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あんたは本当に自分の人生を生きているのか?

結構文章書いた段階でChromeがクラッシュした。noteは自動保存されているはずなのにブラウザ立ち上げなおしたら全部消えてた。そんな悲しい出来事を乗り越えての投稿です。このご時世、一旦txtにベタ打ちとかある??そしてそれをTwitterに書いたらChromeのbotからトラブルシューティングについてのリプが飛んできました。そんなんいいからBackSpace+Enterで変換確定した文字が全部消えるバグを早く直してくださいYO~~~。

『地雷を踏んだらサヨウナラ』を見た

さて、今日はアマプラでレンタルした古い映画について。私は2時間もじっとしていられない人間なので、映画というものをあまり見(れ)ません。CMカットしたアニメぐらいがちょうどいいです。・・・なのですが、こうしてたまに見ると面白いですね。

『地雷を踏んだらサヨウナラ』、英語表記では『ONE STEP ON A MINE, IT'S ALL OVER』は、カンボジアを舞台に1999年に作られた映画です。浅野忠信演じる一ノ瀬泰造さんが、カンボジアで生き、そして26歳という若さで死んでいった、短い生涯を描いた作品です。実在の人物を題材にしたノンフィクションで、一ノ瀬さんの遺骨の一部は今もアンコールワットのそばの菩提樹の下に眠っています。


あらすじと結末

あっけなくネタバレします。ご注意。

この映画の舞台となったのは、1972年4月のカンボジア。19世紀に入ってインドシナ半島がフランスの植民地になり、カンボジアはタイとベトナムに侵攻され続けます。市民の不満が募る中、国王はカンボジアを守るためフランスの保護国化を望み、その後第二次世界大戦で日本の明号作戦に呼応。日本が敗戦してまた独立に失敗したカンボジアは、その後も周辺国・先進国の世論に訴え続け、ついに1953年に独立を果たします。

しかしここから、ベトナム戦争に巻き込まれるかたちで・・・って、ベトナム戦争やラオスの内戦のことを絡めて書き始めたらとんでもない文字数になって、時系列もばらばらで本人が収集つかなくなってしまいました。コピペして別の記事にストックすることにして、これについては、いつか書きます。書けるかなあ・・・(笑)

さて、カンボジアの事をざっくり説明します。親米だった当時のロン・ノル政権に対抗したポル・ポト政権は、民衆の圧倒的な支持を得て新政府を樹立。ただ、このポル・ポト政権は、近隣国からのドミノ現象でもれなく共産主義化しており、中でも農村中心の「共産革命」なる過激な毛沢東思想に傾倒していたため、次々ととんでもない共産化政策が打たれました。身分、財産、土地のはく奪、中国以外の国交断絶、宗教や貨幣の廃止など、それまでの生活や文化を破壊する恐ろしい政治がたちまちエスカレートし、国家は破綻したも同然。無計画な灌漑整備やベトナム戦争の空爆被害、内戦による地雷の埋設などで農作物も育てられなくなり、飢餓や病死、虐殺を合わせて3年半で100万人以上の方が亡くなったと言われています。

その時、クメール・ルージュによって制圧されていたのが、シェムリアップにあるアンコール・ワットでした。

この映画では、一ノ瀬さんが拠点にしていたシェムリアップの村に住む幼い兄弟「ソッタ」と「チャンナ」が、「いつかあのアンコールワットの写真を撮って見せて欲しい」とお願いするところから始まります。このころのシェムリアップ近郊は、ロン・ノルがアンコールワットの奪還を計ろうとして情勢が悪化していました。そして、いつものように遊んでいた子どもたちのところに飛んできた一発の砲弾により、ソッタは一ノ瀬さんの目の前で亡くなり、そして弟のチャンナも聴力を失ってしまいます。

アンコールワットへの気持ちが更に大きくなった一ノ瀬さんは軍の司令本部に赴き「攻略戦に従軍したい」と申し出ますがうまくいかず、クメール・ルージュ側に接触するも「帰れ」と一蹴されます。そして一ノ瀬さんを危険視した政府により、フィルムを全て奪われたうえ国外追放されてしまいます。

その後彼は、ベトナム戦争で戦場カメラマンとして評価される決定的な写真を撮り、日本人の記者松山に目を付けられもう一度アンコールワットを目指します。ただし一度追放されている彼は、正規の方法ではカンボジアに入国できません。生きて戻れるのは3割のみという危険な手段、弾薬輸送船を使って、ベトナムからカンボジアへと不法入国します。

そして、かつてシェムリアップの村で世話になっていたよき理解者「ロックルー(先生)」の結婚式に参列した彼は、あの幼い兄弟の弟チャンナをも目の前で亡くしてしまいます。無邪気に一ノ瀬さんを呼ぶチャンナが居るのは地雷原のど真ん中。しかし聴力を失った彼には「来るな」の声は届かなかったのです。

一ノ瀬さんはロックルーに「地雷を踏んだらサヨウナラだ」と言葉を残し、ふたたびアンコールワットを目指します。彼はゲリラ兵に捕まりましたが隙を見て逃げジャングルの中を無我夢中で駆け抜けます。視界が開けた先に待っていたのは、あの兄弟がいつか見たいと言っていたアンコールワット・・・。

というところで話は終わります。

彼は「行方不明」とされ、内戦後にご遺族によって死亡が確認されました。

作中では、英語とクメール語を流暢に話す一ノ瀬さんの姿が描かれていますが、カメラマンの友や幼い兄弟が、自分の腕の中で亡くなっていくとき、彼は「死ぬなってティム!!おい!!」「あぁ~・・・なんだよ・・・なんでだよ・・・」と思わず日本語が飛び出します。

ティムは自分と同じ戦場カメラマン。戦争がある所に向かい、シャッターを切るのが仕事。戦争がなければこんなところで死ぬ人間ではなかったはずなのに。

「チャンナー!チョップ!チョップ!(止まれ!)」と言っても止まらなかったチャンナ。一ノ瀬さんやお母さんの前で背中を吹き飛ばされてあっけなく亡くなった彼から聴力を奪ったのは、戦争。あの時砲弾が飛んでこなければ。戦争さえ無ければ、兄弟が亡くなることはなかったのに。

それでも砲弾の音がすればカメラを持って駆けていく彼には、人々の平穏な日々を無差別に奪っていく戦争の不条理さを伝えたい気持ちと、それとは別に、言葉にできない「アンコールワットへの強いあこがれ」が感じられます。戦争に弄ばれた兄弟の命に対しての責任や使命感ともまた違う、純粋な好奇心のようなものが感じられるのです。

日本に一時帰国したときには、弾ける笑顔で明るく振舞う一ノ瀬さん。その数日前まで、砲弾が飛び交う内戦真っただ中の途上国で、ロウソクの火のように簡単に消えていく命を写真に収めていたことを、全く想像させない明るさにも、家族に心配をかけまいとする気持ちや戦場カメラマンとしての使命感とは違う、前向きな気持ちが見えたような気がしました。

言葉にならない魅力

ところでみなさん、アンコールワットってどんな場所かご存知ですか。

アンコールワットはスーリヤヴァルマン二世により30年以上の歳月をかけて建設されたヒンドゥー教寺院で、12世紀ごろの建物だと言われています。その環濠は東西に1.4km、南北に1.3km。540メートルの参道を抜けてた先にあるアンコールワットの中央に聳えるのは65mの中央祠堂、そのまわりを囲うように第2回廊、第1回廊があります。第1回廊はぐるっと一周780m、そこにはぎっしりとレリーフが刻まれています。16世紀には仏教寺院へと改修されましたが、レリーフや銅像、参道など、いたるところにヒンドゥー教の宇宙観や精神世界がそのまま残されています。

この上の写真のレリーフは、私が大好きなお話(というか唯一意味がなんとなく分かったお話)、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」といった神様のお話に出てくる天地創造神話のひとつ「乳海攪拌神話」を描いたもの。

むかしむかし、まだこの世の中に太陽も地球もなかったころのお話。「アムリタ」と呼ばれる不老不死の薬を巡って神々とアスラ(悪鬼)が闘いを繰り広げていましたが決着がつきませんでした。そこで、ブラフマー、シヴァと共にトリムルティ(三位一体)の1柱を成す神格ヴィシュヌ神(最高神)に助けを求めました。

ヴィシュヌ伸は言いました。「争いをやめて大海をかきまわしなさい。そうすればアムリタが現れるだろう」と。

神々とアスラたちは曼荼羅山を軸にして、大蛇に巻き付けました。その大蛇の頭をアスラが、尻尾を神々が掴んでぐるぐると大海を掻きまわすこと千年。大海は乳海と化しました。そこから良質のバター(ギー)が湧き出ると、ヴィシュヌの妃ラクシュミや天女アプサラー、宝石に薬草、神酒、生き物、月や太陽などが次々に誕生しました。そしてついに、不老不死のアムリタもこの乳海から誕生したのです。

それまで協力していた神々とアスラはアムリタをめぐってまた喧嘩をはじめます。美しい妃ラクシュミに化けたヴィシュヌ神がアスラを騙してアムリタを奪い取ると、神々はアムリタを分け合って飲み始めます。その中に、神に化けていた「ラーフ」というアシュラが居ました。太陽と月がそれに気づいてヴィシュヌ神に知らせ、ヴィシュヌ神はラーフがアムリタを飲み込もうとした瞬間に首をちょん切ってしまいました。

アムリタのおかげで首から上だけ不老不死となったラーフの頭は、空のかなたへと飛んで行きました。怒り狂って太陽と月に丸のみにしますが、首から下がないのですぐに出てきてしまいます。これが、「日蝕」と「月蝕」です。(ちなみに、これが起源かどうかはわかりませんが、カンボジアでは月蝕はあまり縁起の良いものではないそうで、妊婦は子どもに悪影響を及ぼさないように月の光を浴びないようにするとか、家の神様にお参りするとか、そういう迷信が今も信じられていると同僚に聞いたことがあります)最終的にラーフは吉兆を予言する星となり、アムリタを飲んだおかげで神々はこの世界に存在し続けている、というお話。

この上の写真と、もう1枚上に貼った写真は、どちらも乳海攪拌神話のレリーフのもの。写真の上のほうにずらっと並んでいるのは神々やアスラの足、その上で舞っているのは天女アプサラ―と、その下の乳海に掘られた生き物たちは、この乳海攪拌によって生まれました。

アンコールワットには他にも様々な神話や、数千にものぼる天女アプサラのレリーフが残されています。アプサラは一人一人装飾品や表情もまで異なります。乳海攪拌神話のほかに三位一体のブラフマー神やシヴァ神のレリーフも彫られていますが、今はここは仏教寺院。たくさんの神様が共存しているように感じられるこのアンコールワットには、確かに何度訪れても飽きない魅力があります。

春分、秋分の日の前後数日だけ、第3回廊の真上に朝日がのぼる、アンコールワット。どうやってあんなに重たい砂岩を運んで積み上げたのか、どこから持ってきたのか、どうやって正確な方角を測って建てたのか、私には想像もつかないことばかり。ですが、何度も通ううちに、この場所が唯一無二のもので、仏教国カンボジアの人たちにとっての心のよりどころになっていて、そして「遺跡」ではなく「生きた寺院」なのだということを理解しました。

あんたは本当に自分の人生を生きているのか?

これは、『地雷を踏んだらサヨウナラ』のDVDの表紙に書かれている言葉です。

感動モノやお涙頂戴とも全然違う、淡々と進んでいくドキュメンタリーのような作品の中で描かれるのは、混沌とした現実の中一ノ瀬さん自身が目の当たりにする様々な対比でした。

内戦が激化するカンボジアと平和な日本、家庭を築こうとする姉と太く短く生きようとする自分、人の心を持つ市民と洗脳されたゲリラ兵、先に逝く人とまだ生きている自分。それらの対比のなかを、「アンコールワットを写真に収めたい」という強い信念と少年のような好奇心を持って、したたかに、しなやかに生き、そして最後は、目的を果たすために死んでいく。ラストのシーンは、そんな一ノ瀬さんの姿に胸が熱くなります。

一ノ瀬さんにとって「生きる」は、ただ毎日を過ごすこととはかけ離れた意味を持っていました。そしてその「生」は、たまたまあの時代に生まれ、内戦を肌で感じたからこそ、アンコールワットのために燃えたものなんだなと。

自らの命を神様に差し出してまで見るアンコールワットはどんなに綺麗だっただろう、美しかっただろう。そう考えながら、一ノ瀬さんが自転車でのんびりとアンコールワットへ向かうエンディングを見終わりました。

そしてアンコールワットに行きたくなった

私は、2012年秋に初めてアンコールワットを訪れてから、その後2年間住んで来客があるたびアンコールワットを案内し、その後友人と何度か旅行したときも必ずアンコールワットに行きました。それでもやはり、毎回新しい。毎回美しい。そしてそのスケールの大きさに感動が止まらない。インドから持ってきた神話をレリーフに掘ったのではなく、乳海攪拌があの場所で起きて、本当にアンコールワットからすべてが始まったのではないかと思ってしまうような、過去や未来や宇宙のすべてと繋がっているような、そんな空気に包まれた場所。

残忍な虐殺を行いカンボジアに暗い影を落としたポル・ポト政権が崩壊して、今年で40年。一ノ瀬さんがアンコールワットのすぐそばで殉職された、たった6年後のこと。そして、一ノ瀬さんがご存命であれば今年で72歳。もしもあの時生きて帰れていたら、平和が訪れたあとのアンコールワットでゆったりと流れる時間を楽しまれていただろうか。それとも次の何かを見つけて、危険に晒されながらシャッターを切り続けただろうか。今の自分は、そんな風に自分を生きられているだろうか。

今度アンコールワットを訪れるときは、愛した国の土となり、その命を全うされた一ノ瀬さんが眠る菩提樹に、手を合わせにいきたい。

余談

数年前に撮った「宇宙の中心」、アンコールトムの中にあるバイヨン寺院。私がアンコール遺跡群の中で一番好きな遺跡です。

これは旧正月でライトアップされた様子。三脚を持っていなかったのでアンコールワットが全部ブレてしまい、リベンジしたい気持ちに駆られています。アンコールワットはどの時期に行ってもその時の美しさがありますが、ライトアップが見られるのは旧正月の時期だけ。是非、一番暑い4月中旬に行ってみてください。

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