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1.1.1. システム論の位置

 アリストテレースは、「全体は要素の寄せ集め以上の存在である」と言った。しかしながら、《近代科学》は、《数学》、とくに《微積分》や《統計処理》という新たな仮説的手法をもって、この問題を解決したかのように考えてきた。すなわち、実際の研究は、その対象の中の変化しない個別の〈要素〉のみを扱う《ミクロ論》と、その対象の多様な〈要素〉の間の作用が最終的に相乗相殺された総合形態を扱う《マクロ論》と二極化し、これらの《ミクロ論》と《マクロ論》の間を《微積分》や《統計処理》でつなぎうる、と想定してきた。

 なぜ我々が考察をこのような問題から議論を始めるのか、理解できない読者も少なくないかもしれない。しかし、化学を問うのに、原子という概念装置が鍵となったように、人文科学や社会科学を考えるのに、まずその基礎概念を新たに打ち立て直す必要があるからである。すなわち、我々の日常の発想は、これまで、複数の具体対象とそれらを包摂する抽象概念、という素朴な《集合論》の図式に依存しているようであるが、たとえば、行為や名前、資本や株主、政策や国民、というような高度の人文社会的概念を扱うにあたって、それらは、もとより具体的な個別の対象を特定することはないが、しかし、実在を離れたいわゆる抽象概念でもなく、問われれば、具体的に指示することができるという独特の存在の仕方をしていることが問題となる。それらは、具体的な対象が浮動しつつ実体的に存立しているものであり、それゆえ、このような人文社会的な物事の独特の存在の仕方そのものを、あらかじめまずきちんと概念的に整理してからでないと、我々はこれらの物事を見間違えてしまうだろう。

 だが、この《近代科学》の数学的戦略において、個々の物事への関与によってこそ全体の中に生きる中間的な存在としての〈生命〉の問題は、我々の知の射程からこぼれ落ちた。そこで、《ミクロ論》に対しては〈マクロ〉ではない《全体論》が、そしてまた、《マクロ論》に対しては〈ミクロ〉ではない《有機論》が、その後、主張されることになった。だが、これらはどちらもおうおうに神秘主義的主張に終始し、なんら具体性を持たず、反論理主義にはしりがちである。すなわち、自分たちの分析能力を越える複雑な対象を、「わからない」と言わず、ただ「全体」とか、「有機」とか、述語づけることによって、わかったかのように、いわば思考の「雑費」処理をしているにすぎない。というのも、「全体」とか「有機」とかいう述語で、具体的にはあきらかにその複雑性のあり方の異なるさまざまな問題が、きちんと区別されることなく、混同されてしまっているからである。

 もとより、〈生命〉は、生から死へ変化していく一時的な存在であり、《ミクロ論》の集計や積分でも、《マクロ論》の分析や微分でも、その実物そのものは捉えられない。たとえば、細胞を寄せ集めても生物にはならず、統計を掻き分けても個人は理解できない。それは、〈生命〉、すなわち、生物や個人や会社や市場や国家や文明が、〈ミクロ〉と〈マクロ〉の中間として、《数学》においては、むしろ「計算途中」として捨て去られてしまうべき、多様な〈要素〉の間の作用の相乗相殺の一時的な過程そのものだからではないのだろうか。

 それゆえ、これらに対して、《システム論》と称し、どのように複雑であるか、その複雑さそのものの構造を分析的に探る方法も模索されている。ところが、残念ながらこれらも名前倒れで、《全体論》や《有機論》の一種にすぎないことがおうおうにしてある。

 《システム論》については、ディルタイ、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、および、K. ポランニー、M. ポランニー、メルロ=ポンティなどの近年、といっても、もう半世紀以上にもなる議論の系譜をあらかじめ参照しておくことが望ましい。また、証明その他に関する《数学基礎論》の基本的な理解もあることが望ましい。

 とはいえ、本書はあくまで一般理論として独立しており、このような知識は、本書の内容そのものの理解にはかならずしも必要ではない。以下においても、参照として、一応、大まかな関連性は示すが、それらはけっして個別的な箇所の引用などではなく、それゆえ、些末に場所を指示したりはしない。だが、本書そのものの学術的な「意義」の理解および評価には、そのような片言隻句としてではなく、もっと大局的な意味で、それらの基本的な理解は予備的に絶対に必要であろう。

 人間的営為の言語的な第三者志向性(社会志向性)こそ、本書の全体を貫く問題である。それは、存在の意味が、それ自体で独立絶対に存立するものではなく、行為によって社会の中で歴史として生成されていくべきものである、ということによる。そして、ここにおいて、言語的行為が存立するために本質的な〈補証[sublektik](手形裏書)〉という機制が、その解明の鍵となる。ただし、言語的行為は、いわゆる言語行為に限定されるわけではない。それゆえ、〈システム〉という概念も、《社会学》のように、主体そのものの関係に直接に適用するのではなく、まず行為の構造の考察にこそ適用されることになる。

 たとえば、ある定義によれば、「システム」とは、「ある共通の目的に奉仕する複数の要素と要素の間の相互依存関係からなる複合体」とされる。しかしながら、この定義を用いようとする人々は、「複合体」とは何か、を問う必要があるだろう。そもそも、共通の目的に奉仕する、という点も、よくわからない。要素には意志能力が必要なのか、また、自然の事物も神か何かの目的に奉仕しているかどうかがわからなければ、我々はそれを「システム」と呼べないのだろうか。

 また、「相互作用下にある諸要素の集合」という定義もある。しかし、集合は要素によるに決まっており、また、「相互作用」というのはいったいどういうことなのか、あいかわらず不明である。たとえば、公理による「システム」というものがあるが、その公理そのものは、むしろ相互に独立であることこそ望ましいとされている。

 近年、《複雑系論》というのもある。これは、マクロを、ミクロの単純加算ではなく、ミクロの要素間の相互作用による自己組織化を勘案しようというものだが、その相互作用や自己組織化そのものについては、きわめて《数学》的であり、この意味で、それはかならずしも複雑ではなく、あくまで従来の《マクロ論》の発展型の一種と言うべきだろう。

 だが、そもそも、定義から始める、ということが《哲学》の戦略として失敗なのではないだろうか。公理系そのものについて議論するのならばともかく、ここでは、《哲学》として現実という総体的な対象に関する一つの見解(理解の仕方)を読者に説明することこそが眼目であり、術語に拘泥して説明がおろそかになるのでは、本末転倒であろう。とはいえ、しかし、説明をする以上、基本的な術語について、説明に必要である程度にはあらかじめ共通了解がなければなるまい。それゆえ、我々はいま、「システム」という術語から整理していこう。





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