読むことと書くこと
私はもともと、国語の授業というものが大嫌いだった。テストの「作者の気持ちを書きなさい」系の問いに、常に「この不毛な問いに何の意味があるのだろう」と思っていた可愛げのない中学生。そんな反骨精神から、高校生になるまで読書の楽しさを見出すことができなかったため、まともに読書をしたことがない。最近Twitterで流れてきてた記事を読んで、「こんな意味わからない文豪の考えていることなんてわかるわけなかった」と自分の当時の考えを正当化した。
ところがどっこい、高校の現代文・古典を担当していたA先生は、プロフェッショナルというか、オタクというか、とにかく「+α」の話がめちゃめちゃ面白い先生だった。はじめて、国語は面白いと思った。その脱線話の板書ばかりを夢中でノートにとった結果、そんなに成績は良くなかったが、それでも私はA先生の授業が大好きだった。チャイムが鳴る瞬間に授業が始まらないと計画通りにいかないらしく、先生が来るまでにノートと教科書を開いて、黒板を綺麗にして、全員が着席していないと怒る先生だった。うとうとしたのが見つかろうものなら、地獄だ。
いかつい見た目と話し方からは想像できないちょっとかわいげのある丸文字で、黒板を掘るかのように迷いなく字を書くA先生。キリッとした目で振り返って私たちを見渡して、「えか(いいか)、お前ら。」と話し出す内容がだいたいその単元のキーポイントで、そこだけ抑えておいたら最低限の点数が取れていたような気がする。テストも「作者の気持ちを」というやんわりした問いではなく、個人の感性任せで答えを問うようなものでもなく、「ひとつの文学作品としてこの文章を読み解くとき、時代背景や、作者の生い立ち、この主人公の些細な言動のひとかけらから、どのように解釈できるか」を問うものが多かった。(容赦なかった。)
そんな先生のおかげで、本を読むことに抵抗がなくなった。むしろ、本を飛び出して縦にも横にも知識が繋がることは面白いと思った。大学生になってからは、薄めの単行本を1冊買って、たばこの臭いがせず自分の口に合うビバレッジとフードが常に手に入る快適空間「スターバックス(のちの私のバイト先である)」で読書する時間も増えた。ちなみにその頃はコーヒーが飲めなかったので、グランデサイズの抹茶ティーラテ(シロップ抜き・パウダー多め)かチャイティーラテ(豆乳変更・シロップ少な目)ばかり頼んでいた。・・・カフェイン中毒になった今では考えられない。読書がしたくてスタバに行ったのか、スタバに行きたくて読書をしたのかは、疑惑の判定。
大学を卒業してカンボジアの会社に就職してから、大好きになった国のことを誰かに伝えたいという思いから「カンボジアのボジ子」というブログを立ち上げて、レストランや観光地の事など、色々書いた。そして今はそのまんま名前を変え「ラオスのラオ子」を気ままに更新している。
あとから読み返したら駄文ばかりでびっくりするけど、両方合わせて400本弱の記事を書いていると、「人に伝えたくて書く記事」ほど思い入れがあって、何度も何度も書いては消してを繰り返して、時間をかけて書いたなあと思う。自分自身が「ブログを書く」という行為で実体験や考えをアウトプットすることによって「読み手」の事を考えることが増えたからだ。海外生活という日本人にとって非日常の世界について、「伝わる」ように書くのは私には難しかった。全てを書くのは冗長だが、端折るほどに伝わらない気がしている。
そうやって自分なりに、駄文なりに、どこまで書くか、どうやったら伝わるか、とか考えていると、文章を書くのは本当に本当に難しいことに気が付いた。それからなんとなく、本の読み方が変わったような気がしている。どちらかと言えば、今まではただ「目を通す」という作業だけで終わっていた読書から、素敵だと思った表現や心に響いたこと、もっと知識を深めたいと思ったことをメモしたりしながら読むようになったり、表紙から裏表紙までのすべてを読むようになったり。時間がかかるけど、読んだ後に自分の中に蓄積された感じがしてとても心地いい。
ボジ子の記事は「質より量!とにかく更新!」で文章もめちゃくちゃだけど、ラオ子はもう少しコンテンツも文章も質を高めていきたい。そしたらまたきっと新しい気付きを得る。はず。
note、登録はしてみたもののどうやって使おうかと思っていたけど、ブログに書いて発信するほどでもない独り言をこうやって書くのに使っていこう。内側のことは、こっち。外側のことは、あっち。という感じ。ブログに書くこと増やせるといいな。活動がんばろ。
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