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哀れなるものたちを見て感じたフェミニズム

非常に不思議な映画だった。
だからこの映画の感想は非常に難しい。
見終わった後、「面白い」とも「面白くない」とも表現できない自分がいた。
あえて言うなら「奇妙で引き込まれた」というところだろうか。
見終わった後はしばらく脳内がバグっていて、夢の中にいるような時間が続き、現実のレストランでしばらく過ごしているうちに、映画の世界に脳内が占領されてしまっていたのだと気が付く。そんな感じ。
・・・ってどんな感じやねん。
まぁただ、もしこの文で興味をひかれても、初デートで映画に連れていくことはおすすめしない(笑)

さて、そんな映画「哀れなるものたち」
ネタバレを含みつつ、少し感想を書こうと思う。

あらすじ

映画の内容を簡単に説明すると、
胎児の脳を持った成人女性ベラが成長していく様(冒険譚)を描いた映画
ということだろう。
もう少し詳しく書くと、マッドサイエンティストともとれる天才外科医のゴドウィン(ゴッド)博士は偶然亡くなったばかりの妊婦を発見する。ゴッド博士はこれを研究のチャンスと捉え、胎児の脳を母親の身体に移植し蘇生させることに成功した。
彼女の名前をベラと名付け、研究対象とする。ベラは成人の身体を持っているが、中身は幼児。その【体は大人、中身は幼児である】ベラが、家の中を飛び出し、町に出て、海を越え、様々な出会いと経験(冒険)とともに成長していくストーリー。

奇妙な音と映像

このようなストーリーのあらすじだけを見ると、ベラが純粋さとともに成長していく感動の一大ストーリーとなりそうなところだ。
事実私も映画を見るまでそんな要素もあるんだろうと思いながら映画館へついた。
ところが、監督は鬼才ヨルゴス・ランティモス
そんな簡単な描写は一切ない。
映画は終始独特で、人間の本能と強欲が絡み合った一筋縄では行かない展開となっている。

その表現は冒頭の音楽から始まる。
人を不快にするような不協和音の連続。
魚眼レンズで除いたような白黒で歪んだ世界。
ほの暗さを感じる進行
エマストーン演じるベラの突飛な叫び。
今から私たちが見る映画は、こういう映画ですと言わんばかりの執拗な不快さ。人間のいやらしいところを見透かされているようなヌルりとした音と映像に心がキーーとなる。

ここで私は、「あぁこの映画一筋縄ではいかないなぁ」と覚悟することになる。

明るく爽快でテンポの速い展開な映画が好みの人は、このあたりで脱落しそうではあるが、ドンドンとその世界観に引き込まれてしまう不思議。

さて、父と家の中だけという『白黒の世界』で生きてきたベラはやがて性に目覚め、男を知り、閉じ込められた世界から外に出て、『色のある世界』を冒険し始める。

大人のおとぎ話のような奇妙な世界

外に出た世界は、夢のような、おとぎ話のような、ガウディのような、シュルレアリスムのような世界。19世紀といいつつも、やはり建築も馬車も動物も服装もどこか歪んでいて奇妙さが残る。子供から見た世界はあんな風に映るのだろうか?
空間一つ一つがまた癖になる。
描き始めるときりがないので実際に映画館でその奇妙さを感じてもらいたいが、「きゃーーーー!!綺麗!!!」という感じではないことは付け加えておく。ラッセンよりもダリが好きという感じというと語弊があるだろうか?(笑)
ただ映像だけでも映画に行く価値はある。

本当のフェミニズムとは?

さて、大人なおとぎ話を通じ私がこの映画から感じたことは、「フェミニズム」だ。それは昨今の「女性は弱い立場だから」という前提があるフェミニズムではなく、一人の自立した女性の強さ、本当のフェミニズムを描いているという感じがする。

自由気ままで本能のまま動いているように見えるベラは絶えずある種の抑制を受けている。
親がわりであるゴドウィンによる家に閉じ込めておくという抑制から始まり、外に出ても性を教えてくれた男ダンカンの嫉妬が続く。抜け出し自由になったように見えても、娼婦として男を選べないというジレンマが続く。それから解放されても結婚、元旦那の支配欲などなど、終始男性に押さえつけられている。
しかしベラは自身の成長とともにその殻を割りながら、本当の自由を見つけていく。
そこに相手への訴えはなく、私は私の思うように生きる
そんな前向きなメッセージを常にベラは発している。

一方で、ベラに執着した男性があまりにも情けなく描かれている。
元旦那だった貴族の男しかり、性を教えたダンカンしかり。
ベラを自分のものにしようとした者たちは、肩透かしを食らい、純粋で自由に生きる女性であるベラにとって無意味なものになってしまう。
ベラの今と未来を生きる姿は、過去を引きずる男性たちの姿との対比に思え、過去を引きづる男のなんと情けないことか!とついつい思ってしまった。

最後に

さて、本作品、後々知ったことではあるが女性版フランケンシュタインとしてしられているらしい。
なにせ、ベラを生み出した「ゴッドウィン・バクスター」の名前はフランケンシュタインの著者である女性作家メアリー・シェリーの父親の姓と、メアリーが一時身を寄せることになる父親の知人の姓を組み合わせたものとなっているのだから。

ここで私はある考察に出会った。それは
フランケンシュタインは愛情ないまま育ったからモンスターになったが、ベラはゴドウィンに愛されて育ったからピュアで愛のある人物に育ったのではないだろうか?
ということだ。

いくつかの登場人物に胸糞わるく覚えることも多々あったけれど、父親役であるゴドウィン(ゴッド)の愛は(ゆがんでいるとは言え)純粋だった
彼女の婚約者で外科医のマックスも弱弱しく危ういけれど、彼女のすべてを受け入れる器をもっていた。

非常に奇妙な映画で、頭もバグってしまったけれど、振り返ってみると人間の本当の愛、慈愛のようなものを感じさせてくれる映画だった。
ただ、愛というものは欲と隣り合わせで危ういものでもある。

夢の中にいるようで、現実の残酷さとそれでも立ち向かえる強さを感じさせてくれる映画だった。
また見たい?と問われると
そう思えるような、もうおなか一杯のような
感想の最後まで困らせられる、やっぱり不思議で奇妙な映画であったようだ。

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