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2023/10/4 「ライクじゃなくてラブの方ね」

小説を一度読んだぐらいではあらすじや印象に残ったセリフぐらいしか覚えておらず、細かいディテールは把握しきれないものなので、改めて読み直すと「こんなシーンあったっけ?」「こんなセリフだったっけ?」となることがしばしばある。

「『愛って何だと思う?』」
こんな書き出しだったっけ?このお話。

武田綾乃「休日、愛らしい友人と」

上映初日の8月上旬に見た「特別編 響け!ユーフォニアム 〜アンサンブルコンテスト〜」の入場特典の短編を、その入場初日ぶりに開き、せいぜい「久美子と麗奈がラーメンを食べに行く回」ぐらいの認識で止まっていた自分は、1行目の文章に面食らったのである。
読み進めていくうちにあぁ、そういう話だったなと思い出してきたものの、やはり書き出しの1行の衝撃ったらありゃしなかったのだ。もう既に一度読んでいる小説に抱く感想にしてはいささか大袈裟かもしれないが、そうさせるだけの出来事があった。

先週の土曜日のこと。
朝5時まで寝れない完璧な寝不足状態で朝の早いうちから外出し、昼間にライブを見て、そのまま飯も食わず寝もせずにフォロワーと合流してまぁまぁ長い時間飲んでいた。
結果綺麗にアルコールがブン回り、思考能力が極端に低下したものの何故か指から文字をアウトプットすることはできる状態になってしまい、あろうことか推しているアイドルに明らかに日本語を読めていないリプライを送っていたのである。
翌日目覚めてツイートを遡っているうちに自分の「終わってる」リプライを見て青ざめ、急遽その日のイベントの当券を取り本当にご迷惑をおかけしましたと謝りに行ったのだけど、「急にデレてきてかわいかった」と限界まで飲んで脳がぶっ壊れただけのオタクには勿体ないくらい素敵な言葉を掛けられてしまい、ポジティブにも程があるというか、どこまで他人を幸せにしたら気が済むのだろうか?もちろん自分一人だけがそういう幸福をあなたに願われて、幸福を受け取っているわけではなく、もっとたくさんの人がそうなのだろうと思うし、あなたも人をそうさせた以上の幸福をどうか享受してほしい。

酔った時めんどくさい感じで愛を伝えがちなのが同じらしい。
「先に謝ってからやってる」とのことなので次からそうしようと思う。

……という接近レポは置いといて、限界まで飲んで自分がしきりに綴っていたのが「ラブ」だったのだ(きっつ!)。
明らかにヤバかったリプは消したし、酔って書いて後から見てもこれは本心だなと思ったツイートは残してある。なんなら別にシラフの時のリプライやらチェキツイやらでも書いていることなのだけど、ここで最初の小説のセリフが自分に対する疑問として立ち上がってくる。

「『愛って何だと思う?』」

この問いに対する明確な答えを、自分は持っていないのだ。
自分で解釈できていないのにそれっぽく、時に「酔ってるから」という免罪符を片手になんとなくキレイな言葉を使うことで推しに気に入られようとしてツイートしただけなのだろうか?
絶対にそんなんじゃないけど、今の自分でそれを否定できないのが悔しい。久美子と麗奈は自分なりに答えを見つけていたのに。
どうしてもこういう、ふっと湧いて出た疑問をほっとけない自分は、愛って何なんだろうね?という哲学でも屈指の命題に対し、「明日の夜飯何にしよう?」ぐらいの感覚で考え始めることにした。なので文字数や文面のイカツさに比べて内容はそこまで重くはないはず。多分。

男女の間の恋愛的な愛や家族間、人と人の間に生まれるもの以外にも「愛」は存在すると思っていて、食べ物だったり飲み物だったり、音楽にも本にも絵画にも、家電やスニーカー、何にでも人は愛を注ぐことができると思っている。(広義での)オタクとかマニアとか呼ばれる、熱狂的に何かが好きな人には「偏愛」という言葉がしっくりくる。
それら全てに使われる「愛」という言葉にそもそも共通点なんかないんじゃない?と思わなくもないけど、そこに何かを見出すとしたら?
結論から言うと「話し続けること」なのだと思う。恐らく。少なくとも自分の中では。

それまで好きになったものを「なぜ好きなのか?」から自問自答を繰り返し、より自分の中での「好き」を確立していくことがある。嫌いなものでもたまにやるけど、嫌いなものにそこまで時間を使っても、結局嫌いなものは嫌いなままなので途中で投げ出してしまう。
ずっと考え続けているし、何なら意地悪なもう一人の自分と延々と対話し続けるような行為なので半端なくエネルギーを消費するのだけど、そのエネルギーを割いてでも考えを続けたくなるほど好きなことというのは、なんか「愛」っぽくない?と思う。

例えば友人のオタクたちとも終電間際まで、時には終電を超えても話が続くことがある。
話している内容はその時々によって様々だけど、酒が入って会話の内容なんて覚えていないことも、覚えていても後から「あれって全然内容なかったよね?」と思うこともある。
もちろん真逆のとっても深い話、例えば最近だとプリキュアの映画のどこが良かったみたいな話とか、これ書き起こしたら評論本の1冊でも作れるんじゃないかぐらい話したこともあった。
人と喋ることがそこまで得意ではない自分にとって、延々と「誰か」と、「何か」について話し続けることができるのは、話す内容に対しての愛情と、同じくらい、もしくはそれ以上の熱量で語るオタクへの愛情がそうさせているのではないだろうか。

例えば推しとの特典会。
アイドルに関わらず全く知らない人と関係を構築するのは難しいし、何なら自分が昔ほどライブに行かなくなってからアイドル自体斜めに見ていた部分があって、今更ハマる自分にも若干の後ろめたさがあった。
たまたま見たにしろパフォーマンスが素晴らしかったから、というのは十分お話しにいくだけの理由になるけど、それでも高いハードルのようなもの感じていた自分にとって、結構重めの1歩を踏み出して特典会に並んで、それが続いているのは「この人と話したいな」という気持ちがそうさせている。
話すことで人となりを知りたいと思うし、自分の思ったことを伝えたいとも思う。
これがしきりにリプライで送っている「ラブ」の正体、なのか……?

外に出る時に服と靴を選ぶときもそう。
自分と今日の気分とクローゼットにいる洋服みんなとの話し合いなのである。
カメラも写したいものに対してレンズやプリセット(これはフジユーザー特有かもしれないけど)を選び構図を考え、露出やシャッタースピードを決めて……と、シャッターを切るまでに多くの対話が発生している。
音楽を聴く時も、昔ほどは1枚のアルバム、1曲をじっくり聴くことなくなったかもしれないけど、やはり「この曲のどこが好きなのか?」を自分と対話しながらじっくり聴く事が好きだ。
単純に何かをコレクションするだけでもいい。本や漫画、アニメを見て感想を書くだけでもいい。趣味とはそれに割く物理的、精神的なリソースと天秤にかけ、傾けるだけの愛によって成り立つものだと思うし、自分はそこにやはり、そのものやそれを選ぶ自分との対話を見出してしまう。
やはり、自分の中での「愛」とは「(誰かと、そのものと、それが好きな自分と)話し合うこと」なのだと思う。多少無理やりな気はするけど。

……半ば勢いで書いたような文なので、乱暴な理論と雑な文章な割に長くなってしまったし、自分でもこれが「今の答え」というだけでこの先変わって行くかもしれない。
ただ、今の自分にとっての「愛」は「話し合うこと」で間違いないかな、と思う。
自分でも話すことに苦手意識があるのによくこんな結論にたどり着いたなと思うけど、苦手だと思っていることなのに、どうしてもそうしたくなってしまうぐらい好きなもの、こと、人に囲まれていることも改めて自覚できた。
もしかして、というか、多分。書くことってラブかも。……あれ?

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