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「あったかもしれない」はないと思うこの頃

元々はもっと「物書き」としての自分を確立したくて始めたこのnote、今では「とりあえず必ず毎日一つは投稿する」が目標となってしまった。

今日は、昨年の"お稽古始めの日”、6月6日から日本に「一差し舞える」人が増えたらいいなぁ〜と思って始めた「一差し舞おう」プロジェクトの一環で、たまたま先生があと二人の先生と合同で企画されていた発表会に混ぜていただいて、京都観世会館で自分の一差しにしようと目論んでいる『羽衣』のキリを舞う予定の日で、自分のスペース・ラ・ネージュでの他に、3月に入って2度観世会館の舞台でお稽古させてもらっていたのだが、このコロナ禍で、まず打ち上げの宴会が中止となり、だんだんもし自分が出るにしても、見に来ると言ってくださっていた人達には、お控えくださいとお伝えし、ちょうど2度目の稽古の日の夜に急遽ドイツから帰って来た自宅待機すべき娘がいるみとしては、出演も辞退すべきなのでは?と、思うようになり、先生にご連絡しなければ、と、思ったタイミングで、延期の知らせをいただいたのだった。

その知らせを受けたのが水曜日の午前中。それを受けてすぐ、元々自粛をお願いしつつ送るつもりをしていた舞台当日お渡しするつもりにしていたお菓子を、中止のお知らせと共に、郵送、その後娘が仕事で使う車を見に行き、すぐには決まらなかったので、翌日見に行くことにし、舞台の為、日にちをその日に動かしてもらった父の月命日のお参りを元の日=今日に戻してもらった。
木曜日、車を何箇所か見に行き、何とか契約に漕ぎ着け、帰るや否や、保険の見積もりを依頼。入居する物件について相談を受ける。
昨日は、昨日投稿したように、5月のラ・ネージュで予定しているあれこれについての確認、相談。これから今までのようにこの場所に来られての決済でなくなるので、ネットやQRコードで決済可能にする為の手続きをあれこれ。

そして今日、完全に娘の引っ越しの諸々に支配されつつ月命日のお参りの為の用意などしていた時、ふと、「ああ、今日は、舞台に立っていたはずの日だったんだ!」と気づく。

と、同時に、勿論舞台があったとしても、おそらく延期が決まってから今までの動きもしていたとは思うのだけど、心ここに在らずの状態で舞台を迎えるのは不本意で…とか考えると、私にとっては、確か舞台に立つこと自体は半年ほど前から決まっていたことで、その頃は、コロナ禍のことなど全く予期していないし、延期が決まったのはたった3日前のことなのだけど、それから3日後の今日は、今日舞台があるはずだったということすらすっかり忘れてしまうような、延期されたことがむしろ好都合だったような今日を送っていたのだ。


例えば、私の場合、父方が酒造りの家だった。
そこに婿養子に来た曽祖父が会社組織にして、今も在る酒造メーカーの”創業者”と言われるようになる。
だが、父が将来を嘱望される新入社員であり、かつ母との婚約中に同じく婿養子として来た祖父が副社長という立場で出張帰りの汽車の中で亡くなり、当時社長をしていた曽祖父と共同経営していた人のお家に経営権が移り、うちは経営とは無関係の、ただの?「創業一族」となった、という経緯があるので、父が思うならともかく、自分ですら、もし、そのままその仕事を継いでいたら…と、思うこともなくはない。(多分、そう刷り込まれる育ちをしていたのだろう。)
だから、ただの酒好きとして、蔵元の人にお会いすると、他人事とは思えないこともある。
けれども、やっぱり、自分にそういう未来はなかった、と、思う。
そして、それでよかったのだ、と。

例えば、大学までエスカレーターで上がれる中高に通い、高1の頃まで外部受験をして東京に出ようと思っていた。
東京に出たかったから、というより、小学校の時に魅了された高校野球の主催をする朝日新聞のスポーツ記者になりたかったことがきっかけで、その後に『天声人語』を書くコラムニストになりたくて、その近道が"早稲田の政経”に行くことだと思っていたのだ。
ある日、父との会話で、「これからはニュースはテレビがまず速報として報道して、新聞は、それを論ずる時代になると思う。テレビに行くのはどうか?」と言われ、何となく、テレビは肌に合わなさそうで、でも、確かにそうだし、新聞社には女子トイレがないという噂も聞くし、と、小5から夢見ていた「新聞記者」という未来が消えた瞬間、それに附帯していた早稲田行きもなくなった。
もし早稲田に行っていたら、とも、新聞記者になっていたら、とすら、思わないなぁ…。

結婚を誓い合ったけど、別れたあの人との未来・・も、
やっぱりなかったなぁ。


つい最近まであり得た、予定されていた未来ですら、起こった現実の前にはあり得なかったと思わざるを得ない、53歳の、春。

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