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 同じ対象のさまざまな〈表象〉は、〈システム〉として〈概念〉に統合される。

 たとえば、犬の形態や鳴き声は、犬の〈概念〉に統合されている。しかし、それは、犬の実体が共通であるからではない。犬が鳴く様子と犬の鳴き声は、時間的に共動であるから、犬が鳴く様子を見ることなどによって、形態と鳴き声が連鎖する。

 〈概念〉において、個別単一の〈原典対象〉、いわゆる「物そのもの[ding an sich]」が措定されることがある。とくに、「固有名詞」とされる物事がそうである。しかしながら、これは、同一として捉えられているわけではない。というのは、それは、同一の〈表象〉(たとえば、同じ角度からの視覚)でなくてもかまわないからである。いわば両端を縛った束のように、単一の〈原典対象〉からの諸感覚、〈諸表象〉は、《対証》的に単一の〈概念〉に統象されている。つまり、〈表象〉の束と同様に、客体状態・行動の束がある。

 たとえば、さいころの視覚的な〈表象〉は、どうやっても最大でも三面しか含んでいないはずである。にもかかわらず、我々は、〈概念〉において、その六面すべてがわかっている。また、もちろん、単一の客体像を〈原典対象〉としない概念(理念)、概念に対証されていない客体なども少なくない。たとえば、一般名詞の犬は、佐藤さんの家の犬の諸表象だけから成り立っているわけではない。

 気をつけなければならないのは、〈概念〉は、あくまで主観主体自身と共動する〈システム〉であり、客観的な、単なる〈表象〉の集合などではない、ということである。〈概念〉は、それを持つ主観主体の対処によってこそあきらかになるように、その主観主体自身の行動の規範的な規定を伴う。したがって、多くの〈表象〉は、そのような対処を発動させる〈契機〉としてこそ問題となる。

 たとえば、ある人が、夜、すすきのゆれるのに驚いて逃げ出した、とすれば、彼はおばけを思い浮かべた、すすきにおばけの〈表象〉を持った、と、彼への客主観は彼を記述して言うことができる(もちろん当人が回想してもよい)。したがって、当人が本物のおばけの〈表象〉が実物を〈原典対象〉として得ていることは必要ではなく、そのような対処が、「おばけを見た」と言える〈基準〉になっている。逆に言えば、これは〈表象〉だ、これはおばけだ、と言うような文法は、むしろ日常の言語行動に欠けている。

 〈表象〉を音楽のテープや写真のフィルムのように一連のもの、広がりのあるものものとして考えるのは正しくない。つまり、論理形式の同形性すら保証されるものではない。つまり、シーケンシャルではなく、もともと断片的であり、それゆえにこそ、これらを多様に組み合わせることができる。
 たとえば、「ミミファソソファミレドドレミミレレ」を「ミレミレファミソミソレファドミドレ」(1音ずつ交互に前と後からひろったもの)として記録しても、その再生形式次第で、元通りに再生可能である。

 思い出の〈表象〉などはあきらかにランダムアクセス可能である。旅行のことを思い出すのに、旅行に出かける前の玄関から始めなければ思い出せないわけではない。ある出来事から逆にさかのぼって思い出すことも、当然できる。
 たとえて言えば、表象は、写真というよりジグソーパズルのようである。イニシャルした点からどちらへも連鎖させ、表象を得ることができるが、写真のようにつねに全貌を保っているわけではなく、残りはバラバラのままカンに入っている。それを構成する際にも、これという唯一の正解があるわけではない。それぞれの部分表象という駒は、もともと統象性をもってレトロダクションされたものであった以上、同じ駒(部分表象)が、プラパズルやブロック玩具のように、複数の表象に共有されていることも少なくない。

 〈表象〉そのものが「クラウド」である以上、それを〈契機〉とする〈概念〉も「クラウド」で、開放的であり、借用され、さらに他の〈表象〉を連鎖させうる。また、さらに、その断片ひとつひとつが「クラウド」であるために、多少ずれたところでも、はめればはまって、それなりのかっこうがついてしまう。

 たとえば、もし厳密に馬の肩の骨の構造を知っていたら、ペガサスの翼がどのようについているか、我々はもっと悩まなければならないだろう。

 このようにして、〈概念〉は、世界との出会いに先駆する。つまり、知は、主観主体そのものの態度として、出会いの前から対証活性を持っている。

 これに対して、〈表象〉は、イントロするその場かぎりである。痛みを感じる時、そこに痛みの表象があるが、「痛み」を思っても、それは痛みの表象を伴わない。つまり、「痛い」と考えることは、少しも痛くない。痛みや味、香りも思い出そうとしても、視覚や聴覚のようには表象しがたい。それに接すれば、それであるとできるにもかかわらず。

 なにかを思い出そうとするとき、我々は、その〈名前〉を‘思い出す’という対処の〈契機〉として利用しようとすることが多い。〈名前〉は、あきらかにその〈原典対象〉に発したものではないが、〈概念〉においては〈原典対象〉から発した本来的な諸〈表象〉と一緒に統合されている。諸表象の〈概念〉における連鎖は、場合によっては方向性を持っている。たとえば、味や香りから〈名前〉の表象へは連鎖しうるが、〈名前〉の表象からは味や香りの表象には至らない。

 たとえば、パイナップルの味から、目をつぶっていても「パイナップル」という名前を思い出しうるが、パィナップルの味をいくら思い出そうとしても、「いがらっぽい」とか、「甘い」とか、言葉では思い浮かぶかもしれないが、肝心の味そのものは口に浮かんでこない。これは味だからできないのではないだろう。たとえば、うめぼしをじっくりと思い出してみると、味が口に思い浮かぶ。これは、客観的に言えば、じつは味そのものではなく、唾液を出す、という私自身の対処である。とすると、視覚も、見える物事が浮かんでくるのではなく、鍵と鍵穴のように、見るという対処の方が浮かんできているのではないか。対処のしようのない臭いや痛みなどの知覚表象は、だから、思い出しえないのではないか。

 しかし、〈名前〉は、〈概念〉においてかならずしも特別な地位を持つわけではない。〈名前〉は、その〈原典対象〉に関するさまざまな〈表象〉のひとつにすぎない。たとえば、犬の形態と犬の鳴き声は、もともと同じ〈原典対象〉から発している。しかし、教育において、犬の形態に出会うたびに繰り返し横から「犬!」という言葉を吹き込まれる。いわば、人間が犬の「吹き替え」をする。こうして、犬は、第二の鳴き声を得る。犬で犬の鳴き声が連想できるように、犬で「犬」が連想される。(「わんわん」などという幼児言葉は、鳴き声と言葉の連鎖移行を容易にする。)犬の形態、犬の鳴き声、「犬」、これらの連鎖が、犬の〈概念〉の〈契機〉となる。

 「犬」というのは、犬の〈概念〉の〈名前〉ではなく、〈表象〉のひとつである。〈表象〉はもちろん〈原典対象〉をも欠いている〈概念〉の〈名前〉、たとえば「フロギストン」などというものも存在するのは、説明を求める人々に対しての(事態に対してのではない)、そのように記述するという言語行動による対処、人がそのように記述してきた場合に採るべき対処が、規範的かつ精神的に存在するかぎりにおいてである。このように、〈名前〉は、自分の言語行動または他者の言語行動として、〈概念〉に統合されているにすぎない。名前が対象の第二の「鳴き声」である、という問題については、ウィットゲンシュタイン『哲学探究』等も参照せよ。

 だから、〈名前〉があったところで、その〈名前〉を知っていることと、その〈概念〉を持っていることは、別のことである。〈概念〉の〈名前〉は、その当の主観主体の問題ではなく、それを記述する客主体の、その記述を読聞する客々主体に対する言語的対処としての問題にすぎない。

 たとえば、「義理」という言葉を知っている主体があったとしても、彼が義理に反するような行動をする場合、彼は義理を知らない、彼には義理の〈概念〉がない、とされうる。

 したがって、〈名前〉のない〈概念〉も少なくない。第二者によって、第三者に記述されることがなければ、〈原典対象〉やその〈表象〉が存在しても、〈名前〉はなくてもかまわない。しかし、通常は、同じ〈名前〉を持つ諸〈表象〉は、統合を促され、同一対処を持つ〈概念〉を形成する。

 〈名前〉のない物事をどうしても記述しなければならない場合、また、〈名前〉があっても、その〈名前〉を呼ぶという言語行動が嫌忌される場合、「あれ」というような汎用の〈名前〉が呼ばれる。この場合、客々主観(第三者)が、この「あれ」を〈契機〉とする〈概念〉が、特殊に区別され、《対証》できないようでは、言語対処として成立しない。つまり、「ほら、あれなんだよ」に対して、「ああ、あれか」とされる必要がある。だから、他の言葉とは違って、「あれ」という表象は、とくにさまざまな〈概念〉に重複的に統象されている。このように、「あれ」という言葉を〈契機〉の表象として含む〈概念〉は、一つではなく、多数ある。
 たとえば、実際の画風だけで、ゴッホの絵をすべて統象できるわけではない。専門家の微妙な判断によることもあるし、また、習作など、画風からはだれもゴッホのだとは思えないようなものでも、事実として、ゴッホの絵であることがある。それゆえ、これらは、「ゴッホの絵」と名付けられることによってこそ、ゴッホの絵として対処される。つまり、「ゴッホの絵」という名前が、それらの唯一の共表象になっている。
 このように、〈名前〉が〈表象〉を整理するラベルの役割を果たしていることが少なくない。たとえば、ネズミザルというのは、普通の人々にとってはネズミにしか見えないが、専門家によってサルの一種だとされる以上、サルと認めざるをえない。こうして、普通の人々のサルの〈概念〉の方が矯正される。それがサルの一種だ、と専門家によって言われるのは、専門家にとってはいわゆるサルとの共通性が確認されたからかも知れないが、すくなくとも一般の人々においては、その共通性の確認によるわけではない。そこでは、それぞれの主観の社会的な「権威の力」が問題となる。

 〈表象〉は、それぞれ唯一の〈概念〉のみに属しているわけではない。〈表象〉と〈概念〉は〈双対システム〉を成している。〈概念〉は、多くの具体的〈表象〉によって規定しうるし、個々の〈表象〉もまた、多くの〈概念〉によって規定しうる。

 たとえば、‘赤い’という〈概念〉は、あれ(あの家の屋根)、あれ(あのうさぎの目)、あれ(あの鳥)によって規定できる。また、逆に、たとえば‘赤い屋根の白い家’というのは、赤い、屋根、白い、家、などの概念の構成によって表象される。

 我々は、しばしば〈名前〉という社会的〈表象〉を媒介とし、雑多な自然的〈表象〉を掻き集めて、〈概念〉を捏造し、それに規約的な対処を付与することがある。だが、これは、世界の道理に準拠していない、という意味で、〈理性〉の誤用であり、それが言語的な、儀式的な規約に留まるうちは問題ないが、我々をさらなる虚妄に導き、いずれ破綻に陥れることになる。

 たとえば、サンタクロースの八頭のトナカイの〈名前〉に基づいて、さまざまな物語や物品が作られることは、たいして罪がないかもしれない。だが、たとえば、天動説に基づいてロケットを宇宙に打ち上げたなら、そのロケットは地球に帰って来られなくなるだろう。学者の使命は、このような虚妄の言語儀礼を温存することなどではなく、人間の〈精神〉を、世界と調和する〈理性〉へ立ち返らせることではないのだろうか。カント『純粋理性批判』等を参照せよ。




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