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青年海外協力隊、残り626日。「無力感」の入り口に立つ。

という記事を、数日前に書きました。

悩んで悩んで悩んだだけのことを書いた、重たいし、おもんないし、悩みの内容も今となってはよくわからんし、とにかくごちゃごちゃしている記事。実際悩んでるときの自分ってこんな風なんだなってほんの少し客観的に見れた。そういう意味では、書いといてよかったのかな。

数日前の私の心境、スタート。

青年海外協力隊は、求人票のようにさまざまな「要請」の中から自分にマッチするものを第3希望まで選んで応募し、派遣国や配属先が決定して、日本での訓練を経て途上国で2年間活動する。要請は配属先(協力隊が活動する受入先)ごとに出されているため、同じ職種であっても国や地域、配属先のニーズによって、全く異なる活動をしていたりする。応募するときはもちろん自分の経験や知識を活かせる職種の中から要請を絞り込むし、実務経験が必要な職種も多いのでそれまでのキャリアによって必然的に応募できる配属先は限られる。A4用紙1枚に纏められた要請の中から汲み取れる情報には限界があり、活動の難しさについては技術補完訓練ぐらいからなんとなく耳にし始めることになる。

協力隊というものに明るくなくても、国際協力といったら、医療関係や教育関係の分野で活動している隊員が居るというのは、なんとなくイメージが付きやすいのではないだろうか。その中で一番、「名前だけでは何をするか分からない」のが、「コミュニティ開発」という職種だ。そして私はそのコミュニティ開発という職種の中の要請に自分に当てはまるものを見つけ、いまこうしてラオスに居る。

コミュニティ開発は、地域住民が望む生活向上や地域活性化への寄与を目的としています。フィールドワークや住民参加型のワークショップを企画・運営し、地域や住民の状況、ニーズ、課題を把握することが出発点となります。住民とともに、人的資源・地域資源を最大限活用し、地域の開発課題解決のために活動します。
活動分野は、農業普及、保健医療、水・衛生、地場産業振興、村落開発事業など、地域の開発課題に合わせて多岐にわたっています。
コミュニティ開発に求められる能力として、地域の開発課題に対する当事者意識、地域住民とのコミュニケーション能力、地域課題や文化を理解する力、人と人とをつなげる調整能力、新しい企画や解決策を導き出す創造力が挙げられます。
また、地域開発・活性化、まちおこしや、ワークショップ・イベント・セミナーなどの企画運営、一村一品、収入向上等に関する知識・経験は活動する上で役立ちます。

https://www.jica.go.jp/volunteer/application/seinen/job_info/community/

これがコミュニティ開発だ。(JICAのWebサイトより。)コミュニティ開発の要請を見ていると、「草の根of草の根」な活動も多々ある中、私はわりと活動内容の定まった要請で派遣されている。上の文章の中でいうと「地場産業振興」「村落開発事業」「一村一品」「収入向上」といったキーワードに絡んでいて、ラオスの「ODOP=One District One Product」と呼ばれる認証制度を活用し地場産業の活性化を行うというのが、私の活動の主な目的である。

本赴任3カ月目、活動の難しさを痛感し始める

そして今、私は、猛烈に、行き詰っている。行き詰りすぎて、体調を崩している。眠れない、体がだるい、微熱が下がらない。こんなことになるとは思っていなかったので、自分自身大変驚いている。

それぐらい、自分が今居る環境での活動に、難しさを感じているということなのか。自分が感じる活動の難しさは、何が原因で、いつか解消されるのか。それとも、されないのか。されなかったら、私はこれからどうやって活動していけばいいのか。「そんなこと派遣前から分かってたやろ!」「言い訳や!」「みんなそれぞれの難しさと向き合いながら活動してる。甘ったれんな!」・・・と、自分自身、思う。そして、しんどくなって「全部自分の力不足だ」と思考が止まった。手元には、薄っぺらにもほどがある1号報告書と、活動のことが書かれていないスケジュール帳、そして絶望の、「日記兼がんばりノート」。

私がカンボジアに居たとき出会った学生が、国際協力を志して協力隊になりアフリカへと旅立つとき、私はハードカバーの厚手のノートとペンを渡した。「どんな些細なことでもいいから、嬉しかったことや、頑張ったことを書いて、自分のことを褒めてあげて。それをいっぱい書き溜めて、自分の支えにしてね。」という手紙を添えた。それは、カンボジアで2年働いていたときに自分自身が経験したどうしようもない無力感から、少しでも自分をすくい上げるための唯一の手段だった。

今、それを自分自身がまた経験している。今回は丁寧に向き合う時間にするために、ちょっと良いノートを持ってきた。今のところ、日記兼がんばりノートには、人の事ばっかりが書いてあり、肝心な、自分の事については殆ど触れていない。書くことがない、というのが正しいのかもしれない。ラオスに来てからの語学訓練期間中に触れた同期隊員や先輩隊員の優しさ、強さ。遠くで頑張る隊員がくれた温かい言葉。配属先の人たちや、地域の人たちと出来た新しいつながりの中で、嬉しかったこと・わくわくしたこと。どれも私に力をくれるけど、肝心の「自分自身」のことについてまだ何も書けていない。今回は、あの時の比ではない。日本人が創った会社で、従業員も日本人に理解があり、仕事も与えてもらえていた中感じていた、「役に立てていない」「成長できていない」という焦りや無力感とは、全く違う性質のものに囚われている。

悩みと言い訳と自責の無限ループ

ここに来る前に受けた研修で、「コミュニティ開発隊員の難しさは、活動を共にする人が直接的な受益者にならない場合がある」と先生が言っていたのを思い出した。なるほどな、これは私にも当てはまる。その時はそう思っていただけだった。私の配属先は県の産業商業局、中小企業販売促進課。県内で生産されている食品・手工芸品をODOP認証に登録するため、産業商業省との橋渡しをする部署だ。一方、ODOP認証商品が売れるように商品開発やマーケティングのお手伝いをして、その利益を得るのは生産者。つまり、新規案件で突然やってきた、何をする人なのかもさっぱり分からない日本人は、この課に居ても利益にならない仕事を増やすだけなのである。公務員という仕事自体が自分にとって未知の世界で、仕事に対する感覚が全く分からない。

もうひとつ。ラオスではボランティアのことを「アササマック」と呼ぶ。ところがアササマックには、ラオス人の、無給公務員見習いといった意味合いでもともと使われていた言葉だそうで、これが時に誤解を生む。確かに私たちは給与を貰っていない、それでいて私は国際協力一年生だ。アササマックという単語は、私に言い訳の余地を与えることも、現地の人たちに誤解を与えることもある。実際ここに居ると、自分がアササマックであることを痛感するし、「アササマック」と「思われている存在」であることも、言葉の端々から痛感する。私は今、突然やってきたカタコトの日本人の「アササマック」の「小娘」だ。男尊女卑、年功序列、その中に「外国人」と「アササマック」が加わっただけだ。

さっき少しだけ触れた「新規案件」だというのも、活動の難しさのひとつだ。私と行動を共にする「カウンターパート」の女性は、優しく、仕事が出来て、私のことを理解しようともしてくれる。しかし彼女は本当に忙しく、ほとんど事務所に来ない。他の職員に相談しても結果的にレポートラインの行きつく先は課長だが、彼の言うことはすぐ二転三転し、全く活動の計画が立てられない。私は生産者のところに視察に行って、製品に触れ、生産者と話し、どうやって良くしていくかについて話をするところからやっと活動が始まるのに、未だにそれがほとんど出来ていない。

赴任当初は「近隣の生産者のところには時間があるときに順次連れて行く。一人で行っても何もできないから誰かと一緒に行きなさい」という話だったが、いつのまにか「ガソリン代が無い、JICAが負担すべき」に変わった。カウンターパートが居ないと話がすすめられないというと、「視察は誰でも良い、暇な人がついていく」に変わった。そして最終的に、「いつになったら視察に行くんだ、一度生産者に来てもらって道を覚えたら、来週にはバイクが届くんだから自分で行けるだろう。一人でいきなさい。」に変わった。この話以外にも、いつのまにか話が変わっていて、自分がそれまですすめていた書類作業がすべて無駄になったり、計画が頓挫したり、という事がここ最近ずっと続いていた。活動のためにお金を使う事は決して簡単ではない。計画、申請、承認、精算。そ時間がかかる事を伝えると、「アササマックだからお金が貰えないなら私からJICAに電話してあげるよ」という。そういうことではないが、うまく伝わらない。

今まで生産者のところに行っていなかったのは何故だ、バイクが届いたら一人で行きなさい、の一言が課長から出たあと、私は「またか・・・。」と項垂れて、一番話を聴いてくれる同僚に「私が間違って理解してたかな?」と聞いてみた。そして「ラオ子は悪くないよ、私は分かってるよ、難しいね、大丈夫だよ、私はラオ子の事が大好きよ」と背中を擦ってくれて、涙が止まらなかった。

ことばの壁は間違いなくある。私が100%正しいと言える自信はどこにもない。しかし、それ以上に、直接的な受益者にならない、「当事者意識」の無い人に翻弄されるだけの時間は、もうこれ以上耐えられないと思った。そして、何も悪くないカウンターパートには申し訳ないと思いながらも、一番私に寄り添って話を聴いてくれる女性にカウンターパートを変えてほしいと申し出た。直接課長と話していたら、もう何もすすまない。

というのは、全部言い訳だ。

直接的な受益者にならないから当事者意識が持てていない人が上司だから、自分の視察や計画づくりがすすまない。新規案件だから、みんながこの活動の概要やJICAの事業、活動に於けるカウンターパートの必要性などを理解していない。アササマックという言葉が誤解を生み、対等な「パートナー」として見てもらえていない。

なんとでも言える。言えてしまう。でもそうじゃない。活動の軸にならなければならない自分自身に、軸になれる要素が何一つ無い。そんなことは分かっている。私には何もない。どれだけ説明しても伝わらないのは、私のラオ語が乏しいからだ。勉強が、努力が足りないからだ。パートナーシップやオーナーシップがこの職場で構築できないのは、活動のことをうまく伝えられないからだ。アササマック問題についても赴任前から知っていた。自分ではここに来た目的について十分話して理解してもらった気で居たが、それは私が一方的にそう感じていただけだったのだ。

自分のことだけならいい。カウンターパートを変えたいという私の意見に賛同してくれた職員が、この職場に居づらくなってしまったらどうしよう。私は長くても2年で帰る人間であり、最悪の場合「任地変更」や「任期短縮」という手段を取ってこの場所を離れることもできる。でも彼女はこの場所で生まれ育って、これからもこの場所で家族と共に生きていく。上司だってそう、現カウンターパートも、もちろんそうだ。その人たちは本来の仕事を自分たちでこなしているわけで、私にはそれを邪魔する権利はもちろん無い。彼らに何の得もない仕事を強要することも、できない。

つまるところ、

悲しいことに、自分の気持ちの矢印は今関わっている人たちには直接向いていないのだ。オーナーシップなど無くて当たり前。勝手に期待して、勝手に憤って、なんて面倒な外国人だろう。突然やってきた外国人に、あなたたちには直接利益にならないけど、一緒に仕事して!視察にもついてきて!なんて言われたら、私だって、ハァ??である。

局員の親戚にODOP生産者が居ないかとか、色々探ってみてはいるものの、そう簡単に当事者になってくれそうな人は見つからない。私がCPを変えてくれと騒ぎを起こしてしまったがために、明日は首都からJICAのスタッフの方が来てくれることになってしまった。アササマックではない人の話なら、聞いてくれるだろうか。全部私の力不足というところに収束して終わるだろうか。それもまた不安だけど、このまま何も動かせない状態でガマンするぐらいなら、プラスにでもマイナスにでもいいから動いてくれたほうがいい。活動始まってすぐこんなことになってしまって申し訳ない気持ちと、活動したいのにうまく組み立てていけなくて消化不良でもやもやしている気持ちが、少しずつ明るいほうに向かって行けるように、ひとつずつ関係を作っていきたい。

というところまでが、数日前に書いた内容。

今は、調整員さんに間に入ってもらってレポートラインが変わり、今まで一番相談に乗ってもらっていた&私に活動の提案をもちかけてくれていた人と、カウンターパートであるという共通の認識を課内全員持った状態で活動できるようになってきた。そして今までのカウンターパートも、忙しくないときは私も貴女と仕事をしたいのよ、これから頑張りましょうね、と言ってくれた。

予算の使い方の事も、上司の上司と直接話して、明るい方向に持っていってくださったおかげで、「配属先負担が原則」というもとでやっと話ができるようになった。(それでも殆どこちらが負担するけど、今までとは考え方ががらりと変わったように感じている。)

自分でここまでの話を詰められるのが理想というのはもちろん分かっているが、穏やかに話せるうちにこうやって一度整理してもらえて本当に良かったと思っている。

結局、悩んでる間は、もう全部何もかも自分が悪くて、この状況を分かるのも自分だけで、誰にも助けてもらえないような、ずっと崖に立ってるような気持ちになって、耐えられないぐらいしんどかった。

悪意があるのかないのかもさっぱり分からないような状態で、そのうえラオ語もまともに理解できないと、発せられる言葉に「ラオ子」の文字が入っているだけで、何かを言われてるような気がしてしまう。気のせい、考えすぎ、と思われるのは構わない。ここまでマイナス思考になってたら、どこまで沈んでも一緒だ。ただただしんどいだけの、数週間だった。

そうはいっても

新しいやり方に対して否定的で、「保守的」だと思うことは今までにもあった。でもそれも、今思えば当たり前だ。今のやり方で回っているなら、それを変える必要などどこにもない。私はそれを、自分の活動のために、変えようとしている。

美しい手仕事を広める手伝いがしたい。大自然と共に生きる伝統や文化を絶やすことのないよう、魅力を発信したい、近隣国からの輸入品に負けない「Made In LAOS」で、今のくらしにおかずを1品添える金銭的・精神的余裕を持ってもらいたい。

私が志望理由書に書いたことに、何一つ嘘は無い。ラオスに来たことは無かったし、ラオス以外になっても同じことを目標にしていたと思うけど、それでも私は今いるこの場所で、明るくて優しくて世話焼きなおばちゃんたちのモノづくりに関わりたい。

伝統を守るなんて大きな目標は立てられないけど、手づくりの温かさがずっとずっと繋がっていくように、発信するお手伝いがしたい。その相手が日本人だけでもいい。外に出すための付加価値作りをしたい。現地人の感覚にはなりきれないし、対ラオス人のマーケティングは私にはさっぱり分からない。「外国人」がそこに関わるからには、とことん「外国人」目線で活動しよう。

そしてベタだけど

世界の終わりだ死のう!みたいに落ち込んでいた私の話を聴いてくれた同期、友達。深くは聞かずとも「まぁラオ子なら大丈夫」と、相手が、自分が、国民性が、アササマックが、と、私が自分で作りだしていた目の前のもやもやを全部消し去る強烈な一言に、本当に本当に救われた。皆ありがとう。本当にありがとう。

今見たら内容の無い悩みもいっぱいで、人格形成から問題あったんじゃなかろうかと震え上がるけど、その度にこうやって支えてくれる仲間が居ると思うとまだまだ頑張れる気がする。

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