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1.1.2. システムの構造

 「システム[system]」とは、「幹・軸[stem]」を「共[syn]」にする物事である。これは、語源的に言えば、ギリシア語の「シュステーマ[συστημα]」で、「エピステーメー」などと同様に、立てる、確立する、という「イステーミ[ιστημι]」に、「共」の意の接頭辞「シュン[συν]」の付いたものである。それゆえ、あえて訳すならば、「共存立」とでもするのが適当であろう。

 たとえば、海と陸とは、海岸という〈軸〉を共有して共存立している。山奥で、ここは陸だ、などと唐突に言い出すことには、ふつうには意味がない。海との対照をもってこそ、陸が問題になる。また同様に、陸との対照をもって、海が問題になる。「共に」というのは、けっして「同じ」という意味ではない。海でないところが陸であり、陸でないところが海である。海と陸とは違う。

 〈システム〉には、したがって、〈軸〉と〈要素〉がある。自動車で言えば、車軸と車輪である。この点において、〈システム〉は、〈集合〉が単なる要素の寄せ集めであるのとは区別される。それは、車軸に付いていて共動関係にある車輪と、はずされてばらばらの車輪との違いである。ただし、一般の〈システム〉において、このように〈要素〉と〈軸〉が別々の「部品」であると考えるのは正しくない。端点のない線分はない。なんらかの〈要素〉があれば、それどころか、たとえ〈要素〉がなくても、かならずそれらの〈要素〉を含む〈軸〉を規定できる。〈軸〉は、実体的な「部品」などではなく、共動のための〈作用〉そのものと考えるべきであろう。

 〈要素〉が三つ以上の場合、すべての〈要素〉がまったく同一の〈軸〉を共有しているとはかぎらない。すなわち、〈要素〉が次々と異なる〈軸〉によって連鎖し、より大きな〈システム〉を構成していることがある。しかし、ある一端とある一端が、複数の〈軸〉を媒介として間接的にでもつながっていて共動しうるのであれば、やはり〈システム〉を成しているのであって、すべてが相互に直結している必要はない。

 たとえば、エンジンと車輪は共動ではあるが、直結しているわけではない。間には、プロペラシャフトやギア、クラッチなどがある。

 したがって、《集合論》で言えば、《ミクロ論》が〈要素〉を、《マクロ論》が〈集合〉を扱うのに対し、《システム論》は、おおよそのところ、ある原〈集合〉の〈部分集合〉を〈要素〉とする副次的な〈集合〉を扱う。つまり、たとえば、ある〈集合〉が{a,b,c,d}であるとき、その〈部分集合〉として、あ={a,b}、い={a,c,d}、う={b,d}が成り立っているならば、〈システム〉として、その〈ベキ集合[power set]〉{あ,い,う}を考察しよう、というものである。これによれば、〈原集合〉や〈部分集合〉の〈要素〉がミクロ的に特定できない場合でも、その〈部分集合〉の存在さえあきらかになれば、その〈システム〉は考察可能になる。ここでは、それぞれの〈要素〉が、どちらの〈部分集合〉に属するか未決のままではあるが、〈システム〉そのものの〈要素〉、「部品」は明確である。

 たとえば、海岸において、海と陸との境界はわからなくとも、海と陸があることはわかり、したがって、どこからどこまでが海で、どこからどこまでが陸か、を規定することなく、そこでの海と陸について充分に論じることができる。
 《数学》で言えば、〈部分集合〉は、〈要素〉に対して任意に設定でき、その組み合わせの数だけあることになる。だが、《システム論》としては、このようなことは意味がない。〈システム〉においては、〈軸〉すなわち〈作用〉が考えうる〈部分集合〉のみが問題となるのであり、〈原集合〉の要素でありながら〈作用〉とは関係がなく、いずれの〈部分集合〉にも属さない、ということもある。たとえば塗装は、車の〈要素〉ではあろうが、走行システムの〈要素〉ではない。

 しかし、《システム論》は、単純な《集合論》につきるものではない。というのは、〈集合〉において、各々の〈要素〉は、対等かつ独立だからである。しかし、〈システム〉において、対象の〈部分集合〉である〈要素〉すなわち「部品」は、共動性を持ち、かつ、その共動性は、かならずしも相互的ではなく、方向性と、いかなる共動であるか、という質的な〈意味〉の多様性を持つ。この意味で、〈軸〉は、物理的な存在としてではなく、むしろその方向的な〈作用〉そのものに注目して理解されなければならない。〈作用〉とは、一方の〈要素〉が他方の〈要素〉の状態をなんらかの意味で変えうる、ということである。

 たとえば、普通の自転車は、ペダルを回すと後輪が共動するが、後輪が回っても、ペダルは回ったりしない。
 ここで〈作用〉について注意すべきは、それが一種の可能性であって、実際に発動しているかどうかを問わない、という点である。そもそも〈作用〉の因果関係の認定そのものが、後述するように、やっかいな第三者的な認識問題を含んでおり、その認識という問題そのものが、じつは対象との間の〈作用〉の概念を援用しなければならない。このような「〈作用〉の認識論的循環」が、純粋な公理系としての「体系スタイル」の《哲学》の断念を我々に強いることになる。だが、意外にも、この「認識論的循環」による損失はあまりない。それがあるかのように思わされているだけである。

 もちろん、「部品」は、相互作用し、共動してもかまわない。このような場合には、よく知られているように、〈プラス=フィードバック〉(影響源そのものの力を拡大)、〈マイナス=フィードバック〉(影響源そのものの力を抑制)などが起こることもある。ただし、この〈フィードバック〉というのも、それぞれ独立の相互共動性として考えられなければならず、場合によっては、一方にとっては、相手はプラスを返し、もう一方にとってはマイナスのフィードバックであることもありうる。さらには、一方にとっては一方通行的であり、もう一方にとっては相互的ということもありうる。

 たとえば、生徒がはしゃげば、教師はマイナスをフィードバックして生徒を鎮めようとするが、教師がふざければ、生徒はプラスをフィードバックして先生をよりふざけさせようとする。また、たとえば、命令者は一方的に命令を下すだけだが、その追従者はその命令に関して質問し、命令者から命令の詳細としてその答えを得ることができる。

 〈システム〉はまた、静的な物事にも成り立つ。この場合、〈軸〉は、他の「部品」に質的な変化をもたらす〈作用〉であり、一般にはむしろ「関係」などと呼ばれる。

 たとえば、学校は、校長-教師の上司部下の「関係」、教師-生徒の師弟の「関係」から成り立っている。友人の「関係」などは対称だが、上の例のように、非対称的のものも少なくない。さらに、「関係」もまた、相互的であるとはかぎらない。たとえば、一方は、自分たち二人を親友同士だと思っているが、もう一方は、おたがいにただの知り合いとしか思っていないかもしれない。また、歴史的な先駆者と、その後世の追随者とにおいて、その追随者にとっては、その先駆者と関係があるが、その先駆者にとっては、そんな後世の追随者など関係ない。もちろん、関係のある場合もある。たとえば、その先駆者が、特定ではないまでも、後世の追随者を意識して、本を書いたりすることがあるからである。(本は読まれるためにこそ書かれる。もちろん、ときには書き散らすだけのものもある。)




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