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2021年9月28日(火)

 イエスに倣う生き方は、対抗文化的(counter cultural)なものと評されることがある。イエスに従う道ーー支配的な文化に対抗する生き方とは、生半可なものではない。しかし、生活の一部分だけでなく、人生のあらゆる局面においてそのような生き方ができたとすれば、それほど気高いものはあるまいと思う。イエスは、他者(それも社会から価値なしとみなされ蔑まれていた他者)のために、神としてのあり方を捨てられた。自己の存在を保証してくれるもの、それがなければ自分は何者でもなくなってしまうとさえ言えるほど価値あるものを、イエスは手放された(とまで言ってしまうと言い過ぎかもしれない・・・が、とはいえ)これに匹敵するほどの気高い生き方は他にあるまい。

「即ち彼は神の貌にて居給ひしが、神と等しくある事を固く保たんとは思はず、反つて己を空しうし、僕の貌をとりて人の如くなれり。既に人の状にて現れ、己を卑うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり。この故に神は彼を高く上げて、之に諸般の名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの、地に在るもの、地の下にあるもの、悉とくイエスの名によりて膝を屈め、且もろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして、榮光を父なる神に歸せん爲なり。」(新約ピリピ書2章6〜11節)

 このイエスの生き方の前には、プライドや見栄、経歴や肩書き、はたまた「自分らしさ」というものでさえ、芥ほどの価値もない。

 このイエスに心惹かれるからこそ、その生きざまが記された聖書についてもっと知りたいと思う。イエスが現実に生きておられた世界ーーその社会や文化について知りたいと思う。そしてその知識が、私たちの現実においてイエスに倣って生きるための助けとなることを願いつつ、学びたいと思う。

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