらないが、型の検出方法が少しばかり違っていた。
 ところが血痕から美穂と麻衣のDNAは検出できたが、大串のDNAは検出できなかった。

「科警研の鑑定で、DNAが大串のものと一致したんでしょ。逮捕ですよね。逮捕となるとわくわくするんですよ。でも取り逃がしちゃだめだから、落ち着かないとですよね」
 敏郎は満面の笑顔で麻雄に訴えた。
「それがな、逮捕しないんだとさ。大学のDNA型鑑定で、大串のDNAが出なかったからな」
「でも科警研で検出されているから大丈夫でしょ。こちらにとって都合の悪い証拠は、目をつぶればいいんですから。逮捕ですよ」
「大学の鑑定結果は無視できないだろう。身内の科警研と違って」
「そんなもんなんですね。厄介なもんですね」
 それからも麻雄と敏郎は目に見える形で、大串を尾行したり、自宅前に張り込んだりした。

「本当に報道するのか? 裏は取れているのか? ニュースソースはどこなんだ」
 東関東新聞がDNA鑑定結果を報道すると知らされた卓見は、勝三に確認の電話を入れた。
「ニュースソースはいえない。そのことは墓場まで持っていく。デスクまで通してある」
 勝三は冷静だ。
「うちは、ニュースソースがはっきりしないと流せない」
「そうだろうな。悪いが、うちだけで書かせてもらう。すまない」
 勝三らしくない、慇懃ともいえる言葉が返ってきた。そうして続けた。「俺のネタだと知って、そちらのデスクがお前に探るように指示したんだろうが、これだけはダメなんだ」
「よく考えろ。スクープは隠蔽や逃亡や自殺の可能性があるから、慎重に対処しなければいけないんだぞ。そのことはお前もよく知ってるじゃないか」
「他社に負けるわけにはいかないんだ。裏は取れてるんだ。躊躇は負けを招くんだ。ワイドショーに負け続ける訳にはいかないんだ。他社が同じ情報を掴んでいないとはいえないじゃないか」
 矢継ぎ早にいい終わると、勝三は電話を切った。卓見の受話器からは、無情な不通音が聞こえていた。
 翌日の朝刊に、DNA鑑定結果から重要参考人が浮上したとの記事が載った。重要参考人名は匿名とされていた。東関東新聞ただ一社のスクープ報道だった。
 ワイドショーでは、なぜ逮捕しないのかという議論で盛り上がった。
 大串の家には無言電話や罵声の電話が、早朝から深夜まで途切れることなく続いた。それと同時にインタビー依頼も寄せられ、それを断るだけで一日数時間が費やされた。
 大串は押し寄せるマスコミに、一度だけ玄関先で取材に応じた。
「被害者のお二人は、本当に可哀そうだと思っています。冥福を祈っています。ですが遺体発見現場に行ったことはありませんし、私は本当に無実です。捜査本部を信じていますから、安心しています」

 東関東新聞がDNA鑑定結果の報道を行ってまもなく、大串はシボレーブレイザーを下取りに出して新車を購入した。その直後、捜査機関はその車を押収した。車は異常なほどに清掃されていた。大串は下取り店の店員に、座席シートまで外して水洗してきたと自慢そうに話したという。
 押収した車の座席シートの裏から、染み状になった箇所が発見された。水で洗い流されたような痕跡を残すその染みは、美穂の血液型と同じO型の血痕であった。さらに遺棄されていた下着に付着していた微量の繊維片について鑑定した結果、シボレーブレイザーに使用されているシートの生地とほぼ一致した。
 決定的な証拠が発見されないまま、朝雄と敏郎の張り込みは、その後も続いた。

 市原事件発生から約二年が経過した。麻雄と敏郎の張り込みは続いていた。麻雄は「こんなに楽な仕事は久しぶりだ」と、うそぶいている。敏郎に至っては、張り込み中に時折居眠りをしている有様だ。
 定例の人事異動で、捜査一課長と強行犯係長が同時に交代した。世論の期待に反していつまでも犯人逮捕に結びつかない捜査に、しびれを切らした結果であった。この二人のコンビは、県警内でも最強のコンビと噂されていた。いや最強というより、最凶と陰口をたたく者もいた。見込み捜査はもとより、証拠を捏造しているとの噂さえ囁かれている。
 鈴木捜査一課長が最初に取り掛かったのは、DNA鑑定結果の見直しであった。HLADQα法での鑑定結果さえ見直しができれば、逮捕できると踏んでいた。鈴木捜査一課長と古畑強行犯係長は、東関東大学に乗り込んだ。
「まず手始めに、MCT118法とHLADQα法の違いを教えていただけませんか」
 鈴木課長にしては珍しく、平身低頭な尋ね方だ。
「報告書を読んで頂ければ書いていますよ」
 石松教授は面倒そうに答えた。
「お忙しいところ申し訳ございませんが、何分素人ですので、要点を掻い摘んでお願いできませんでしょうか」
 同行している古畑係長が割り込んできた。
「ヒトゲノムにおける測定箇所が、HLADQA1の座位に換わるだけで、鑑定方法は基本的に同じです」
「同じなのになぜ、違った鑑定結果がでたのでしょうか?」
「違いといえば、判定方法が違います。MTC118法は電気泳動で判定しますが、こちらは検査用キットによって行います」
 石松教授は、そんなことも知らないのかといった表情でいった。
「少し専門的なご説明なのでよく分からないのですが、判定方法が違うと、どんな変化が起こるのでしょうか? いや、起こる可能性があるのでしょうか?」
「一般的には、HLADQα法は分析感度が若干劣るでしょうね」
 それを聞いて鈴木課長の表情が緩んだ。
「感度が落ちるということは、MCT118法では検出できた型が、この方法では検出できなくなるということですよね」
「試料の多少で、そういうことが起こる可能性があるかもしれませんね。あくまでも可能性です」
「それでは、試料の量はどうだったのでしょうか」
「確かに、血痕の量は少なかったと記憶しています」
 石松教授の返事が、次第にしどろもどろになってきているのが分かった。「感度が低く、試料が少ない。だから鑑定精度が落ちる」
「そういわれると、そういうことになりますかねえ」
「つまり試料が少ないうえに感度が低いことにより、MCT118法では検出できた大串のDNAが、この方法では検出できなかった。そういうことですね」
 古畑係長が畳みかけるように続けた。
「違います。可能性があるといったのです」
「いや、感度と試料の悪条件がそろうと、検出できなくなると教授はおっしゃいました。報告書にはそのように記載します。法廷においても、同じような証言をお願いします」
「はあ。そういうことになりますか」
 石松教授は、狐につままれたような表情で答えた。
 署に帰ると、鈴木課長は逮捕状を請求した。DNA鑑定を全国展開したいとの野望を持っていた警察庁も、逮捕状請求に賛同した。

 大串の朝は早い。五時には起きだし、洗濯を始める。朝食を作り、洗濯物を干し終わる頃、妻の恵子けいこと娘が起きだしてくる。三人で朝食を食べ、七時過ぎには妻を送るために家を出る。これが大串の、九年近く続く日課だ。
 最近朝の空気が重く冷たくなってきた。いつものように、ベッドに入ったままでテレビを付けた。子供が生まれてから妻とは寝室を別にしているので、テレビの音量は気にならない。ベッドの上から手を伸ばし、カーテンを開けた。
 窓の外はまだ薄暗い。窓の外にある街灯の白い灯りが、朝靄のためか少しぼやけて見える。そのぼやけた街灯の灯りが、わずかに震えた。路地を速足に歩く人の気配がしたかと思うと、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。
 玄関の前に数人の屈強な男が立っていた。中央に立っていた古畑係長が逮捕令状を取り出し、大串の前に広げた。死体遺棄容疑での逮捕だ。そうして両の手に手錠が架けられた。
 古畑係長と大串の、壮絶な戦いが始まろうとしていた。
 大串は起きてきた妻の手を握り、「警察は必ず無実を証明してくれるから、警察を信用して待っていなさい」といって、玄関から出て行った。
 大串はパトカーの後部座席に、両脇を刑事に挟まれて座った。パトカーは千葉県警に向かった。市原市の市街地に入ると、本屋の前を通った。その時古畑係長が、「お前が無実なのは、この本屋が知っている訳だ。だが防犯カメラが無いことを、よく知ってたなあ」と、無表情でいった。
 十時過ぎになると、大串の家に重機が運び込まれて庭を掘り返した。三年前の少女失踪事件にかかわる、証拠品や死体が埋められているという推測からの行動であった。この行動は、毎日大串が庭をうろついているとの敏郎からの報告に基づいたものであった。
 逮捕後直ちに記者会見が行われた。冒頭に大串逮捕の発表があった。その時記者席から拍手が沸き起こった。待ちに待った凶悪犯の逮捕である。捜査当局は溜飲を下げ、記者団は歓喜に沸いた。
 その場の全員が、大串の有罪を信じて疑わなかった。

 県警の二階が取調室になっている。
 両の手首には手錠がかけられ、それにつながる捕縄は机の脚に繋がれていた。
「暴れたりしませんから、手錠は外して貰えませんか」
「規則なんでね」
 机の正面に座っている古畑係長がいった。
「警察は正義を守る組織だと思っています。当然、検察も、裁判所もそうだと信じています。ですからすべてを正直に話すつもりですし、警察には全面的に協力するつもりです。ですから暴れる必要も、逃げだす必要もないんです。場合によっては忘れていることもあるかもしれませんが、最大限の努力をして思い出すつもりです」
 連行されるパトカーの中で繰り返し復唱していた台詞を、大串は一気に吐き出した。ただ暴れる必要も逃げ出す必要もないというくだりは、手錠と捕縄という屈辱的なやりかたを見て、咄嗟に付け加えることにした。
「お前にとって都合の悪いことは話さなくていいし、黙秘することも被疑者の権利だ」
 古畑係長は、あえて義務だと分かるように棒読みした。大串の発言に関しては、何ら興味を示していないかのような仕草であった。その後古畑係長は大串をしばらく見つめ、「悪いものと戦うのも正義だよ」と一言いった。その言葉は、取調室の空気を少しばかり冷ややかなものに変えた。
「妻はどうなりますか?」
「共犯じゃないんだろ。そのうち聴取はされると思うけど、それだけだ」「妻と娘には、迷惑をかけてすまないと思って・・・」
 大串はそこ迄いいかけて、「無実なのに逮捕されてしまってということです。誤解しないでください」と、慌てて付け加えた。
「主夫っていう仕事はどうだ」
「もともと子供の頃から料理を作るのは好きでしたが、掃除の方は少しばかり苦痛です。洗濯は好きです。よく太陽に当てて、少し硬くなるまで乾いたタオルの感触は、何ともいえない達成感を感じるんです」
「そうか。達成感か・・・。取調べっていうのは、人と人との信頼関係がすべてだ。今お前は私を信頼していないと思うが、私を信頼し始めると、取り調べが順調に進み始める。まず二人の信頼関係を醸成するのが大事だ。お前も協力してくれ」
 大串は、古畑係長がなにか見当違いのことをいっていると思いながら聞いていた。信頼関係より早く、自分が犯人ではないことを証明して、自由の身になることのほうが優先事項だと考えていた。
「お前が無実なら、なぜ死に物狂いで大声を出して否認しない。『俺は無実だ』『早くここから出せ』とか何とかいってな」
「それは最初にいった通り、警察というものを信用しているからです。必ず、早々にここから出して貰えると・・・」
「そう簡単には釈放できるものじゃない。奥さんや子供のことは真剣に考えた方がいいぞ。今の住所に住むのは少し酷かもな」
 大串は深く頷いた。
「生まれは何処だ」
「福岡県の久留米から入った山奥です。山の中腹に私の生まれた村があります。十数軒の村です。佐賀県嬉野市に大串城址という史跡がありますが、もともとそこの出だと聞いています」
「私は八女市の出身だ。ほぼ同郷だな。取り調べは方言でやってみるかい」
 古畑係長は、嘲笑とも思える笑顔を作りながらいった。
「妻に会うことはできませんか? 急な逮捕だったので、今後のことは何も話せていませんから」
 この取調官なら融通が利きそうだと感じ、尋ねてみた。
「一身上のことならできないことはないけどな」
「一身上の都合とは? 例えば・・・」
「そうだな。離婚とか」
「じゃあそれでお願いできますか」
 理由はなんでもかまわないと思った。離婚することなど考えてもいなかったが、妻と善後策さえ話せればと、その時は考えていた。
 離婚の話をするということは、通常ならば自白の準備である。古畑係長は大串が自白の準備を始めたと思い、ほくそ笑んだ。
 昼食が運ばれてきた。コンビニで売っているようなのり弁だ。蓋の部分が透明なプラスチックになっている弁当は、微かに温もりが残っていた。まるで自分が無実になれる確率ででもあるかのような、ほんの微かな温もりだった。冷え切ったお茶を飲みながら、必ず釈放されるのだと信じ込もうとしていた。
 午後は世間話に終始した。取調室にいるもうひとりの取調官は記録も取らず、二人の会話をただ漫然と聞いていた。
 取調室の時計が夕刻を告げるころ、古畑係長が二枚の写真を机の上に置いた。大串には、被害者の少女たちであることが直ぐに分かった。大串は長い間手を合わせ、二人の冥福を祈った。

 初日の取り調べは早めに終わり、留置場に案内された。
 まず医療室で身体検査が行われ、そのあと所持品検査が行われた。それに基づき、場内への持ち込みが認められている品以外は預かりとなる。大串は糖尿病の薬を持ってきていたが、それは没収され、後日場内の医療施設から調剤されるといわれた。
 場内は私服である。パーカーについていた紐と、ベルトと、ボタンの付いたシャツと、伸縮性ある下着が預かり品となった。そのシャツと下着の代わりとして、大きく『留』と書かれているシャツと下着が貸与された。履物はサンダルが貸与され、これにも『留』と書かれてあった。
 就寝時間は九時である。房の照明は減灯になる。減灯の中に一人となった。房廊から差し込むほのかな明かりが、得体のしれない恐怖となって房の中を漂っている。私語厳禁の檻の中で、「コトッ」という小さな物音が、遠くの房から時折聞こえる。トイレを流す音が静寂を破ると、各房には被疑者たちが留置されていて、皆同じような不安と恐怖に襲われているのだと思えた。涙が目じりから耳たぶに伝うのが分かった。
 家族が自分の無実を信じてくれていることだけが、せめてもの救いだと思えるし、最大の恐怖は、家族に見捨てられることだと実感できた。家族で出かけたドライブや家族団らんの思い出が、閉じた瞼の裏を駆けめぐる。昨日まで考えることすら無かった家族の分断が、警察への怒りに変わっていた。自分の保身なんかではなく、家族からの信頼を裏切らないためだけに、否認を続けなければならないと思った。
 二人の少女殺害が、死刑に値することは容易に想像できる。取り調べや裁判が進むにつれ、死刑が自分に迫ってくるであろうことも容易に想像できる。それを考えることはやめようと思うが、どうしても少女たちの写真が思い出され、思考はそちらに戻ってしまう。何回か繰り返し考えていると、房廊から刑務官の規則正しい靴音が近づいてくる。三十分おきの巡回は、これで何回目になるのだろうか。
 絶対に虚偽の自白はしないし、犯行を認めることもしない。一貫して無実を訴え続ける。無実を叫び続ける。それが果たして自分にできるのだろうかと、自問を続けながら意識と眠りの狭間を彷徨っていた。遠くから鼾の音が小さく聞こえていた。
 意識が覚醒し、塀の外から車の走行音が微かに聞こえ始めてきた。なぜか、いつも家のベッドで目覚めていた時刻だと分かる。おそらくあと一時間半で、起床の時刻だ。薄明りの房の隅を、ゴキブリだけが忙しそうに駆け巡っていた。

 朝一番で、妻が面会に来ることを告げられた。
 昨日のように取調室で世間話をしていると、九時過ぎに面会室への呼び出しがかかった。通常逮捕の翌日に面会させることはないそうだが、古畑係長のたっての依頼で実現したのだといわれた。
「食べられてる? 寝られてる?」
 いつになく、長めの髪を後ろで一つにまとめ、薄化粧の恵子が姿勢を正して面会室の椅子に座っていた。やつれ果てた顔はしていたが、目だけは気丈夫そうに振舞っていた。
「離婚なんてしないから。何を考えているのよ」
 大串は黙ったまま恵子を凝視していたが、瞼が小刻みに震えていた。涙は浮かんでいなかった。恵子も大串を見つめ、しばしの時間が過ぎた。恵子の瞳からは、留まることを知らないかのような大粒の涙が流れ始めた。その涙を拭う手が、大きく震えていた。
「自白なんかさせられたらだめだよ」
 恵子がそこまで言ったとき立会いの警察官が、「罪の隠滅に関することは控えてください」と、いった。
「正俊さんが自白するので、その準備として離婚の話をするんだっていわれたの。本気なの?」
「そんなことはいってない。なぜ離婚しなきゃいけないんだ。それにやってもいないのに自白なんて・・・」
 大串の唇は怒りに震えていた。
「僕はただ、今の住所じゃ住みづらいだろうから、当面お姉さんのところに行っていたらどうかなって思って・・・」
「後ろ暗いところはないんでしょ。だったら逃げ出す必要なんかないじゃないの」
「だけど・・・」
 その後は娘の話に終始し、「拘留中は原則会えないらしいけど、いま弁護士を探しているから」というと、五万円の差し入れをして帰っていった。大串は二着のスエットスーツと、伸縮性のない下着を差し入れてくれるよう依頼した。
 自分の為ではなく、家族を不幸にしないために否認し続ける必要があることを実感し、否認することを決意し直した。これは自分との闘いである。家族のために、弱い自分を奮い立たせる戦いである、と思った。
 大串が再び取調室に戻ると、「どうやら信頼関係を構築できないようです。黙秘をします」といったまま、古畑係長の質問に答えることはなくなった。当然、世間話にも乗って来ることはなかった。
「自白するんじゃなかったのか? 自白は自首と同じ価値があるんだ。罪も軽くなるから、自白するなら早いに越したことはないんだぞ。奥さんも心配していただろ。早く自白して楽になれよ」
「何のことでしょう。私は無実です。誤認逮捕です」
 その後大串が、それ以外の言葉を発することはなくなった。

 当然古畑係長の追及は、激しさを増していった。
 本格的に落としに入ると、取調官は被疑者のプライドをはぎ取り始める。まず体に軽く触れ、徐々にその動作に力が入ってくる。取調時間も一挙に長くなり、深夜まで続くことになる。時には同じ姿勢を長時間保持させる。排便も許可せず、失禁することさえ頻発するようになる。そのようにして、主従関係を認識させるのである。
 古畑係長はまるで洗脳でもしているかのように、「現場に行っただろう」、「やったよな」、「お前が犯人だ」、「もう逃げることなんかできない」と、繰り返す。時には肘で背中を小突く。椅子を足で倒し、頭を床にぶつける。そんな時一瞬失神することもある。あくまでも密室でのできごとだ。体に傷でもできない限り、拷問とでもいえる取調べは隠蔽される。
 取調室に掛けられている、陽光に照らされた風景画は輝きを失い、大串の目にはまるでくすんだ冬空の風景画のように見えていた。
 そのような過酷な取調べが数日続くと、妻に会わせてやるから素直に吐けといいだす。さらに珈琲が出てきたり、煙草を勧められたりする。その時は一瞬生気が戻るが、否認の言葉を発したとたん、元の取り調べに戻る。
 夜の十時を過ぎると、「どうにでもなれ」と投げ出したくなる。たとえそれを乗り越えても、独房での孤独と恐怖が待っている。房のゴキブリが、自分が生きていることの唯一の証となっていく。
 いまだに五時になると目が覚める。起床時間までの一時間余りが、唯一の自由時間になった。房の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。天空に煌めく星はすでに光を失っているが、昨日から沈む前の月が見えるようになってきた。塀沿いに植えてある銀杏が、少し色づき始めた。
 午前中に糖尿病と亀頭包皮炎の診察を受け、薬を処方してもらった。午後からは、いつも通りの取調べが始まった。
 留置が四日目を過ぎるころ、弁護士の接見があった。恵子が差し向けた菊池きくち弁護士だ。頭髪は少し薄くなっているが、顔の張り具合からして、四十を少し越えたぐらいに見えた。丸い赤ら顔は、誠実な弁護士であることを物語っている。
 弁護人の接見には警察官が立ち会わない。
「国選弁護人だと、起訴後の選任になってしまいます。それでは手遅れです。さすがに警察側の証拠資料を見ることはできませんが、私選弁護人だと、このように取調べ中からお手伝いをすることができます」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。それから、取調べでは黙秘しています」
「黙秘ということは、否認されているということでいいですね。ご存じないかもしれませんが、起訴された場合、日本では99.9%が有罪になります。否認する場合、起訴される前に弁護人と相談しながら戦略を練ることが必須なのです」
「私は警察に全面協力して、無実を証明しようと考えていました。ところが警察とは、そんなに甘いところではありませんでした。私を犯人に仕立て上げるための、ただそれだけを目的とした組織なんです。妻や子供のためには私が無実を証明して、二人を安穏に暮らさせることが必要なんです」
 大串は逮捕後初めて、自分の思いを話すことができる喜びを感じていた。自分の思いや、悩みや、苦しみを相談できる人がいる。妻にたいしては、心配させまいと気丈にふるまう必要があるが、弁護士には思いのたけをすべて話すことができる。依存することができる。私語を厳禁とされていない世界、ただそれだけで、至福の喜びが沸き上がってくるのが分かった。弁護士の接見とは、大海原で一人漂う漂流者に、救助ブイを投げ入れてくれる救世主のような存在であった。
 大串は初めて、取調べに対する不満を弁護士に話すことができた。
「見込み捜査をしているという訳ですか。それでは大串さんの主張と、取調べ状況を詳しく話してください」
 警察がどのような証拠を持っているか分からない中で、大串は事件の経緯らしきものと、取調べ中に知りえた情報を弁護士に話した。それに加えて、取調べ中の虐待についても訴えた。
「確かに取り調べ方法に関しては、いろんな話を聞いています。しかし密室でのできごとですから、立証できないんです。例えば体に傷を残すというような、証拠を残すようなことは絶対にしませんから。警察庁が指針を示すといった話はありますが、当分先の話だと思います。取調べの開始時間や終了時間、休憩の有無、取調官の数さえ公表されないのですから」
 菊池弁護士がそれをいい終わると、大串の眼を暫く凝視した。その後おもむろに話し始めた。
「最後にもう一度確認します。無実なんですよね。信じていいんですよね。信じますよ」
 大串は眼を見開いたまま菊池弁護士の話を聞き終わると、少し目を伏せた。
「はい。信じてください。無実です。家族のためにも無実でなければならないんです」
「無実でなければならない、ですか」

 逮捕後いたずら電話の回数が増加した。
 ワイドショーが始まると、回数がさらに倍増する。いたずら電話の言葉もエスカレートしている。「人殺し」という言葉が逮捕後の主流だ。当然名前は名乗らない。大串の顔写真を、マスコミが一万円で買っているとの噂が町内で流れた。脅迫状も届くようになった。差出人の住所は、空白か架空の住所だ。
「大串さんは元気でしたよ。取調べ中にも関わらず、明るいのに驚きました。まるで迷子の子が、母親にやっと会えたようなはしゃぎようでしたよ」
 菊池弁護士が接見から帰ってきた。
「明るかった? 私が面会に行った時とは全く違っています」
「依然として否認しています。家族を救うための否認だといっていました」「家族のための?」
 恵子には何か引っかかるものを感じたが、元気なことは喜ばしいことだと思った。その後菊池弁護士は、事件に関する情報を恵子に伝えた。
「形だけでも離婚して、姓を変えた方がいいかもしれません。住所を変えてもお子さんがいじめにあう可能性が・・・」
「離婚なんて言わないでください。その選択肢はありませんから。それに転居するつもりもありません。無実の我々が、なぜ逃げださなきゃならないんですか」
 恵子は菊池弁護士の言葉をさえぎって、声高にいった。
「そうですか。分かりました。それでは就学猶予の届け出をしてはどうでしょうか」
「娘が、学校に行かなくてもいいということですか?」
「一定の理由がある場合、この場合はいじめですが、市の教育委員会が認定します。同じような認定例がありますから、大丈夫だと思います」
「それはお願いしてみようかしら」
 しかし無実の父を持つ娘がなぜという気持ちは残った。
 大串の叔父から電話があり、来月孫が結納を交わすという。そちらとは姻戚関係にないと先方に話しているから、もし『といぎき』があっても、話を合わせておいてくれと依頼された。
 そんな時大串の母が急死した。息子の逮捕にかかわる、心労の結果であったという。恵子はそのことを、夫には伏せることにした。

 今日も取調べが続いている。
「犯人は窓にフィルムの貼ってあるシボレーブレイザーに乗っていて、土地勘があって、アリバイのない奴だ。下着についていた繊維片の分析結果と、車からでた血痕も、犯人はお前だと示している。血液検査とDNA鑑定では千人に一人の確率だ。お前しかいないじゃないか。いや絶対お前だ。被害者の下着についていた繊維は、まるでお前が犯人ですよと教えてくれているみたいじゃないか」
 そういいながら机を叩く音が、あたかも真実であることを断言しているかのように、大串の耳に響いてくる。
「DNAって何ですか? 教えてくれませんか」
 大串が久しぶりに、否認の言葉以外の言葉を発した。
「DNA? 良く分らんが。血液の指紋のようなものだ。要はお前が犯人だということだ。そんなことはいいから、この写真に謝れ」
 胸ポケットから、死体遺棄現場の写真が取り出された。無残にも打ち捨てられた二つの遺体は、体と足が奇妙に重なり合い、こちらを向いている方の少女の顔は、眠っているかのように穏やかな顔をしていた。穏やかな顔であればあるほど、残忍さを訴えているかのように思えた。大串は咄嗟に目をつむり、両の手を握りしめた。手錠が手首に食い込み、全身に痛みが走った。
 今日は待ちに待った入浴の日だ。冷暖房のない留置において、唯一芯から温まれる日だ。十五分の入浴時間は、体を洗うより温まることに重点を置いている。
 昨日洗濯物が届いていた。入浴後に着替えようと思っている。今週の月曜日から、昼食は自弁にすることにした。官弁の、のり弁当には飽きてしまった。今日は百円の駄菓子も付け加えた。現金の差し入れを、恵子に追加でお願いするつもりだ。そんなことで、取調べの苦痛から逃れる術を見出している自分がみじめだ。
 房の夜にも慣れてきた。トイレを流す音も、刑務官の靴音も気にならなくなった。夜になると必ず流れ出ていた涙も、溢れなくなった。明日はどのようにしてやり過ごそうかと、毎晩考えながら寝入った。朝も起床時間まで熟睡できるようになった。ただゴキブリだけは、走りまわる姿が愛らしい。ゴキブリとの二人暮らのようだ。

 再びポリグラフにかけるという。今回のポリグラフは、目的がはっきりしない。前回と同じような質問が繰り返された。なぜか所々で地名が出てきた。その地名は、県名から町名まで多岐に亘っていた。少女らしき名前もいくつか出てきた。指示通り、すべてに「いいえ」と答えた。
 五年前に発生した失踪少女の名前に反応し、特定の場所にも反応し、その場所を捜索すると、一時間ばかりで少女の衣類が発見されたといわれた。五年前の衣類にしては、朽ちていなかったという。今回の事件を起こしたあと、証拠隠滅のためにお前が遺棄したのだろうと問い詰められた。あまりにもタイムリーな遺留品発見には、違和感を覚えた。
 その後も「お前がやったんだろう」という台詞が繰り返えされ、頭髪をわしづかみにしてひねり上げられた。机の下で脛を蹴られた。いずれも、痣が残らない程度の暴力である。
 入所後四度目の入浴時、私語厳禁の浴室で入所者が話しかけてきた。その会話を、刑務官は見て見ないふりをしている。入所者との初めての会話に、少しばかり胸が躍った。
「否認しているんだって? 馬鹿だなあ。今はやったと言っておいて、裁判で本当のことをいえばいいじゃないか。やったって言えば、暴力も無くなって楽になるぞ」
 驚いて刑務官を見た。その刑務官はこちらを見ていた。だが何もいわず、なにか決まりごとでもあるかのような顔で二人を見ていた。

「最近はリーク情報のオンパレードじゃないか。仕事をしていない証拠だぞ」
 何時もの居酒屋で、卓見は勝三をからかうようにいった。
「速報性も大事じゃないか。それに他社が書いている記事を載せない訳にはいかないし、リークに憶測をいれないで、尚且ついかに他社に比べて面白く書くかだよ」
「勝三が書くと、リークがあたかも警察の正式発表みたいだぞ。警察はリークを基に、読者がどのように憶測するかまで考えてるんだ。リークで世論を誘導しているんだぞ。リークはあくまでリークだ。誤報や人権侵害がないとはいえないだろう」
「今の記者の数だと、新ネタを探し出して裏をとる余裕なんてないんだ。それがわが社の限界だな」
 勝三は自虐の表情を見せた。
「それを売らんかな主義というんじゃないのか」
「売らんかな主義は週刊誌だろう。読者の反響に合わせて、いかようにも編集するんだ。先週なんか、大串家の家系図まで掲載していたぞ」
 勝三はあきれ顔でいった。
「そういえばある捜査員が、『私の顔を見て推測しろ。あと一歩だ』っていっていた」
「そうか。死体遺棄に続いて殺人で二度目の逮捕をしたから、送検も間もなくか」
 卓見は一人納得し、肴の芋を箸の先で転がした。
「それにしても、テレビも突っ走るじゃないか。それも過激だ」
 勝三は話題を換えようとしている。
「マスコミって客観報道を求められるだろ。だけどそれって、主観がないって受け止められるんだ。だからできるだけ主観を入れようとする。そのためにコメンテーターに発言してもらうんだ。だがライブで過激な発言をされると、デスクでの判断なんて不可能じゃないか」
 卓見の表情が、真顔に変わっている。
「それで弁護側と警察の見解を、並列で述べてるわけだ。だが視聴者は、警察の見解の方を取るけどな。それにどこで仕入れたのか、事件のあった日に、小学校の通学路で車の中の大串を見たという証言を他の局で流してたぞ。ガセとは思うが。これで世論は死刑にしろの大合唱だ」
「結局、読者や視聴者をリークが誘導し、それを後押しするのが我々メディアっていうわけか。そんな話は止めにして、今日はとことん飲もう」
 卓見の提案で、二人は一気にジョッキを空けた。

「そろそろ送検ですかねえ」
 敏郎は自分の机で、コンビニ弁当を広げて食べている。
「二回目の拘留期限も切れる頃だしな。ここ一か月近く、雀荘にも行ってないんだぞ。エネルギー切れだ」
「さすが係長は凄腕ですね。数年前の、失踪少女の事件まで解決しそうじゃないですか」
「そう思うのか。俺が思うに、捏造だな。あんなにうまく、遺留品が発見されるはずがない」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろう。あんな機械で、遺棄場所まで分かるはずがないだろうが。その証拠に、失踪少女の事件は送検しないんだそうだ。大串が犯人だと世論が思い込めば、それでお役目御免だ」
 敏郎はだし巻き卵を口に放り込みながら、顔をしかめている。
「なんだ、その顔。まずいのか」
「まずくはないですが、捏造という言葉がまずくしました。でもDNAの方は見事でしたよね。試料不足で鑑定できなかったっていう言葉を引き出したんですから」
「確かに剛腕だ。剛腕で横車を押したってとこかな。今のところ証拠といえるものは、DNAだけだ。あとは状況証拠のオンパレードだ」
 朝雄は湯沸かしポットのところに行って、カップ麺にお湯を注いでいる。「松田さん。インスタント食品ばかりじゃ、身体を壊しますよ」
「俺には麻雀というマルチ栄養剤がある」
 朝雄が机に戻ってくると、いつになく真顔で話し始めた。
「『疑わしきは被告人の利益に』って言葉、習ったよな」
「確かに警察学校で習いましたけど」
「この送検は綱渡りだ。DNAという細い綱を頼りに渡っている。もしこの綱が切れたらどうなる」
「奈落のそこですか?」
「そうだ。奈落の底だ。DNAという螺旋状の綱を、しっかり握ってはなさないことだな」
 敏郎は弁当を食べるのをやめて、麻雄を見つめていた。
「だがそれ以降、同じような小児性愛者の犯行は起こってないよな。それっていうことは、やはり大串が犯人ということかもしれん」
 それから時を置かず、大串は送検された。それに伴い千葉拘置所に移送された。

 その年の年末、DNA多型研究会が開催され、MTC118法では正しい鑑定はできないという論文が発表された。
 MTC118法は、16個の特定塩基単位で繰り返し回数を測定するものである。つまり16個の塩基が並んだ長さを一目盛りとしたスケールで測定すれば、スケールの繰り返し回数が検定結果とになる。ところがMCT118法は、塩基数123個が一目盛りのメジャーで測っていたことが判明したのである。その研究会に科警研も出席していた。ところがそれを、市原事件捜査本部の幹部に報告しただけで、科警研は悪意の沈黙を貫いたのである。

 赤煉瓦の塀に囲まれた千葉拘置所は、住宅街の一角にある。取調べのない拘置所の一日は長い。時折、同居者だったゴキブリを懐かしく思うことがある。連日の責め苦に耐えた一月あまりが、遥か過去のできごとのように思われてくる。
 独居房の中は相変わらず寒い。恵子に裏毛立ちのスエットと、防寒ジャケットを差し入れてもらった。その時の面会で、恵子は小紋に道行を重ねた姿で現れた。面会室のアクリル板の向こうに、笑顔いっぱいの恵子が立っていた。二人で初めて初詣に行ったときに着た着物だという。拘置所生活の大串を励まそうとする、恵子の姿が愛おしい。家族のために貫きとおした否認が、間違っていなかったのだと確信した。今回も五万円を差し入れて貰った。次回は母を連れてきてくれるようお願いした。恵子は少し困惑の表情をし、「そうね」と生返事をした。
 娘は休学し、久留米にある叔母の家に預かってもらっているという。時折届く手紙で、元気に野山を駆けまわっている娘の姿が窺がわれる。春になると、茶摘みを体験するのだと書いてよこした。返事を出そうと思うが、書き始めると涙がこぼれ、今日も書くのをやめた。明日こそは書こうと思う。
 午前中は読書をすることが多い。三国志に挑戦しているが、差し入れの冊数には制限がある。差し入れてもらったものを読み終わると、次の差し入れが待ち遠しい。そんなときはラジオを聴いたり、ところどころ黒塗りされた新聞を読むことにしている。昼食後は少し昼寝をし、午後は弁護士のいいつけに従って、裁判に向けた準備をすることにしている。
 最近、残念なことと、羨ましいことが一つずつあった。
 残念なことは、入浴が一人だということである。留置所生活で唯一、人と触れ合えたのは入浴であった。もちろん私語厳禁ではあるが、人の息吹を感じることができた。湯に入った瞬間に発せられる「ゔぁ~」という声、タイルに飛び散る湯滴、風呂椅子がぶつかる音、くぐもった人の吐く息、それらの喧騒が、生きていることを実感させてくれていた。
 羨ましいことといえば、食事を作る懲役受刑者のことである。自分が得意である調理を、拘置所内で行えると考えるだけで楽しくなってくる。留置所の冷たい弁当と違い、温かな食事を提供し、ひと時の安らぎを与えることができるのだ。しかしこれは、実刑判決との引き換えでなければ実現できない希望であった。

 朝雄と敏郎は市原事件から外れ、父親殺しの事件に取り組んでいる。被疑者が自白している事件で、自白内容を検証するのが主な捜査になっている。麻雄の雀荘通いも復活した。
「松田さん。どうやらDNA鑑定結果は、証拠として提出しないらしいですよ」
「本当か。なぜだ」
 朝雄は驚きの声を上げた。
「理由がはっきりしないんですよ。鈴木一課長が、検察と話して決めたみたいです。送検後に、なにか事情の変化があったようです。今更起訴をやめる訳に行かないっていうので、一時大騒ぎだったようです。世論が盛り上がっていますから」
「なんか怪しいなあ。唯一の証拠だぞ。状況証拠だけで有罪にできるのか?」
「推定無罪ですよね」
「そうだ。『疑わしきは、大串の利益に』だ」
「三船。市原事件の状況証拠を、もう一回精査するぞ」
「松田さん。父親殺しの方はどうするんですか」
「そんなもんは、ほっといても送検できる。やるのかやらないのかはっきりしろ」
「やります。やりますよ」
 敏郎はいやいや、資料集めに部屋をでていった。

 事件発生から丸三年経った二月二十日。一審が開廷された。
 裁判が近づくにつれ、大串の頭の中は絶望と希望が交互に入れ替わり、心の安定が損なわれていった。開廷後も、大串は一貫して否認を続けた。
 警察や検察には裏切られた。裁判所こそは真実の守護者だと信じている。だが裁判所は誤審を最も恐れる。だから検察の証拠を過大評価し、99.9%を有罪にする。裁判所は真実の追及から逃げ回り、検察の証拠を補填するかのような裁判のすすめかたを選ぶ。裁判所は検察が隠蔽している証拠を、あえて公の場に曝そうとはしない。難しい専門用語を駆使し、調書に書かれた文章だけを使って判決を言い渡す。
 私は法律の素人だ。だが主権者だ。我々が理解できるような裁判を行ってほしい。裁判で行われる陳述は、二割しか私には理解できない。ここにきて、裁判という暴力に身をかざしている自分が可哀そうだ。
 出廷の途中、護送車の窓から故郷の家並が目に入る。三年前と何ら変わりない景色の中で、関西淡路大震災の文字が時折目に入る。世の中は動いている。そうして日々変化している。だが自分の生活は何ら変わることなく、ただ拘置所と裁判所だけの生活が続いている。
 手錠と捕縄を外され、両脇を刑務官に挟まれて被告席に着くと、大串は法廷内を見渡した。中央の最後列に妻の恵子がいる。恵子に目配せをした。被害者家族らしき人たちが、一番前の席を占めている。記者席には十人近くの記者が、メモ用紙を手に傍聴している。古畑係長がいないことを確認すると、心の動揺が少しばかり治まった。
 傍聴席の片隅に敏郎の姿があった。

「今日はどんな公判だった? 説明してくれ」
 敏郎は公判を毎回傍聴し、麻雄に内容を報告している。理由は良く分らないが、これは麻雄の業務命令だ。敏郎にとっても、本来の仕事は麻雄がこなしてくれているので、拒否する理由が見あたらない。
「現場で精液が検出されなかったでしょ。理由が分かりましたよ。大串は亀頭包皮炎にかかっていたんですよ」
「なんだ。亀頭なんとかってやつは」
「時折糖尿病患者で発生する病気で、陰茎の皮が炎症によって破け、下着に擦れて、歩けなくなるほど血がにじむ病気だそうです。とうぜん大串は強度の糖尿病です」
「痛そうな病気だなあ。それで精液が発見できなくて、血痕だけが発見されたって訳か。確かに辻褄はあうな」
「それに関する被告人の証言が、変遷しているんです。ほかにも証言の変遷は、二つほどあるんですけどね」
 朝雄がカップ麺にお湯を注ぎ、敏郎の前に置いた。
「お。珍しい。今日はサービスいいじゃないですか」
「無駄口を叩かず、先を続けろ。三点の証言変遷なんだろう」
 敏郎はカップ麺の蓋を縁に織り込むように曲げ、その上にスマホと箸を並べて置いた。
「こうやって置いておくと、蒸気が逃げないんで旨くなるんです」
 敏郎は自慢げに、カップ麺を机の奥まで押し込んだ。
「公判では、炭水化物制限療法によって事件当時は完治していたと証言したんです。妻も、事件発生当時は完治していたと証言しました。ところが取調べの段階では、治療中だといっていたんです。それに留置場でも、亀頭包皮炎の治療をしています」
 敏郎はカップ麺を引き寄せ、蓋を少し持ち上げて中を覗き、再び蓋をして話をつづけた。
「ところが証人喚問で、その証言がひっくり返るんです。大串は薬局で皮膚病に効く軟膏を購入していたんです。その軟膏はステロイドが入っていて副作用が強いので、客が希望した場合にだけ販売するから、大串のことはよく覚えているというんです」
「その軟膏はいつごろまで買っていたんだ?」
「事件発生二か月前迄です」
 そういい終わると、「もう三分経ちましたよね」といいながら、敏郎はカップ麺を食べ始めた。
「あと二つはなんだ?」
「一つは大串が妻を送った後の行動です。取調べの時は、妻を送った後一度自宅に帰り、それから実母のところに行ったといっていました。そこで捜査官が車で実証実験を行ったところ、ちょうど八時半頃、少女たちが最後に目撃された場所を通過したそうです。そのことを知った大串は、妻の職場から直接実母のところに行ったと、公判では証言を変えたんです」
 カップ麺がまだ硬かったのか、再び敏郎はカップ麺の蓋をして、「これは五分のやつかなあ」といいながら、蓋の上にスマホと箸を並べて置いた。
「三つ目はなんだ」
「実母の家に行った日付です。こちらは妻の証言です。生前実母は、大串が訪ねてきた日付は、はっきり分からないと証言していますし、妻も同じような証言をしています。ところが法廷では、実母の家の生け垣を剪定するんだと事件発生当日の朝、剪定ばさみを車のトランクに入れるのを見たと証言しました。さらに翌日の朝には、剪定ばさみがトランクになかったので、その日に実母の所に行ったのは確かだと証言を翻しています」
「なるほど、大串の妻は、夫の証言に合わせようとし始めたな」
 朝雄は少し考えたのち、話をつづけた。
「だが状況証拠の羅列からは抜け出していない。これじゃ有罪は難しい」

「奥さん。証言は私の指示通りにしてください。でないと責任は持てませんよ」
 恵子は俯いたまま黙っている。
「でも夫が家族のために・・・。少しでも夫の力になりたくて」
「いいですか奥さん。裁判官は陳述や証言の信ぴょう性を根拠に、判決文を書くんです。そう頻繁に証言を覆すと、裁判官の心証を悪くするんです」「でも夫をなんとか」
 恵子は菊池弁護士を見ることなく、立ち上がってキッチンの方に向かった。
「座席シートの裏から血痕が発見されたのも、失踪少女の衣類が発見されたのも、なんかおかしくありません? 警察の捏造なんです。きっとそうです。警察だってそんなことをするんですから、こちらだってそれなりに・・・」
「捏造っていうのは控えてください。裁判所では最も嫌われる言葉です。裁判官は捏造という言葉は使いません。あえて『そのような工作』という言葉に換えるぐらいです。裁判官は決して、捏造に関して乗ってくることはありません。彼らは品位のない、愚劣な言葉だと思っているようです」
「でもその証拠が捏造なら、裁判の行方が大きく変わることだってあるんじゃあありません。一つのピースが外れるだけで、積み木崩しのように全体像が大きく崩れ落ちることだって・・・」
 恵子は沸騰した湯沸かしケトルを使って、紅茶を三つ入れている。
「警察は、いくらだって捏造することができるんです。捏造を・・・」
 恵子が紅茶とケーキを三つお盆に乗せ、菊池弁護士の所に戻ってきた。「捜査が進んで、どうしてもピースが一つ足りない場合、そういう誘惑に負けることだってあるんじゃありません? 世論の要求を満足させようとするばかりに・・・」
「その話はよしましょう。なぜだかDNA鑑定結果を証拠として採用しなかったこの裁判は、有罪になる確率は30%ぐらいだと考えています。何といっても、証拠といえば状況証拠ばかりですから」
「そうだといいんですが」
 そういい終わると、恵子は二階の娘を呼んだ。
「福岡から帰ってきて転居も転校もしましたけど、どこから聞きつけるのか、校内で噂が広がっているようです。私の場合は内勤ですし、周りも皆大人ですから・・・。子供の口は塞げません。ここ半年ぐらいは、学校にも行っていないんです。思い切って県外に転居することも考えましたけど、私の仕事と面会のことがありますから」
 一言もしゃべらずにケーキを食べ終わると、娘はカップに残った紅茶を持って二階に上がって行った。
「マスコミが家に押し掛けることは、ほとんどなくなりました。それでもたまに取材依頼があります。そういえば先月、便せん十三枚の脅迫状が届きました。あまりにも長文だったので、夫は無実だという返事を書いて出しました。でもその手紙は、宛先不明で帰ってきました」
 菊池弁護士は黙って頷いている。
「いたずら電話はほとんどなくなりました。掛けてくるのは常連の人で、声を覚えてしまいました。もし被害者の身内の方だったらと思うと、むげには切れないんです」
 菊池弁護士は恵子が何かを訴えようとしているのを察し、手に持った紅茶をソーサーに戻した。
「夫が小児性愛者だなんて、どうしても思えないんです。妻だから分かることです。妻にしか分からないことなんです。真犯人は今もどこかで、平穏に暮らしているんです」

10

 今日は込み入った話をしようと、卓見と勝三は東関東新聞社の会議室に集合した。
「お前はビールなしで話せるのか? こんなところに呼びつけて」
「事件の資料は持ってきたんだろうな。今日はアルコールなしで話し合うぞ」
「事件のおさらいと、判決の推定だよな」
「コーヒーは好きなだけ飲んでくれ」
 勝三はコーヒーサーバーを指さしながらいった。
「じゃあ勝三が、事件の発生状況を時系列順にいってくれ。俺はホワイトボードにそれを書く」
「まず七時半すぎに、美穂と成美が麻衣を迎えに行った。その後なぜか、麻衣が学校に行くのを嫌がった。前日先生に、こっぴどく叱られたとでもしておこう。成美は学校に行こうとしない二人を残して、一人で学校に向かう。多分八時過ぎだ。八時十五分ごろ植木職人に見られている。その後二人は知り合いの女性に声を掛けられ、続いて通勤途中の女性に見られている。ところが約五分後に同じ道を通った別の女性は、二人の姿を見ていない」
「そこのところは重要だ。なぜ見られなかった?」
 卓見は書くのを止め、勝三を振り返りながらいった。
「もう一つ重要なことがある。シボレーブレイザーが植木職人の前を通ったのは、通勤女性の二人目が通ったあとだ」
「じゃあ、シボレーブレイザーは事件と関係ない?」
「三つのケースが考えられる。全く関係ない。二人が路地に入っていて見られなかった。犯人がシボレーブレイザーに乗せた後、一度通学路から外れて再び通学路に戻った。その内のどれかだ。シボレーブレイザーが関係しているとすれば、遺留品発見現場での目撃情報と辻褄があう。しかしかなり弱い状況証拠だ」
「どのようにして二人の少女を車に乗せたかも、ポイントだ」
 卓見が初めて意見らしきものを述べた。
「こういうのはどうだろう。遅刻している少女に、教諭だと嘘をついて車に乗せた。相手は小学一年だ。すべての教諭は覚えていないだろう。植木職人の前を通るときは、遅刻がばれるからといって、座席シートの下に隠れさせた」
「確かに先生のいうことなら、素直に聞くかもな」
 そういい終わると、「会議室は禁煙なんだろ」といいながらも、卓見はポケット灰皿を取り出して煙草に火をつけた。
「じゃあ二人を殺害したのは何処かだが、やはり源氏山のどこかだろう。大串が犯人だとすれば、殺害は車内で行っている。尿斑と血痕が決め手だ」「じゃ山間部の人目につかないところだな」
「山路に入っていくのを怖がって騒いだ。だから殺人に至った。そんなところかな。最初は麻衣だ。それを見ていた美穂は、恐怖のあまり鼻血を出している。二人を殺した後、麻衣、美穂の順にいたずらをした。それは血痕の混ざり具合から分かる」
 殺害、麻衣→美穂。いたずら、麻衣→美穂。と卓見はボードに書いた。「次は遺体の遺棄だ」
 卓見が遺体の遺棄と書こうとしたとき、勝三がそれを止めた。
「まず遺留品の遺棄だ。発見の順番から、そんな風に考える者もいるかもしれないが、明らかに違う。遺留品を遺棄したときに犯人は目撃された。一瞬車の陰に身を隠している。それで遺体の遺棄は取りやめ、少し山を登ったところに遺体の方は遺棄した。遺体を遺棄してから、少し下って遺留品を遺棄するか? 違うだろう」
「なるほど、さすが事件記者だ。鋭い」
「これで事件の概要はほぼ終わったな。次は判決だ。お腹は空かないか。蕎麦でも食べて、それからにしよう」
 二人は社屋の近くにある蕎麦屋に向かった。勝三はいつものかき揚げ蕎麦を注文し、卓見はてんぷらそばを注文した。ビールも一本注文した。
「世論は死刑と冤罪とに二分している。勝三が書いたDNA鑑定結果のリークで一時は死刑派が大半を占めていたが、DNAの鑑定が証拠として採用されないと分かると、死刑派と冤罪派が五分五分だ。DNA鑑定のリークは、少しばかり勇み足だったんじゃないのか」
「どうやらDNA鑑定方法に問題があったらしい。デスクからは大目玉だ。だがリーク元は、信頼できる情報源だったんだ。リーク元も困っているらしい」
「それにしても、報道って怖いよな。一つの誤報道で、判決を左右することがあるんだから。やはり勝三は死刑派なのか?」
「大串には申し訳ないが、やはり死刑であって欲しい。保身だといわれるかもしれないが」
 再び二人は会議室に戻り、話を進めることにした。会議室に戻ると勝三が口を開いた。
「判決の推測に移る前に、状況証拠について少し話をしよう。まず遺棄時間だ。犯人が源氏山に遺体を遺棄したのは、午前十一時前後だ。その時間にアリバイのないやつが犯人だ。小学校から源氏山までは車で四十分程度の道程だから、源氏山や一連の現場付近に土地勘のあるやつが犯人だ。だから近隣に住んでいるやつだ。近隣に住んでいて、シボレーブレイザーを持っていて、ウインドウにフィルムが貼ってあるやつだ。大串以外で近隣にこの条件に当てはまる車はないし、シボレーブレイザーの持ち主には皆アリバイがある。犯行の陰湿さから考えて単独犯だ。精液が検出されなかったことと、血痕の検査からして、性交できないような不具合を生殖器に抱えているやつの犯行だ」
 勝三は畳みかけるように話した。
「勝三。ちょっと待ってくれ。大串が犯人だと決めつけて話していないか?」
「どう考えてもそうだろう」
「まあいい。じゃあ仮定として、大串が犯人だということで話を進めよう」「すまない。じゃあこの調子で話を進める」
 卓見は勝三がなぜ、このような話し合いの場を持とうとしたのかが分かってきた。DNAの誤報道を悔やみ、大串が犯人であると思い込もうとしているのだ。
「大串は疑われ始めると車を処分している。それも座席まで取り外して水洗いし、ウインドウのフィルムも剝がしている。この丁寧さはなんだ。それに遺留品遺棄現場での目撃情報によると、その男は薄着だったと証言しているし、妻も大串は冬でも薄着で過ごしていたと証言している」
「お前のいおうとしていることは理解している。確かにこれらの状況証拠に、大串はすべて当てはまっている。すべての状況証拠を掛け合わせると、天文学的な確率になるだろうし、これらすべての証拠に当てはまる人間は大串しかいないだろう」
 勝三は安堵の表情を浮かべ、手に持ったコーヒーを飲み干した。
 それを見ていた卓見は勝三から少し視線をそらし、間をおいてから話始めた。
「だが一つだけ気にかかることがある。仮に大串が犯人として、ではなぜ大串は一貫して無実を主張しつづけられるんだろうか? その気力を、どのようにして持ち続けられているんだろか?」
 勝三の安堵の表情が、再び陰り始めているのが卓見には分かった。

11

 今日は審判の日だ。
 システィーナ礼拝堂の『最後の審判』では、うごめく民衆たちが天国に召され、あるいは地獄に落ちる姿を左右に分けて描いている。天国に召される者たちは歓喜に溢れ、大空を翔る鳳のように昇天してゆく。一方地獄に落ちる者たちは、櫂を振りかざす冥府の渡し守カロンの舟に乗せられ、地獄へと落ちてゆく。中央の神キリストが下す審判には、決して間違いはない。 
 警察と検察が紙上に書き記した文字は、冥府への渡し船なのか。弁護士が発する声は、鳳の羽ばたきなのか。検察や世論に影響されず、法律に則り審判を下す裁判官の振る舞いは、果たして神の仕業なのか。

 一審の判決を前にして、大串はいつもより少し早めに起き、出廷の準備に取り掛かった。今日も法廷で妻に会えると思うと、少しばかり心が弾む。妻との間にアクリル板はなく、生身の恵子が手の届くほどの距離にいる。しかしその距離が、月までの距離にも思える。逮捕の日、妻が自分の両手をしっかり握り、涙ながらに送り出してくれたのが昨日のように思い出される。恵子の手は暖かく、脈打つ血管の鼓動を未だに覚えているのはなぜであろうか。
 結審からの日々は、波立つ心との戦いであった。
 ある時は無罪への希望に気分が高まり、鼻歌さえ漏れることがあった。それを見た刑務官の𠮟責で我に返り、再び死刑への恐怖に打ちひしがれる。躁と鬱とが交互に入れ替わり、その間隔が徐々に狭まってくると、判決の日が目の前に迫っていた。審判の日が迫っていた。
 裁判所に向かう護送車の未決囚たちは、一様に首をうなだれ、視線を床の上に漂わせている。拘置所を発って暫くすると、大粒の雨が護送車の屋根を叩き始めた。伏せていた顔を天井の雨音に向け、その後ゆっくりと顔を正面に向けると、小柄で人が良さそうな男が座っていた。その男には、ぼんやりではあるが見覚えがあった。その男が大串に向かって、微かな微笑みを投げかけてきた。もちろん私語厳禁である。大串も微笑みを返した。
 護送車が裁判所に到着し、護送車からステップを下っているとき、さっき微笑みかけてきた男のこと思い出した。確か菅田厳男だ。あの連続幼女誘拐殺人事件の被告だ。あんなに人の良さそうな男が、幼女を次々と殺害したのだと思うと、信じられなかった。その男を目で追ったが、すでに何処にも見当たらなかった。
 法廷にはいつものように、妻の恵子と被害者の家族が座っていた。何時もに倍する記者たちが、メモ用紙を手に開廷を待ち構えている。当然卓見と勝三も傍聴している。
 その法廷の隅には、麻雄と敏郎がいた。なぜか今日は麻雄が傍聴するといい出し、敏郎が傍聴券を二枚手配した。
 満席であるにもかかわらず、大法廷は静寂に包まれていた。
 入廷してきた大串が妻を見つけると、手錠と捕縄を外す間妻を見つめ続けた。恵子もそれに答えた。満席の大法廷にもかかわらず、二人だけの世界がそこにはあった。
 裁判官の入廷で静寂は破られ、判決のいい渡しが開始された。
「主文。被告人を死刑に処する」
 死刑判決を伝えるべく、一人の記者が飛び出すように出て行った。
 証言台の前に立つ大串は、法廷の天井を暫く見上げ、そのままの姿勢で膝から崩れ落ちた。その大串に駆け寄ろうとした恵子は、証言台と傍聴席を隔てる柵に取りすがり、号泣した。
 大串が立ち上がるのを暫く待った裁判長は、裁判で聞かされたのと同じ内容の判決理由を、延々と読み上げていった。

「死刑という言葉を聞いた後は、自分が生きているのかさえ分からないほど混乱していました。頭の中が白い霧に覆われ、法廷内のすべてのものが遠くに浮かんでいました。その遠くで浮かんだものの中で、夫が凄い速さで自分から遠ざかっているのが分かりました。手錠と捕縄でがんじがらめに拘束された身体を、前かがみに折り曲げて法廷を出てゆく夫の後ろ姿は、後悔と懺悔の姿ではなく、怒りと絶望の姿だと思いました」
「楽観しすぎていました。まさかあの状況証拠だけで・・・」
 菊池弁護士は、後悔とも謝罪とも思える言葉を口にした。
「ただ量刑理由の所で、いくつかの言葉だけが鮮明に記憶に残っています」
 恵子がポツリといった。
「ぜひ聞かせてください。それはどういうくだりですか」
「一つは、『鬼畜同様』という言葉です。なぜ鬼畜なんですか?」
 判決文を見ていた菊池弁護士は、前後の言葉を読み上げた。
「『人情の欠片すら認められない,鬼畜同様の行為である』と書かれています」
「無実の夫は人情深い人間です。なぜ鬼畜という言葉で、人権すら否定されなければならないのですか? なぜそのように、侮蔑されなければいけないんですか? 無実の夫が・・・」
 恵子は少し声を荒げていった。
「もう一つは、『良心の呵責や改悛の情がみられない』という言葉です」「『年齢的にも分別盛りで,遺族らの心痛の程が当然分かるはずであるにもかかわらず,捜査,公判を通じて一貫して平然と犯人性を争っており,反省するどころか,自己やその家族がいかに警察から迫害を受けたかを訴えるばかりで,良心の呵責や改悛の情が全くみられない』と書かれています」
 菊池弁護士は同じように、判決文を読み上げた。
「無実の夫が、なぜ良心の呵責や改悛の情を表すことができるんでしょう。無実の夫が・・・」
 無実と信じるものと、有罪と信じるものとの間には、絶望的な隔たりがあるのだと、菊池弁護士は今更ながらに思った。
「裁判官は検察が作った資料に書かれている文章だけで、すべてを判断しなければいけません。もちろん検察は自分に都合の悪い資料は提出せず、都合のいい資料だけで犯行を立証します。さらに都合のいい資料を採用するだけでなく、自分の都合のいいようにストーリーを作り上げることもできるんです。だから裁判が始まる前から、判決の行方はほぼ決まっています。裁判官は冤罪を恐れるあまり、検察のストーリー通りに裁判を進めてさえいれば、裁判官に瑕疵は発生しないと考えているんです。でも控訴しますから、控訴審で無実を訴え続けましょう。このような判決で、控訴しないという選択肢はあり得ませんから」

 卓見と勝三は、閉廷後にカフェで待ち合わせた。
「死刑だったなあ。予想通りかい?」
「複雑な心境だ。DNA鑑定結果のリークが、死刑判決に影響してないかとそのことばかり考えてる。確かに意識はしていなくても、世論が一方的になっていると、無意識のうちにそちらに引きずられるということもあるからな。裁判官も人間だから」
「しかし今回の証拠が状況証拠だけだということは、控訴審以降で逆転無罪も考えられるぞ。明日からの放送はどちらでゆくべきかなあ。凶悪犯の末路とゆう論調なら、これだけ状況証拠が揃っている事件は珍しいから死刑は当然だと構成するんだろう。それとも推定無罪で押し通すのか。今から局に帰って協議だ」
「結局はどちらが視聴率を稼げるかだろ。状況証拠で有罪とできるのは、『合理的な疑いを差し挟む余地がない場合である』と、定義されている。さらにそれらの証拠の信用性は、低くてもいいんだ。だから仮に大串が犯人でないとした場合、それを合理的に否定できなければいけない。つまり今回の判決は、大串が犯人ではないということを、合理的に否定しているんだ。今回それが認定されたということは、高裁での逆転無罪はかなり難しいといだろうな」
 勝三は知識のすべてを開陳するかのように、有罪判決の有効性を述べた。
「だが無実の証明は、『悪魔の証明』じゃないか?」
「私見だが、だからそれを証明する証拠は、信用性が低くてもいいんじゃないのかなあ。裁判で弁護人は、大串が犯人でないことを合理的に証明しようとしていたんだ」
 勝三は公判メモをとりだし、弁護人の反論と、それを裁判官が否定しているところを説明し始めた。
「重要な点だけをいうと、まずは目撃情報だ。植木職人は二人目の女性目撃者が車で通過した後に、シボレーブレイザーを目撃している。だから弁護人は、大串が誘拐することはあり得ないと主張している。しかし二人の少女が最後に目撃されてから、どのような行動をとったかは検証されていないという理由で一蹴している。また弁護人は、遺留品発見現場での目撃情報が詳細すぎる点も問題視している。だが交通量の少ない冬季の山路であり、深く印象に残ることは考えられる。だから矛盾過ぎるとまではいえないといっている。とくにほぼ同じころ、同じ特徴をもった車が複数回目撃されている点も重要視している。もちろん目撃した車両が、大串のものであるとまでは断定できないが、大串を犯人と推定できる点が重要だといっている」
 勝三は喉が乾いたのか、生ぬるくなったコーヒーを一口飲んでから話をつづけた。
「次は血液型だ。弁護人は大串の車から麻衣の血液が発見されていないから、少女二人を車にのせたことはあり得ないと主張した。しかし裁判官は、美穂は鼻孔からかなりの量の出血をしており、麻衣の血液は下腹部に付着していた程度なので、二人を乗せたことに矛盾はないといっている。ようするに直接証拠は存在しないし、単独の証拠では大串を犯人と特定できないが、個々の状況証拠から総合評価すると、合理的な疑いを超えて大串を犯人として認定できるとしているんだ」

「係長。見込み捜査と強引な状況証拠の積み重ねで、大串を死刑にしていいんですか?」
 朝雄は古畑係長に食ってかかっている。
「どう見ても大串は犯人だろう。同じ地区で、同様の事件はここ五年発生していない。何が強引な捜査だ。法律的にも、人道的においても、何ら逸脱していないじゃないか。結果的に世論の望むとおりに犯人を見つけだすのが、なんで見込み捜査だ。地元住民は、今日から安心して生活していけるんだ」
「その通りだ。文句があるなら、お前が真犯人を逮捕してきたらどうだ」
 課長席で書類を見ていた鈴木課長がいった。
「警察の評判を落とさないために、何が何でも犯人を仕立て上げ、世論の留飲を下げる。事件が極悪であるほど、内容が悲惨であるほど、犯人逮捕に必死になる。すべて保身のための取調べであり、世論の賛同を得るための裁判なんだ。被疑者のことなんか、何にも考えていない」
「所轄の警部補が、県警にまで乗り込んできて何をいってる。じゃあ大串が犯人じゃないとなぜいえる。なぜだ。大串が犯人じゃないということを、証明してみたらどうだ」
「私はそんなことはいっていない。無理やり作り上げた状況証拠で、犯人かどうか分からない大串を、死刑にするのは止めろといっているんだ」
「犯人を仕立て上げただの、無理やり証拠を作り上げたなどと・・・。帰れ。帰って自分の仕事をやれ」
 再び鈴木課長が横から口を出してきた。

 控訴すると間もなく、菊池弁護士に長文のメールが届いた。差出人の名前はなかったが、明らかに捜査当局の者であることは分かった。それに書かれている内容は、捜査当局の一方的な証拠集めの実態であった。菊池弁護士はその内容に従って証拠事実の見直しを行い、控訴審に備えた。

 菊池弁護士の奮闘にも関わらず、控訴審での判決も一審とおなじ死刑判決であった。
 恵子と菊池弁護士は、迷わず上告した。
 上告の申し立ては、次の条件に当てはまる場合のみ受理される。
1.憲法違反があること、又は憲法の解釈に誤りがあること。
2.最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
3.最高裁判所の判例がない場合に、高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
 市原事件の上告は、これらの条件に当てはまらないことから棄却された。 ここに、大串正俊の死刑が確定した。

12

 上告棄却から一月あまりして、大串は確定死刑囚の処遇となった。東京拘置所では従来通りの独房だが、差し入れの食べ物は没収され、死を待つことが大串の仕事となった。死刑囚はあくまで執行待ちの身である。懲役受刑者ではないから刑務作業はなく、受刑服の着用や坊主頭なども強要されない。ただひたすらに死刑の執行を待つのである。
 刑務官が最も恐れるのは、死刑囚の自殺だ。洗面台の蛇口がボタン式なのも、鏡がフィルムなのも、壁に備えられているフックが一定の重さで外れるのも、すべて自殺を防止するためだ。健康診断が定期的に行われ、一定の運動が義務付けられるのも、健康な身体で死刑の執行を待つためだ。
 屠殺を待つ家畜と、何が違うのだろうかと思ってしまう。果たしてそれで、人間の尊厳を保っていると言えるのだろうかと。
 上告棄却後恵子が面会に来るのには、二月ほどの時間を要した。
 それまでの恵子といえば、正気を保つために毎晩缶ビールを三四本空ける必要があった。娘が寝入ったあと、ビールを飲みながら居間のソファーに一人座り、ただひたすら泣いた。何とか会社務めは継続していたが、職場で声をかけてくれるものは殆どいなくなった。夫と同じように、死刑囚の重みが恵子にも覆いかぶさっていた。「殺人者の妻と呼ばれてたまるものか」という気持ちだけが、支えとなっていた。朝起きて身だしなみを整えるときが、最もつらい時間である。身だしなみを整え、一人だけの世界から、迫害の世界へ出ていくための準備をしていることがつらかった。
 恵子と菊池弁護士が、死刑囚になって初めて面会に来た時、恵子はただただ泣き続けていた。その姿を見た大串は、アクリル板の向こうにある恵子の手を握りたいと思った。手の温もりと鼓動をもう一度確かめ、二人が生きていることを実感したいと思った。菊池弁護士は、再審の準備を始めていると何度も繰り返した。警察官らしき内通者がいることも打ち明け、再審請求のためには、新たな証拠が必要だといった。
 面会の最後に、菊池弁護士が一枚の紙を大串に見せた。それには、大串より先に死刑が確定している死刑囚の名前が書かれていた。「再審請求中の死刑囚が執行されることはありませんけど、未執行者がまだこれだけいますから、再審請求を急ぐ必要はありません」と、言葉を結んだ。
 恵子は泣き続けるばかりで最後まで言葉を発することはなく、現金を差し入れただけで帰っていった。

 死刑囚となって間もなく、半年に一度の総転房が行われた。今度の独居房はトイレが臭った。半日かけてトイレの掃除をした。
 留置場から拘置所に移り、体重が十キロも増えた。弁当での生活から、暖かい食事に換わったことが原因だと分かっている。できる限り運動をしようと考えているが、鳥かごのような一人用の運動場では、満足な運動もできない。健康維持のために紫外線に当たることだけが、唯一可能なのだ。せめて十メートルでもいいから、風を切って走りたい。遠くから聞こえる車の走行音だけが、世間の営みを感じさせてくれる唯一の場所なのだ。
 手紙を書くことだけが、唯一の社会との交流である。その蜘蛛の糸のように細い絆にしがみついている自分が、惨めではある。毎月再審請求の上申書を書いている。こんなものがどれほど有効であるかは分かっているが、唯一自分に課した仕事になっている。こんなんことで、拘禁性精神症から逃れようとしている自分も惨めに思える。
 面会や手紙による外部からの刺激に一喜一憂する自分も、まだ生身の人間だと感じさせてくれる。そんなある日、一通の手紙が届いた。

大串正俊 様
 大串さん覚えていますか? 護送車でお会いした時のことを。
 あの時のあなたは、降りしきる雨の音を𠮟りつけるかのように睨んでいました。とても恐ろしい顔をしていましたよ。ところが私と目が合ったときは、目じりを下げ、福神のように柔和な顔をしていました。ですから私は、反射的に笑顔を返しました。
 そのときあなたも私同様、冤罪なのだと確信したのです。冤罪の私だからこそ分かることなのです。

 ご存じかどうか分かりませんが、このほど私は再審請求が受理され、自由の身になりました。出所後新聞であなたの顔を見つけたとき、この人も冤罪だと、大声で叫んでいました。傍にいた姉はびっくりしていました。
 今振り返ってみると、支援してくださっている方々によって生かされていたのだと、つくづく感じています。無実が証明され、自由の身になることだけが生きる支えであり、再び故郷の海岸を姉と二人で散歩することが唯一の望みでした。
 あなたも望みは捨てないでください。万人があなたを殺人者と叫んでも、そうでないことは私が知っています。
 あなたは一人ではないのです。家族の方もいます。弁護人の方や、支援者の方々もいるのでしょう。そうしてあなたの無実を信じている、私がいるのですから。

 あなたが自由の身になったときに、やりたいことは何ですか。いつの日にか、あなたの夢が叶うことを私は知っています。その時はぜひ、私も仲間に入れてください。
 今日も私は、姉とるるん(愛犬です)と三人で、館山の海岸を散歩してきました。あなたにも、そんな日々が訪れることを祈っています。
                            菅田厳男

 死刑囚となった今、独りぼっちではないと考えることが難しくなってきていた。唯一の砦は妻であり娘であると考えてきたが、最近では二度と自由になることはなく、たった一人で死んでゆくのだという諦めの気持ちが大きくなってきていた。そんなときの、菅田厳男からの手紙であった。彼は望みを捨てないことを教えてくれ、自由の日の喜びを教えてくれた。何でもない日常の生活が、人間にとって最大の喜びであることを教えてくれた。
 だがしかし、生きることを望み始めた大串には、また別の苦しみが迫ってきていた。

 付近の房から、毎晩お経を唱える声が聞こえる。教誨師の教えなのか、毎晩聞こえてくる。死を覚悟し、平静を保ったままで死んでいくための準備なのか、それともただ死の恐怖から逃れたいためだけの行為なのかは分からない。静寂の中で突然、「ワァーッ」という雄叫びが聞こえてくることもある。それが終わると、どこからともなく、微かな鼾が聞こえてくる。死刑囚がそれぞれのやり方で、死の恐怖から何とかして逃れようとしている。
 菅田の手紙以来、大串も今まで以上に死ぬことが怖くなってきた。生きる望みが大きくなればなるほど、死の恐怖も大きくなっていくのが分かる。
 母の死を突然知った。五度目の面会の時、恵子が大串に伝えた。
 母の死を知らずに、冥界に旅立っていくことを不憫と思ったのだろうか。恵子も夫の死を、受け入れようとしていることが想像できた。
 生きる希望を持つと、日々の獄中生活も違ってくる。房や運動場の周りにある自然に、目を凝らすようになってくる。日々変わる空の色や雲の変化が、生きていることを実感させてくれる。獄庭のタンポポや房窓に巣を作っている蜘蛛に、生命の息吹を感じる。道路地図や旅行ガイドブックを差し入れてもらい、空想の世界で旅をするのも、死の恐怖から逃れる手段の一つになった。
 朝食の後、複数人の刑務官の足音が聞こえてくると、死刑囚に緊張が走る。房の扉を開ける音がしたあと、「お迎えに来ました」といういつもの言葉が、自分の房以外の所で放たれると、死刑囚たちの緊張が解かれる。静寂を保ったままで死刑囚が去っていくこともあれば、大声で何かを叫びながら遠ざかっていくこともある。そういう時は、手で耳をふさいでやり過ごす。 
 三日ほど前は、刑務官たちの足音が自分の房の前を通り過ぎ、再び房の前を、刑務官に囲まれた死刑囚が通り過ぎていった。大串は目を伏せ、耳を閉じ、深海の底に自分の身を沈めてやり過ごした。その後近くの房から、すすり泣く声が聞こえてきた。その声は徐々に大きくなり、最後には号泣となった。死刑囚が死刑囚の死を悲しんでいる。死刑囚が自分の死を悲しんでいる。いつの日にか突然襲ってくる刑死を意識しながら、皆それぞれに死の恐怖と戦っている。生きていることの辛さを実感しながら、生きている。
 死の恐怖とは何なのか。それは死ぬ直前の痛みに対する恐れなのか。それとも冥界という未知の世界への恐怖なのか。後に残される者の未来を見ることができないことへの失望なのか。ただ単に、二度と自我を認知できなくなることへの恐怖なのか。いずれにしても、恐怖心は止まらない。ただその恐怖心が怖いだけなのかもしれなのだが。

 昨年から房での胡坐が許可された。朝食のあと、胡坐を組んで道路地図を見ていた。胡坐姿で本を読むと、自分の部屋で雑誌を読んでいたころを思い出す。
 房には時計がないので、それが何時であったのかはわからない。道路地図に集中していると、遠くから刑務官たちの足音が近づいて生きた。道路地図から眼を放すと同時に、ガチャガチャガチャという音がしたあと、大串の房が開錠された。そうして房の扉が勢いよく開くと、「お迎えに来ました」という刑務官の声がした。咄嗟に大串は、胡坐をしている姿から正座に座り直した。一瞬にして、房の中に黒く深い霧が立ち込めた。大串が我に返ろうとしたとき、保安課長が慌てて駆けつけてきた。そうして刑務官に何かを呟いた。大串を迎えに来ていた刑務官達は慌てて、「舞違えた。隣の人だ」といって房の扉を閉じた。
 その日の午後フィルム製の鏡を見ると、頭髪が真っ白な男が写っていた。
 それからの大串は、面会人とも会おうとせず。手紙も途絶えた。常に夢でも見ているかのような虚ろな表情ですごし、本を読むことも、ラジオを聴くことも無くなった。囚人番号を呼ばれても返事をしなくなった。心配した刑務官が医者に見せると、解離性健忘症であると診断された。医師が刑務官に対し、最近何か変わったことはなかったかと聞いたが、刑務官は特にはなかったと回答した。
 連絡を受けた恵子と菊池弁護士が面会に訪れた。真っ白になった頭髪に恵子は驚いた。恵子と娘のことは理解していたが、菊池弁護士のことは分からなかった。 

 虚無の生活が一年近く続いたある日、東関東新聞社から菊池弁護士に電話がかかってきた。それは死刑発表の一時間前であった。菊池弁護士は、再審請求が遅くなったことがこのような事態を引き起こしたのだと、電話の相手に一言漏らした。
 菊池弁護士から連絡が来たとき、恵子は覚悟ができていたのか涙も見せず動揺もしなかった。ただ一言「お父さんは立派な人だったんだから、無実を信じてあげなさい」と娘にいっただけで、自分の寝室に入っていった。恵子の寝室からは、途絶え途絶えの泣き声が漏れ続けていた。
 居間のテレビでは、法務大臣の記者会見が流れていた。
「非道な動機に基づき被害者の尊い人命を奪った事案で、被害者や遺族の方々にとって、痛恨きわまりない事件だと思います。慎重な検討を重ねたうえで、死刑の執行を命令した次第です」
 日本での死刑判決は、事実上四審制といえる。事実上の最終審である法務大臣の会見は、通り一遍で無味乾燥な内容でしかなかった。

13

裕子ゆうこちゃん。何を読んでいるの」
 裕子はお昼の休み時間に、自分の事務机で本を読んでいる。大きな瞳と瓜実型の顔は、後ろで一つにまとめた髪とマッチし、誠実そうな雰囲気を醸し出している。しかしなぜか誠実さのかげに、愁いを含んだ表情も滲ませている。
「『ルネサンス画人伝』っていう本です」
「裕子ちゃんって、絵が好きなんだ」
「別に趣味っていう訳じゃないんですけど、家の整理をしていたら出てきたので」
「そうか。引っ越しの整理で出てきたんだ。今度の休みが引っ越しだったね。そうだ菅原君、引っ越しの手伝いに行ってよ」
「もちろんです」と返事するパラリーガルの菅原に向かって、裕子は申し訳なさそうな顔を投げかけ、所長の方に再び視線を戻した。
「父の書棚にありました。買ったのは多分父だと思うんです。父は時々絵画展に行っていましたから。少し汚れた封筒に入ったノート数冊と一緒に出てきたんです」
 所長が自分の机に引き返すと、絵画展のチケットを一枚持ってきた。
「お客からもらったチケットがあるんだけど、いくかい」
「ありがございます。行ってみます」
 勤め始めて数日しか経っていない裕子にとって、断ることなどできなかった。
「僕にはないんですか」
「すまん。一枚だけなんだ」
「君は司法試験の予備試験を目指してるんだろう。まずは勉強だ」
 菅原は残念そうな顔をして、椅子を戻して食べかけの昼食を再開した。 
 人ごみの中を縫うようにして上野駅の公園口を出ると、目の前は東京文化会館だ。東京文化会館の前には、募金活動をしている若者たちが並んでいた。東京文化会館の角を曲がると、目の前に国立西洋美術館が見えてくる。『ウイーン美術史美術館展』と書かれた、大きな看板が目に入ってきた。すぐ傍を子供が走り抜けていく。それを制止するためか、「危ないから走るのは止めなさい」と、母親らしき人の声が聞こえる。弁当でも入っているのか、大きなバッグと水筒を抱えて両親が追いかけている。
 そういえば、両親とここによく来ていたことを思い出した。父は西洋美術館に消えてゆき、母と二人で時間をつぶすために、上野動物園に行った。そんなとき通りすがりの女性から、「おばあちゃんと一緒でいいわねえ」といわれたことがあった。四十前で私を生んだ母は、それをいわれるのが一番嫌だとよくいっていた。
 土曜日であるのも関係しているのか、入館迄に一時間近く待たされた。列に並んで待つ裕子の横を、数組の家族ずれが急ぎ足で消え行った。
 美術館の中に入っても、人混みの中をただ歩くだけの絵画鑑賞だった。いや、絵画鑑賞というより、後頭部の鑑賞に近かった。特別展を見終わると、常設展が鑑賞できた。こちらは人の姿もまばらで、裕子はやっと一息つけた。これで所長への義務を果たせたのだと安心できた。常設展の出口には、美術関係の物品販売を行っているコーナーがある。所長へのお礼にしようと、絵が描かれているカードを一枚買った。そのコーナーには、美術史の本も並んでいた。本棚の一番奥まで、何とはなしに眺めてみた。その本棚の真ん中あたりに、『ルネサンス画人伝』と『続ルネサンス画人伝』の二冊が並んで納まっていた。

 裕子の中学生活は不登校であった。殆どの時間を自分の部屋で過ごした。高校と大学は通信で受講した。大学では法学部を専攻した。大学卒業後は就職せず、アルバイト生活で過ごした。定年退職していた母が裕子を咎めることはなかった。一昨年、裕子が二十六歳の時に父が刑死した。それから一年後、父の後を追うように母の恵子も他界した。心労が重なっていた上に、父の刑死で生きる術を失っていた時の病死であった。
 そんな時、リーマンショックで裕子の勤め先が廃業した。大串の刑死に少なからず自責の念を持っていた菊池弁護士が、パラリーガルとして採用した。菊池弁護士と幼いころから親交のあった裕子は、お受けすることにした。それに伴い、あまりいい思い出もない実家を処分し、事務所に近いアパートに引っ越すことにした。
 裕子は父の面会に一度も行っていない。逮捕時にうなだれて玄関を出ていった父の後姿が、裕子にとって最後の父であった。自分の人生をめちゃくちゃにした父を、裕子は許すことができなかった。中学では同級生にいじめられた。高校や大学は、人と接触することのない通信教育で卒業した。就職においても、詳細な履歴書や厳密な面接を避けるため、アルバイト生活を選択した。だから父の面会には行かなかった。父も面会を希望しなかった。

 引っ越しの準備で、毎晩遅くまで大量のごみ袋を作った。父に関する思い出の品は、すべて捨てることにした。母との思い出の品は、数を限って新居に移すことにした。
 本棚の本はすべて捨てることにした。読みかけの『ルネサンス画人伝』だけは、読み終わってから捨てることにした。本棚の本をすべて捨てると、古ぼけた封筒だけが残った。捨てる前に、ノートの中を一度確認してから捨てようと思った。四冊のノートにはそれぞれ番号が振ってあり、四番のノートが一番上になっていた。裕子は四番目のノートの一ページ目を開いてみた。最初の行には日付が書かれており、日記のような体裁に整えられていた。

平成十九年十月十日(水曜日)
 人生とは、それそのものが意味を持っている。だからこそ、運命にも、苦悩にも、死にも、堂々と立ち向かわなければならない。そうすることによってのみ、人生の責務を全うできるのだ。だからこそ、冤罪という最もひどい運命に直面しても、直視し、対決しなければならないのだ。
 もちろん苦悩に悶絶し、涙を流すこともある。しかしこの涙を恥じることはない。それは苦悩へ立ち向かっている証なのだから。

平成十九年十月二十三日(火曜日)
 死ぬ直前まで私から奪うことができないものは、精神の自由だ。肉体的拘束を強いられている今においても、息を引き取るそのときまで、精神は自由だ。だからこそ、残り少ない自分の人生を有意義に過ごすことができるのだ。
 精神的な自由を失ったときに自己の崩壊が始まるとするならば、無実を証明するという目標を諦めたときから、それは始まるのだ。自分の未来を信じることができなくなった人間は拠り所を失い、精神的に瓦解していくのだ。その目標が困難であればあるほど、精神的に成長する機会を与えられるのだ。
 たとえそれが刑死であったとしても。

平成十九年十一月九日(金曜日)
 私はこの世で一人しか存在しない。それもたった一度だけの限られた人生だ。もちろん他者と取り換えることはできないし、死を回避することもできない。この事実は、私が自我を認知した時から始まっている。
 恵子や裕子と過ごした人生も、かけがえのない一度きりの人生だ。これは私が私に負わせた責務でもあるのだ。
 果たして恵子や裕子に対する責務を、私は全うしたのだろうか。殺人者の家族という汚名をそそげなかったことは、その責務を放棄したことにはならないのか。
 恵子と面会することは、獄中生活での必要上しかたのないことだろう。しかし裕子と会うことには躊躇してしまう。無実を証明できなかった私が、どうしてそれを要求できるのだろうか。これからの裕子の人生にとってできるだけ自分の影を消すことが、今の自分に課された責務ではないのだろうか。 
 しかし一度でいいから、裕子に会いたい。

 ここまで読み終わったとき、裕子の大きな瞳からは、大粒の涙が溢れ落ちていた。暫く号泣し、再びノートを読み始めるのには、一時間あまりの時間を要した。
 しかしその後のページは白紙のままで、虚無の世界が広がっていた。父が無限の彼方に遠ざかっていくのが分かった。
 最後の日付は父が白髪に豹変した日の、十日ほど前の日付であった。

 裕子は獄中ノートのことを菊池弁護士に話した。そうして父の無実を確信していると告げ、やり残した父の責務を達成する仕事に、自分もぜひ参加させて欲しいと懇願した。そうすれば、父がまた私の下に帰ってこられるのだと付け加えた。
「お母さんはなぜ、このノートを裕子ちゃんに見せなかったのかなあ」
「父のことを、私が憎んでいると思っていたからだと思います」
「再審請求の壁は非常に高いし、ましてや死刑の執行が終わっている事件の再審請求は、未だかって前例がないんだよ。再審請求に必要なものは、新たな直接証拠だ」
 菊池弁護士は、諦めの表情を浮かべながらいった。その話を真剣な眼差しで聞いていた裕子は、否定的な言葉をものともせず、懇願の眼差しを変えることはなかった。
「分かった。じゃあ私の作った裁判資料から読み込んでみようか」
 裁判資料を読むことによって、裕子は初めて事件の詳細を知ることになった。
 裁判記録を読んでいた裕子には、一つの疑問が残った。
「所長。これに書かれてある情報提供者って誰なんですか」
「匿名なんだけど、どうやら捜査当局からの内通者らしいんだ。当然名前も電話番号も分からない」
「じゃあ、情報は手紙ですか」
「いや。メールだ。組織ではなく個人のアドレスだけど、何度か事件に関する問い合わせをしたことはある。だけどあえて、誰かは探らなかった。状況からしてマナーだろ。それにここ数年余り、やり取りも無くなってる」
 そんな日々が過ぎ、裁判資料を読み終わろうとしたころ父の命日がやってきた。裕子は初めて、少女たちの死体発見現場を訪れてみようと思った。
 初冬といっても、房総の冬は暖かい。源氏山の紅葉はまだ始まったばかりだった。木々の緑は少しばかり輝きを失い、黄色や紅色がところどころに顔をだし始めている。落ち葉の舞う姿もまだ見られない。ただ高い雲だけが、秋の訪れを告げていた。
 源氏山の山路に入ってみたが、同じようなカーブ道が続き、死体遺棄現場を発見できなかった。いくつかのカーブを曲がったところに、一台の車が停まっていた。その車の横を通りすぎながら、車の傍に立っている一人の男性に眼が留まった。初老のその男性は、谷の方に向かって手を合わせていた。裕子はそのまま通り過ぎ、暫く登ってからさっき車の停まっていた場所に引き返した。さっきの車はもういなかった。
 路肩から少し下ったところに、枯れた花束がいくつか置かれてあった。二月の寒い日に投げ捨てられた、少女たちの姿が浮かんでくる。裁判資料にあった通りの、少女たちの姿を思い浮かべてみた。父が犯人だと思っていた時には想像すらできなかったことを、今自分が行っている。それは自分が、父の無実を信じているからこそできる行為だと思った。
 裕子は合掌し、その場を立ち去った。
 暫く下ると、またさっきの車が停まっていた。そこにも、先ほど手を合わせていた男性が立っていた。裕子が少し手前に車を停め、車のドアを開けると、その男は車に乗り込み去って行った。
 ここは遺留品の遺棄現場だと思った。父が目撃されたとされている場所だ。左カーブの下り坂にその場所はあった。勾配はきついが、比較的道幅は広かった。ここでも裕子は合掌した。
 裕子は情報提供者にメールを出してみることにした。勿論所長には内緒である。返事は返ってこなかった。
 再審請求の準備は進まない。もっとたくさんの証拠品が捜査当局にはあるはずだ。しかしどの証拠品が重要で、どの証拠が意味のない証拠なのかも分からない。もしもその証拠が再審請求に必要な証拠であったとしても、捜査当局が開示してくれるはずもない。再審請求を求める側が、新な証拠を探し出すしかないのだ。だがこちらには、警察のような捜査権限はない。裕子には捜査の糸口さえ見つけだすことができなかった。唯一裕子が可能性を見出せているとすれば、内部情報提供者からの新たな情報提供であった。
 月に一回程度、裕子はメールを打ち続けた。

 裕子は死刑判決の根拠となった状況証拠を、箇条書きで整理してみた。1.目撃情報とアリバイ
・遺留品遺棄場所での目撃情報は信頼性が薄く再調査の必要あり
2.DNA鑑定ー×
・再鑑定に必要な試料は捜査段階ですでに使い切っている
・裁判で使用されなかった鑑定データや画像は、担当技官の退職時に私物として処分されている
3.車下取りと徹底的な清掃ー?
・父がなぜそのようなことを行ったのだろうか?
4.死体に付着していた犯人の血液ー?
・犯人が出血した原因の解明が必要
5.座席シート裏からの血痕とシートの尿斑ー×
・父は中古車で購入しており過去に付着していても不思議はない
・警察の捏造であれば解明は不可能だ

 再捜査の必要性を感じない項目には、タイトルの下に『×』を付け、直接証拠を見つけだすことが困難なものには『?』をつけてみた。
 父はなぜ、捜査対象となっている車を手放したのか。なぜ捏造の手助けをしてしまったのか。何ら自分にとって有利なことはないのに、なぜに。やはり自分が犯人ではないことをしっていたから、何も考えずに処分してしまったのか。
 父はなぜあれほどまでに、下取りに出してしまう車を清掃したのか。父は決して極端なほどにきれい好きとはいえなかった。ではなぜ。下取り時の価格交渉を有利に進めるためだったのか。
 疑問はのこるが、父がいない今、永久に解決方法を見つけることはできない。
 犯人が出血していた原因とはなんなのか。こちらも全く分からない。あらゆる理由が考えられる。ただ単に、犯行時に傷を負ったのか。それとも元々手を怪我でもしていたのか。あらゆる理由が考えられるのだ。
 父を犯人と決めつけて考えるものだから、状況証拠は父の方に悪く影響し、すべてを関連付けて父を犯人に仕立て上げてしまうのだ。父が犯人ではないと考えて状況証拠を精査すれば、全く違った方向が見出せるはずではないのか。
 一方目撃証拠だけは、そうではない気がする。事情聴取での誘導さえなければ・・・。だが再調査の方法が裕子には分からない。内部情報提供者へのメールだけは、月に一度打ち続けていた。

 また二月二十日がやってきた。裕子が捜査を始めて四カ月も経ってしまった。裕子は死体遺棄現場に行ってみることにした。そのことを、内部情報提供者へのメールにも打っておいた。今回も返事はなかった。
 二月の朝は部屋の空気さえ冷たく冴え、目覚ましの音が甲高く聞こえる。捜査現場に直行することは、昨晩所長に伝えておいた。今日は少し遅くまで寝ていられるのだ。だが目覚ましを遅らせておくのを忘れてしまった。ベッドに横臥したままで、上半身を持ち上げてカーテンを開けてみた。差し込んできた強烈な太陽の光は、冷たく冴えている部屋の空気を穏やかな陽光に換えている。
 裕子はスマホを取り上げ、‎テイラー・スウィフトの曲を流し始めた。
 再審申請の仕事を始めてから、なぜか生活に張りが出てきた。今日の朝日のように、自分の何かを変えつつあるようだ。濃いコーヒーをおとし、コーンフレークに牛乳をかけ、いつもよりゆっくり朝食を摂った。
 出かける準備が終わっても、予定の出発時刻より一時間ばかり早かったがためらわずに家を出た。
 源氏山ゴルフ倶楽部の柵が終わるとろで右に折れると、源氏山の山路に入る。山路は冷え切っていた。車の暖房を効かせ、エンジン音を唸らせながら裕子の軽自動車は坂道を登っていった。
 いくつものカーブを曲がり、死体遺棄場所に着いた。裕子は車を停め、内部情報提供者を待った。きっと来てくれる。メールの返事はなかったが、なぜかそんな気がしていた。
 山の空気は冷え切っていた。暖房のためにエンジンを切ることはできず、微かな振動と軽やかなエンジン音は、裕子の眠気を誘った。
 裕子の横を幾台かの軽トラックが通り過ぎていった。裕子がうたた寝をしていると、一台の乗用車が横を登っていった。暫くして、その車がゆっくりと引き返してきた。その車は、裕子の車に対向して停車した。車を運転している男性に見覚えがあった。四カ月前、同じこの場所で見かけた男性だった。暫くの間、二人は顔を見合わせていた。
 意を決して裕子が車から降りて男の車に近づくと、助手席を指で示し、そこに座るように促した。
「警察の方ですよね」
 ドアを開けたままで、裕子が尋ねた。
「先月まではね。今は雀荘通いの不良老人です。寒いから、早く車に入ってドアを閉めてよ」
 朝雄はいつになく、ぎこちない作り笑いで答えた。裕子は助手席に置いてある麻雀雑誌を後部座席に移し、助手席に座ってドアを閉めた。
「こんなに大きくなったんだね。あの頃は確か小学生だ。お母さんは元気かい」
「去年亡くなりました」
「そうなのか。じゃあ君は一人ぼっちか」
 裕子は小さく頷いた。
「十八年前、ここで少女たちの遺体が発見されたんだ。あの日も寒かった」「あのう。私は今、菊池弁護士事務所に勤めています」
「それでなんだ。メールの訳が分かったよ」
「すみません」
 裕子は一言謝り、今日までの経緯を朝雄に話した。
「それで俺に手伝えっていうことか」
 暫く考えていた麻雄は無言で車から降り、遺体遺棄現場を見つめながら煙草を一本吸った。
 戻るなり、「菊池弁護士の所に行こう」といった。裕子が先導して、二台の車は源氏山を降って行った。

「俺は所轄だし、比較的早く捜査本部から外れたので、お偉方が何を考えていたのか分からない。でも捜査本部のやり方はあまりにもひどい。大串を犯人だと決めつけ、犯人として仕立て上げるための証拠を集めていたんだ。それは世論に迎合し、警察の威信を保ちたいだけの捜査だった。挙句の果てには、推定無罪の原則も無視し、死刑にまでしてしまった。俺が大串の無実を信じていた訳ではなかったが、古畑が許せなかった。だが組織内にいると何かと制約がある。先月警察を退職した日に、たまたま彼女からメールが届いた。それでこのようになってしまった訳だ」
 菊池弁護士は、一言一言頷きながら聞いていた。
「ここに来る間に、調査方針を考えていた。まず石松教授に会う。次に遺留品遺棄現場の目撃者に会う」
「警察が望むように証言を翻した、法医学教室の教授ですね。それに、あまりにも詳細な目撃証言をした男性ですか。でも我々だとなかなか話をしてくれないんですよ」
「それも考えた。俺が退職するときチームを組んでいた部下を連れてくる。刑事になったばかりでまだ見習の身だから、無理は利くはずだ」
 菊池弁護士は二人を見まわし、すっかり禿げ上がってしまった頭を撫ぜながら、満足の笑いを浮かべた。

 大学の近くにあるカフェで、麻雄は煙草の箱を手の上で転がしながら座っている。カフェでありながら、禁煙の店が最近増えてきている。
「細田警部補に叱られますよ。半日だけですよ」
 二十歳台後半の男性が、入ってくるなり麻雄の向かいの席に座った。
「お前の席はそこじゃない。隣の席だ。もう一人来る。三船には俺が話してある。お前は黙って、俺のいう通りにすりゃあいいんだ」
「半日だけですよ」
 そこへ裕子が店に入って来た。
「裕子?」
「翔|《しょう》じゃないの」
 二人は気まずそうな顔で見つめあった。
「二人は知り合いなのか?」
「中学の時の同級です。私が学校に行かなくなった原因の一人です」
「それは誤解だよ。家族や友人も、裕子を敵視してたんだ。被害者の母親が学校の先生だったこともあって、先生たちも陰でいろいろいっていたし・・・。僕は仲間外れになるのが嫌でつい・・・」
「分かった。今日から二人は同志だ。お前はまず、裕子さんの父親が無実だと信じることを努力しろ。いや努力じゃない。いいから100%信じ込め」「そんな無理をいわれても・・・」
「そんなことより、これから会う人の前で警察手帳を見せるだけでいい。あとは何もしなくていいから、黙って座っていろ。分かったな」
 翔は不承不承であったが承諾した。
「市原事件について聞きたいそうですが、今日は何を話せばいいのですか?」
 石松教授が切り出した。
「試料が少ないから、鑑定結果が正確に出ないと前言を翻したときのことを・・・」
「それですか。それは古畑係長から強引に求められたからですよ。裁判でも、強引に求められたと話していますよ。古畑さんって、なんですかあれは。あの強引さは」
「おかげで古畑は、一課長に出世していますよ。市原事件解決の功労者ですから。ところで本当のところはどうなんですか?」
「はっきりいって、HLADQα法での鑑定結果には自信を持っています。確かに試料は少なかったけど、あの量なら正確に検定できたと私は信じています。私が古畑さんに話したのは定性的な話で、試料の量が少ない場合、そんな恐れがあるといっただけです。ところがいつの間にか、裁判ではあんな話にされてしまいました」
 石松教授の無責任極まりない話に、裕子は怒りさえ覚えていた。
「もう一回鑑定すればいい話ですけど、なんせ試料がどこにもありませんからねえ。でもDNA鑑定は証拠として扱われなかったから、関係ない話でしょ」
 石松教授は他人事のように話を結んだ。
 DNA鑑定が証拠から外されたことによって、HLADQα法で父の無実が証明されていたことさえも、無かったことにされてしまったのだと裕子は思った。

 そんなことがあってから数日後、目撃者の話を聞くことになった。
「どうだ。100%までいったか?」
 朝雄は翔に会うたびに、同じセリフを繰り返す。
「無理をいわないでくださいよ。でも石松教授の話を聞いて、古畑課長の強引なやりかたに少し戸惑いを感じています」
「今はそれぐらいでいいだろう」
 朝雄と裕子は二人揃って、声を出して笑った。
 長原のおじいちゃんは末期の癌に侵され、病棟のベッドで臥せっていた。その老人の太い眉毛とキリとしまった唇が、誠実さを表していた。法廷での証言に何ら間違いはなく、真実しか話していないと何度も繰り返した。
 何ら新しい証言は聞けずに話が終わろうとしたとき、翔がスマホの画面を長原に見せた。それにはあずき色のSUV車が映し出されていた。
「おう。これだ。私が見たのはこの車だ」
 翔は長原のおじいちゃんに微笑みかけると、得意そうな顔でスマホをポケットに仕舞った。病院の廊下に出ると、麻雄が翔を𠮟りつけた。
「何をしたんだ? 黙って見てりゃいいっていったろうが」
「さっき見せた車の車種、なんだか分かりますか?」
「シボレーブレイザーだろうが。見飽きるぐらい見てる」
「それが違うんですよ。フォードエクスプローラです」
「どうゆうことだ?」
「あんな老人が車種名まで分かるはずがないって思ったんで、昨晩ちょっと調べてみたんです。当時シボレーブレイザーに似た車が発売されて、話題になっていたんです。その車は事件の一年前に発売されたばかりで、ほとんどの人が見分けつかなかったはずです。ましてや、外車ですよ、お年寄りですよ」
「やるじゃないか。さすが俺の最後の教え子だ」
「植木職人が見たのは裕子のお父さんで、長原さんが見たのは、フォードエクスプローラに乗った別の男だという仮説が成り立つんですよ」
 得意そうに鼻を鳴らして、翔は話をつづけた。
「裕子は左カーブを曲がるとき、視線は何処にある? それもかなりの下り坂だ」
「そうね。カーブの向こうから急に車が出てくる心配があるから、必ず左前を見て運転すると思うわ」
「そうだろう、右端に停まっている車を見たとしても一瞬だ。だからあんなに詳しく証言できるはずがない。すべて古畑課長の誘導だ」
「それはそうだな。だが、それをどうやって証明する?」
 朝雄が感心の表情を浮かべていった。
「そこまでは考えていません。でも裕子に、少しでも協力できればと思って考えたんですよ。お詫びの気持ちで・・・」
 翔がそう答えると麻雄はあきれ顔で、「やっぱりお前は馬鹿だ。だが今日はよくやった」と言い放った。翔がそんな風に考えてくれていることが、裕子には嬉しかった。
 だがしかし、その後の調査に進展は見られなかった

14

 『ルネサンス画人伝』の方は、やっと最後のページまで読み進めることができた。別段興味があるわけでもなく、思い出したように時々読むだけなので、読み終わるのに今日までかかってしまった。
 最後のページには父の字で、「『続ルネサンス画人伝』を市原書店で取り寄せる」と走り書きされていた。父がこの本をどのようにして入手したのかという謎が、その時解けた。近隣の書店に置いてあるような本ではない。西洋美術館に行けば買えるが、上野に行くのは年に一二度だ。そうなのか。父は市原書店で取り寄せていたのだ。
 裕子も市原書店で、『続ルネサンス画人伝』を取り寄せることにした。父と同じことをしている自分が、なんとなく嬉しかった。父が身近に居てくれているような気がした。
 市原書店で本を注文するときは、注文票に本のタイトルと著者、出版社、氏名、電話番号を書き、最後に注文日時を記入して終わりだ。
「本が届いたらお電話を差し上げますから、二週間以内にお受け取りください。その期間を過ぎた場合は、キャンセルとさせて頂きます」
 店員はマニュアル通りの台詞を、無表情でいった。
「あれ、この本ですか。二度目です。いや、続じゃなかったかも。でもこんな珍しい本はめったに注文されませんから、記憶に残っていますよ。毎日十一時に発注しますから、一週間後には届く予定です」
 店員はそういいながら、注文票をバインダーに綴じた。
 裕子は父の注文票を見たいと思った。自分と同じことをしていた証が欲しいと思った。これを父の形見として、一生持ち続けようと思った。
「お父さんのですか? 個人情報ですから本人でないと」
「父はもう亡くなっているんです」
「そうですか、でしたら身分が分かるものを拝見させてください。例えば免許証とか」
 無事裕子は、三枚の注文票のコピーを入手することができた。裕子は大事な形見をバッグの奥にしまい込んだ。
 アパートに帰った裕子は、‎テイラー・スウィフトを流し、コーヒーをおとし、注文票を一枚一枚時間をかけて見ていった。それはまさに父の筆跡であった。父が生きていた証であった。最も新しいものは、『ルネサンス画人伝』だった。『続ルネサンス画人伝』は注文されていなかった。注文票に書かれている父の名前、我が家の住所や電話番号。そこには父がいた。まぎれもなく、父の息遣いが聞こえてきた。
 最下段には受注日時が書かれていた。それを見たとき、目を疑った。もう一度目を凝らして受注日時を見た。続けて発注日時を見たとき、裕子の瞳から涙が噴き出してきた。その涙が止まることはなかった。
 裕子は床に崩れ落ち、泣き続けた。

受注日 平成四年二月二十日 午前十時四十分
発注日 平成四年二月二十日 午前十一時五分
受渡日 平成四年二月三十日 午前十時二十分

 権威主義国家の中国でさえ、有罪率は98%だ。判決における過ちを恐れるばかりに、日本の有罪率は99.9%とさらに高い。
 決して判決に過ちがあってはならない。しかし冤罪という過ちを認めないことは、もっとあってはならない。

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