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 基本概念としての〈システム〉について論理的に明確にしたところを利用して、さらに我々は、〈主観〉や〈概念〉などの基礎的諸概念についても、ある程度の共通了解を得ておくことにしよう。

 まず気をつけなければならないのは、〈概念〉は、たんに思い浮かべられた〈表象〉や、また、単なる言語的な〈名前〉ではない、ということである。〈概念〉は、「概念」という言葉を用いる場面ではなく、もっと一般的な行動の場面で現れ、それを描写する際の〈基準(criterion、判断の手段)〉としてこそ問題になる。

 〈概念〉は、英語ではconcept、その元のラテン語ではconceptus、ドイツ語ではErgriffであり、いずれにせよ、‘まとめとる’といった意味である。したがって、まとめられる個々の物事に対して、〈オーバー=ステム〉にある。しかし、本書では、要素に対する集合というような実在的、実体的な意味では、〈概念〉という術語を用いていないことに注意せよ。概念は、物事の捉え方、物事に対する自分の処し方として、むしろ主体的な類型的行動、すなわち行為である。

 主観が異なる対象をなんらかの意味で同じと捉えるならば、その主観は、それらの対象に関してなんらかの〈概念〉を持っている、と言える。しかし、同じに捉える、ということは、ある場合には、「同じだ」と言うこと、もしくは、同じ〈名前〉で呼ぶことであるが、より一般的には、なにも言わなくても、行動として、それらに関し、同じような対処をすることである。

 たとえば、子供が、近所の家の庭で吠えているもの(大きな犬)と、別の日に道端で出会ったもの(どこかの子犬)と同じように恐れるならば、その子供は、それらに関してなんらかの同じ〈概念〉を持っている、と言える。

 すると、ある主観がそれらを同じととらえているかどうか、それを〈概念〉しているかどうか、は、じつは、その主観主体を客体とする客主観の概念によることになる。つまり、認識し行動する人を認識する別の人が、その最初の人の別の行動を同じとみなすかどうかによる。もちろん、当人が自分の対処について振り返って、自分の〈概念〉の有無を知ることもできるが、しかし、それはあくまで他者に対しての判断の方法と同じことであろう。むしろ当人はそのようにふるまうだけであり、それについて当人自身がどう考えようと、〈概念〉の有無を左右するものではない。

 先の例で言えば、子供が近所の家の庭で吠えているもの(大きな犬)と、別の日に道端で出会ったもの(どこかの子犬)と「同じ」ように恐れているかどうかは、その子供の自覚の問題ではなく、むしろその子供を観察している人々の判断の問題である。

 さらに、「概念」という言葉は、日常的には、このように〈概念〉を持つ主観主体を客体として観察した客主観の判断の問題であるから、その客主観が言語行動する、すなわち、話したり、手紙を書いたりする場面でこそあきらかになる。だから、「概念」という言葉の基本的な用い方は、最初の主観主体である第三者を話題として、たとえば「彼には○○の概念が欠けている」というように使う。

 自分の〈概念〉そのものを話の主題とすることは、文法的にできない。というのは、それは、記述者である客主観の問題ではなく、このような客主観の言葉を読聞した、客主観を客体とする客々主観の問題だからである。この客々主観は、元の主観主体がそのようなものに同じ対処をした、というような原典対象の〈基準〉を、その客主観が観察したのだ、と理解する。そして、このような理解についての説明は、さらに客々々主観の問題である。

 このように、〈概念〉についての議論は、本質的に自己完結性を欠いている。しかし、それは、どのような人間的(社会的)行為についても言えることである。というのも、後述するように、その実践的な補証の必要性において、〈概念〉や言葉の理解において、我々は本質的に世界的、社会的な存在だからである。要は、〈概念〉ということが、行動の場面でこそ重要な意味を持つ、ということであろう。




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