なぜ議論は混乱するのか それは二つのものが同じか違うかの判断が難しいから

二つの物が似ているのか違うのかは、常に人間による判断を含んでいる、とウィトゲンシュタインは指摘した

ハリー・コリンズ『迷路の中のテクノロジー  科学技術の不確実性について

有名なアネクドートに次のようなものがあります。

アメリカ「我が国には言論の自由がありアメリカ大統領を批判しても逮捕されません」
ソ連「我が国でもアメリカ大統領を批判しても逮捕されませんよ」

ソ連は言論の自由をまったく理解してねぇなハッハッハというジョークですが、ちょっと考えてください。なぜこれが「ジョーク」になるんでしょう。上記のセリフで「アメリカ大統領を批判」という行為はまったく同じです。アメリカでもソ連でもアメリカ大統領を批判することはできる。なのになぜ前者は言論の自由がある証拠になり後者はならないんですか? おかしくないですか?
はい、もちろんおかしくないです。これは自国の国家元首を批判できるか、が論点なのですから。もしフルシチョフによるスターリン批判以前のソ連でもスターリンを批判できたなら「我が国でもスターリンを批判できるから言論の自由がある!」と反論できます。しかしこの場合「スターリンを批判」というまったく別の言葉を使うことになります。それに対して「は? 今話してるのはアメリカ大統領を批判できるかどうかだぜ? なんでスターリンとかまったく関係ない言葉が出てくんだよ。お前ちゃんと人の話聞いてたw?」と言う人がいたらそれこそその人は何も理解してない事になります。


要するに、同じ言葉でも文脈によって意味が変わるし、逆に違う言葉でも同じことを意味することがあるという事です。このことを理解してないとあらゆる場面で正しく議論することができなくなります。

例えば「日本のコミケでナチスのコスプレをしても追い出されないがドイツのコミケでナチスのコスプレをすると追い出されるからドイツには表現の自由が無い」という主張は必ずしも成り立ちません。「アメリカでアメリカ大統領を批判」と「ソ連でアメリカ大統領を批判」ではまったく意味合いが異なるように、「日本でナチスのコスプレをする」ことと「ドイツでナチスのコスプレをする」ことも意味合いが異なるからです。もしこの主張が成り立つなら(ドイツでもバーベンハイマーは批判されてそうですが、もし批判されてないなら)「ドイツではバーベンハイマーは批判されないが、日本では公式を謝罪させるほど猛抗議されるから日本には表現の自由が無い」という主張も成り立ってしまいます。

生成AIに関する議論でもそうです。「将棋AIは問題ない。だから画像生成AIも問題ない」という主張は必ずしも成り立ちません。二つは同じAIという言葉で呼ばれますが、〔学習〕対象が著作物であるか、それをどのように処理するかがまったく異なるからです。「将棋AIも画像生成AIも同じ」という主張はウィトゲンシュタインが言ったように人間による判断を含んだものです。「公平客観中立」であることを意味しません。

三原順『はみだしっ子』

サポートいただけると記事を書く時間や質問に回答できる時間が増えます。