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丁寧な生活と今を生きること


「丁寧な生活」

別に珍しい言葉ではない。

この言葉をある人から聴いた時、心の奥にすとんとそれを置かれた感じがした。

そして今の私に必要なものは丁寧な生活であると確信した。
理由は2つある。


一つ目。
私はここ最近、今を生きたいと強く思っていた。
というのも、大学生になってから時間の流れの速さをいたく感じている。

気づけば一日が終わっており、気づけば一年が経っていた。決して一日中ベッドの上でスマホをいじっていたとか、寝ていたわけではない。大学の勉強もちゃんとして、友達ともよく遊びに行き、買い物もするし、好きなサッカーの試合だって見る。

なぜ、時間が経つことを速く感じるのか。この疑問に対する明確な一つの答えはない気がする。
時間の認識は絶対的ではなく相対的である。

例えば朝の身支度の時間やレポート締め切りの前日はあっという間に過ぎていく。また、目標や期限がある場合は時間の流れを速く感じるだろう。反対につまらない授業や校長先生のお話は長く感じる。(面白い話をしてくれる校長先生に出会えた人が羨ましい)

さらにどの時間軸から時間をとらえようとするかによっても時間の流れは変わる。現在から過去を振り返るとやはり速く感じる。現在から現在の時間の流れを見ると速くも遅くもない。未来はまだまだ先のことだと感じる。

こんな具合に時間のことを考えると少し頭が痛くなるのだが、私が時間の流れを速く感じる理由の一つとして

記憶に残るようなことがないからではと推測する。

その日を振り返った時、自分が見たこと、聞いたこと、体験したこと、感じたこと、考えたことを鮮明に思い出せるならば、あっという間に一日が終わったとは感じないのではないか。

私にとって丁寧な生活とは、なんとなく生きることの対極にあり、日常生活のささいなことに敏感となることであり、視界に移るもの、聞こえてくる音、匂うもの、触れたもの、感じたことというものに敏感になることであり、そのものにこだわり、思いを馳せながら生きることであるように思う。(一眼レフカメラのレンズ越しに世界を見るイメージ)

このことから、丁寧な生活をすることは私が思う今を生きることと重なり合う部分があると考えた。


二つ目。

私は虚無主義的に物事を考えてしまう傾向がある。

特に大学生になり、受験勉強ではなく学問というものに触れ始めてから、約2年間そのような姿勢で物事を見てきた節がある。

それが良いことか悪いことかは分からないが、虚無主義的に物事を捉えることには苦しみが伴う。

この世界や、自分が存在すること、人生というものに対し、ある種の価値や希望といったものを見出すことが難しいのである。

なぜそのように感じてしまうのかについて、自分の中でなんとなく分かっているが、それはまた別の機会に書こうと思う。

丁寧な生活という言葉はそんな虚無状態をさまよっていた私のもとへ一筋の光が差し込んだ。

虚無主義的考えをする際、そこには物事を大きなスケールで捉えがちなことがある。主語が世界や人類、歴史となり、目的語が平和や愛、倫理となる。

一方、丁寧に生活をすることは、主体が等身大の自分である。身の回りの些細なことに気を配り、その中に小さな幸せというものを見つけていく。そして次第にその中にある種の価値を見出していく。

この点において丁寧な生活は虚無主義から一歩異なる世界へ踏み出す糸口となると私は思った。

それは一種の現実逃避であると言われればそうかもしれない。が前に進むためにはたとえ後ろであっても方向転換をすることは必要だろう。


言葉自体に感銘を受けることは多くはない。

今回は私がなぜ、丁寧な生活という言葉を聴いたときになにか特別な感情を抱いたのかを顧みてみた。








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