1.2.2. 意識
〈意識〉は、客主観によってとらえられる主観主体の概念性を、当の主観主体にレトロダクション(retroduction、遡及措定)する場面で問題になる。つまり、客主観の〈概念〉を疎外し、主観主体に措定する場合である。つまり、ある主観主体がある類的な対処をしたことを客主観が観察した場合に、この客主観は、行動したにすぎない主観主体を主題として、彼はそれをある〈概念〉で認識した、と認識する。しかし、それはあくまで、客主観主体を観察する客々主観から客主観主体へ逆に投影されたものである。
〈意識〉は、当初、白紙ではない。わからないとわかっている。たしかに、闇夜の牛は、すべて黒い。しかし、自分が歩けば、そこで牛に当たるという対処をせざるをえない。実在を無視することは容易ではない。そして、もちろん、その妨げられ方は一様ではない。〈意識〉がいかに妨げられたか、によって、世界の物事は区別されうる。すなわち、分かる。
白紙の意識の問題については、ロックおよびサルトルを参照せよ。
見える、ということは、逆に言えば、その向こうが見えない、ということでもある。フィヒテの〈反立〉の客観性は、ヘーゲルらによって否定されえてはいないのではないだろうか。(「闇夜の牛」については、ヘーゲルを参照せよ。)
存在、その「存」や「在」のへんは「才」であり、「亅」という流れを「>」によって妨げ、塞ぐ形である。
そのように区別される対処の〈契機〉によって、世界は、彼自身を含め、そのように多様な〈要素〉からなる〈システム〉とされる。したがって、ある主観主体にとっての世界の〈要素〉は、彼自身の対処の種類によってこそ規定されている。
ただし、彼の対処にどれだけの種類があるか、は、厳密には、彼を観察する客主観次第である。もっとも、たいていの物事の判断には、共観性(客観性ではなく類的主観性)がある。
〈因果〉は、事実や概念において成り立っているわけではなく、たんに説明という言語行動を成り立たせる行動の作法である。原因との機械的関係による説明もあれば、結果を目的として示す、また、その目的の原因(と文法的に同じ)である意志を理由として示す説明もある。もちろん、いずれにしても、〈事実〉や〈概念〉とのなんらかの対応が求められるが、それは副次的な問題である。というのは、誤った説明、偽の、見せかけだけの「説明」というものも、そこに充分に成り立ちうるからである。
「説明」は、〈因果〉のほかに、その言語行動の相手が知らない、気づいていない事実をあらためて記述し、話の前提に繰り込み直すことによっても成り立ちうる。本書もまた、既存のマクロ的な枠組を用いてミクロ的な対象の〈因果〉を説明するのではなく、話の前提、その枠組そのものをあきらかにし直す方法を採っている。
〈因果〉は、レトロダクション(遡及措定)されて、〈事実〉に内在させられたり、〈概念〉の先験的形式とされたりすることが多い。しかし実際は、〈事実〉においてはかくあり、〈主観〉においてはかく対処をする、ということにすぎず、本来的な意味で〈因果〉という形式を持っているのは、その主観主体が、その観察する対象の〈事実〉に対してではなく、客主観に対して行う言語による対人的行動である説明である。
ある主観主体が理解しているかどうか、つまり、正しい〈概念〉を構築しているかどうか、が問題となる場合に、本人に説明を求めることがしばしばある。そして、それに答えられれば、彼はわかっている、としてよい〈基準〉となる。〈基準〉は、主観主体(第一者)に関して、これを観察描写する客主観主体(第二者)が客々主観(第三者)に対しそのように言うことを、とりあえず正当化する。しかし、それは、彼がそのような質問に対して答えるという言語行動の作法を身に付けている、ということだけであって、内容の理解とはかならずしも直接的な関係はない。
たとえば、「富士山の高さは?」という質問に対して、「3776m」と答えることは、そのような言語行動の作法を理解している、ということだけであって、それを富士山の高さを知っていることだ、とか、理解していることだ、とかとするのは、質問者の方である。「高さは知らないけれど、独立峰だからとくに高く見えるのですよ」と言える方が、富士山の高さについて理解しているのではないか。しかし、そのような答えは、質問者にとっては不満だろう。というのは、それは、そのような質問に対してに限れば、答えとしての作法にかなっていないからである。だが、そうだとすれば、その質問者は、理解を問うという本来の目的を忘れてしまっている、もしくは、その方法をもともと正しくは理解していない。
〈意識〉は、〈因果〉のレトロダクション(遡及措定)の構造を持つ。たとえば、ある主体が闇夜でなにかにつまずいたとすると、客主観においては、その主体は、つまずいたことによって、そのなにかの存在に気づいた、とされるが、当の主観主体の〈意識〉においては、なにかが存在したから、つまずいたのだ、と、自分の気づきを捨象し、存在を疎外し、先駆措定する。その結果、〈因果〉は、客主観と当の主観主体の意識とでは、逆転を生じる。これは、自分が気づく、ということが、自分自身にとってどうでもよく、〈因果〉の説明を考えること自体が、そのまま気づきの表明になっている、という事情によるものであろう。
いずれにせよ、つまずいたことによって初めて、回想的に、レトロダクティヴに、対象の存在が後から措定されるが、〈意識〉は、この逆転によって無意識に、〈因果〉をあるべきところにあるべきように整列化していると言える。ただし、これは、対人的な「説明」という言語行動においての順序の作法の問題であり、事実を回想し、記述する際にはじめて行われるのであって、その出来事の時点ですでにこのように整列して命題的に認識しているわけではない。
また、世界観からレトロ(逆影)された対象を〈契機〉として、世界そのものを再現する。つまり、気づきによってイントロ(投影)されたものは、レトロ(逆影)によって因果逆転し、後には因果整合的にレ=イントロ(再投影)される。このことによって、主観は、その対象の概念からその介入の経緯を除外される。
たとえば、このいちごは甘い、というのは、そのいちご自身が自分の甘さを感じるのではない。いちごに対峙する主観自身が甘いと感じる。つまり、主観そのものの方が、甘い、になっている。しかし、主観は、〈意識〉を持つことにおいて、これを対象にレトロダクションする。また、このことは知として態度化、固定化されるから、その後の反省では、これは甘いいちごだ、と意識される。つまり、主観なしにそのいちごの甘さが自立してあらかじめ存在していたかのようにみなす。すなわち、甘さが疎外される。そして、後には、これは甘いいちごだから、甘いのだ、と自明自証的に、因果整合的に整理統象される。つまり、甘さが〈因果〉の上のあるべき位置に措定し直される。ここには、もはや主観性の自覚もない。
そもそも、対象の存在自体、〈意識〉の〈契機〉とするところを世界にレトロダクションしたものである。
〈意識〉は、世界によって傷つけられる。その傷をもって、ナイフか銃か、鈍器かの存在が知られる。〈意識〉は、〈意識〉が‘いかに’傷つくか、をもって、そこに‘何’が存在するかをわかる。
たとえば、机の上にペンがあるから、それが見えるのではなく、じつは、そこに見かけたから、ペンがそこに存在するとされているにすぎない。なぜなら、日常的には、かなり探して見つからなかったならば、逆にペンの存在の方が否定されてしまうからである。これは、存在の方が因で、認識が果であるとしたならば、起こりえない事態であろう。
ただし、いったん気づかれたことに関しては、知は態度化され固定化されるので、その後、必要があれば、任意に存在措定できる。
たとえば、箱の中にカブトムシが入っているのを知ったら、箱を開けてみなくても、箱の中にはずっとカブトムシが入っていることになっている。これは、その客体であるカブトムシの問題ではなく、そう思う主観の問題である。そう思うことを、実際のカブトムシの代わりの客体にしてしまっている。だから、とっくの昔にカブトムシは逃げてしまっているということも起こりうる。この例については、ウィットゲンシュタイン『哲学探究』の〈私秘言語[private language]〉の議論も参照せよ。
つまり、措定においては、対象が存在していると思う〈意識〉の存在が、事物そのものの存在の代わりに確かめられてしまう。このような対象の「存在」は、もはや《自証》的である。論理はここで行き止まりとなる。健全な存在認識は、存在と認識で《対証》をなす。
《自証[autolektik]》《対証[dialektik]》《衆証[polylektik]》などについては、《システム論》として本書を貫く重要な術語であり、後述される。
存在措定されない物事は、存在しないとされるわけではない。‘ない’ということもまた、あらためてきちんと不在措定される必要があるからである。どちらも措定されていない物事は、‘わからない’という「〈意識〉の雑費項」で処理される。
しかし、とりたてて措定しなくても、〈シンプトム(兆候)〉から存在が知られうる物事も少なくない。また、いったん存在措定されたことのある物事は、新たな〈基準〉のないかぎり、知られていることで固定され、その主観においても態度的に存続している。つまり、物事の在は、主観主体の世界、というより世界観の〈態度(モード、様相)〉として存する。なぜなら、在った物は在るからである。
たとえば、魚屋ならば、それだけで店の中の魚の存在を措定しうる。「うちにはリンゴの木がある」という人がいれば、その人の家のリンゴの木の存在を措定しうる。これは、そのように記述する人が、そのように記述しうる〈基準〉を得ているという信頼による。
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