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1.1.6. ソリッドシステムとクラウドシステム

 〈システム〉の〈要素〉すなわち「部品」は、もとより〈原集合〉の〈部分集合〉であり、それ自体の〈要素〉を判別確定できるとはかぎらない。「部品」がその〈要素〉を確定している〈システム〉を「ソリッド」、そうではない〈システム〉を「クラウド」と呼ぶことにしよう。

 たとえば、蒸気機関は、一見、その「部品」が明確な「ソリッド」な〈システム〉のように思われるが、じつは、蒸気などという曖昧なものも、その機能において「部品」として使われている。沸騰する以前の水と蒸気とを境界づけることは難しい。新聞の写真などのように、点描による絵などは、それぞれの形は境界がはっきりしない。しかし、写っている状況を見て取ることはできる。また、山というのも、どこまでが麓かわからないが、とにかく、連なって山脈という〈システム〉を成している。

 だが、〈システム〉を成すのに、その「部品」の〈要素〉が判別確定されなければならないなどということはない。つまり、個々の具体的な〈要素〉がある「部品」に属するかどうか、などは直接には問題にならない。このようなものが可能であるのは、〈システム〉がかならずしも〈原集合〉の〈要素〉に還元されなければならないわけではないことによる。つまり、部分として〈軸〉となる概念が先行的に措定されえ、そして、その〈軸〉が空集合でなければ、それだけで充分にとりあえず〈システム〉として成り立つからである。

 再び蒸気機関で言えば、なんらかの水と石炭があればよいのであって、具体的に、どの水、どの石炭でなければならないなどということはない。
 我々は、いちいち話題の対象を厳密に特定しなくとも、記述や読聞できる。たとえば、隣の家の犬を話題にするのに、抜けているけれども、からまって犬に付いている毛は犬に属するかどうか、などという問題は、事前に規定しておく必要はない。たとえばまた、タイルから構成された絵ではなく、要素が曖昧な、たとえばエアースブレーの点描からなる絵のような「クラウド」な〈システム〉も成り立ちうる。

 家族や親戚などというのも、よく考えればかなり「クラウド」である。もっとダイナミックに、いわば、離縁勘当、養子などによって成員が頻繁にやりとりされるような〈システム〉もあるばかりか、家族自体がその成員のダイナミクスによって、分家、合併、独立、消滅などする「ホット」な〈システム〉もある。何年、何月、何時、何分、何秒の時の、などといっても、遠い親戚が遊びにきて、その一瞬以降、ずっと住み着いてしまうかもしれず、誰も知らない亡き祖父の隠し子がまだいるかもしれず、そんなことはわからない。しかし、いずれにせよ、そんな細かなことが問題となる「場面」は日常ではまずない。

 明確に規定できるのは、現実の〈要素〉そのものではなく、せいぜい「部品」の〈名前〉にすぎない。〈名前〉は、いくら余韻を響かせても、言語行動作法の単位として、たしかに「ソリッド」である。

 これとともに、量的ではなく質的な「ソリッド」、つまり、いわゆる「純粋」という概念についても疑ってかかる必要がある。すなわち、日常(カントの術語の話ではない)には、ある集合が同一の種類の〈要素〉のみを含むとき、これを「純粋」と言うが、ライプニッツの問うたように、それは、対象の〈要素〉そのものの同一性ではなく、ただ多様なものを同じ〈名前〉で呼べるかどうか、にかかっている。
 現実にある色、たとえば黒もまた、一面に単調均一な黒なのではない。よく見れば、むしろ黒などどこにもなく、赤や青、紫、緑などのきらきらした均質な輝きである。電子にまで分解してしまえば、色などないのは言うまでもない。つまり、「純粋」というのは、不純な混合の均質性にすぎないかもしれない。それを「黒」などとある一言で呼ぶからこそ、あたかも「純粋」であるかのように思えてしまう。つまり、それは、呼ぶという行動の単位性であって、対象そのものの単位性ではない。
 では、さらにその要素たった一つにまで限定すれば「純粋」になる、と思うかもしれない。しかし、たとえば、単一の水分子においては、流れるとか、冷たいとかいう、いわゆる水としての性質はもはやそこにない。つまり、水分子単子は、水ではない。では、そのどのくらいの集合が水なのか、というと、これがまたきわめて「クラウド」である。

 「部品」が「クラウド」であるとき、その〈システム〉の全体も「クラウド」になる。明確なはずだ、明確にできるはずだ、などとかってに決めてかかっても、事実がそうではない以上、しかたない。かすみを半分に切っても、鋭利な切り口など残らない。この対象の曖昧さこそ、我々が直面すべき大きな問題である。

 たとえば、山は限界が不明確なので、その〈システム〉である山脈の限界も不明確である。もちろん、山の〈名前〉の集合として、山脈を決めることはできるが、それは、答えるという言語行動上の作法の問題であって、事実とは関係ない。
 《具体的問題》と《抽象的問題》の間に、未開の広大な《類的問題》の領域が存在している。《類的問題》は、客観的な具体対象を特定できないが、かといって、主観的な抽象観念を議論しているのでもない。それは、あくまで客観的なものであり、実在的なものである。たとえば、蜂は、ただその一匹のみを追跡し観察しても、その生態の全貌を解明することはけっしてできまい。そして、それは、人間もまた同じことであろう。本書のテーマであり、かつ、《哲学》の中心課題のひとつである人間の〈精神〉もまた、まさにこのような類的なものである。



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