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2021年11月5日(金)

 「石橋を叩いて渡る」ということわざがある。何事も入念に下調べまた準備をしてから行動に移すことのたとえ。

 このことわざのパロディとして「石橋を叩いて(結局)渡らない」というものもある。あらゆることを入念に下調べし十分な準備をしておきながら、行動にうつさないことのたとえ。

 このパロディことわざは、ネガティブな意味で、皮肉的に用いられる場合が多い気がする。

「あれだけの下調べや準備をしておいて、結局何もしないのか。ビビリというかなんというか、石橋を叩いて渡らない人間なんだな。」

 行動力をもたない人間を暗に皮肉ることばとして、この亜種は用いられる。

 しかし、戦略的に橋を渡らないという場合もあり得るだろう。「石橋を叩いて渡らない」を肯定的に評価すべきケースもあって然るべきだ。

 そもそも、考慮に入れるべきは石橋の強度だけではない。橋を渡った先に何が待ち構えているか。自分の後を追ってくるものがあるか。橋から落ちた場合のリスクは・・・そのようなさまざまな要因を考慮して初めて、渡るべきか否かの選択を下すことができる。

「入念に叩いてみて分かったが、強度的には渡れない橋じゃない。しかし、渡った先が詰まっている。急いで渡ろうとしている連中も後ろにいる。いま橋を渡れば立ち往生しないとも限らない。押しのけられて落ちでもしたら大変だ。総合的に考えて、今回は橋を渡るのをやめようと思う。渡るのにもっともふさわしいタイミングがきっと来るはずだ。それまで機を伺おう。」

 というような「石橋を叩いて渡らない」もあるのではないか。あっていいのではないか。

 ものごとを俯瞰して眺める大局的な視野、ふさわしいタイミングを見極められる選球眼、踏み出すべきときに踏み出すことのできる果敢さ。

 ・・・があればなあと思います😕






 ちなみに僕は石橋を叩いて叩いて渡らないことが多い人間です。とはいえすぐに橋から立ち去るでもなく、渡るのにもっともふさわしい機が来るのを待ち、追加で準備を重ね、タイミングを見計らい、いや、でもやっぱ渡らんとこか、となるタイプ。

 それでもたまに、結局渡ってしまうときがある。それはきっとそこに神の道が敷かれていて、その道が歩きやすいように整備されていて、しかも背中を押してもらっている、一緒に歩いてもらっているということなんだろう。そう考えるようになりました。いとかたじけなし。

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