見出し画像

シヴァナンダヨガを実践し、学びが深まると多くの方々が、バガヴァッド・ギーターを含めたヴェーダーンタ哲学の聖典を学びます。その際に必ず、シャンカラチャーリヤの名前が出てきますね。シャンカラチャーリヤがどんなグル(師匠)だったのか紹介します。

アーディ・シャンカラ(シャンカラチャーリヤ)は、太古のヴェーダの教えるダルマ(正義)をアドワイタ(不二一元)哲学という形でインドに広めたヴェーダーンタ哲学の開祖です。ヒンドゥー教の三大規範であり、難解な『ウパニシャッド』や『ブラフマ・スートラ』、そしてシヴァナンダヨガでもおなじみ『バガヴァッド・ギーター』を誰にでもわかる易しい言葉で置き換えて注釈を施しました。

シャンカラは、788 年に南インド・ケララ州のカラディに生まれました。父はシヴァーグル、母はアリアンバ。両親は子宝に恵まれず、毎日シヴァ寺院に巡礼し熱心に祈りました。シヴァ神は二人の信愛に満足し、夜に夢に出てきて尋ねました。「とても賢いが短命で死ぬ子供と、愚かだが長生きする子供の、どちらがほしいか?」夫婦は短い命でも賢い子を授けてほしいと祈りました。二人はただ祈るだけではなく、毎日シヴァ神を瞑想し、貧しい人々や年老いた人々に奉仕をし ていました。1年後の吉兆のある日、アリアンバは美しい男児を産みました。生まれた子の頭には輝く月があり、額にはシヴァ神の神眼があり、肩には三叉のほこの刻印があり、体は水晶のように光を放っていたそうです。両親は子供の誕生は、シヴァ神の恩寵と直感し、吉兆を授けるシヴァ神の名前であるシャンカラと名づけました。

シャンカラが3歳の時、父が亡くなりました。シャンカラは5歳で聖紐を授けるウパナヤマ儀式でガーヤトリー・マントラを学び、グルクラ学舎にて3年間ですべての学問を学び終えまし た。シャンカラがグルクラで学んでいた際に既に托鉢僧として歩いていた時、貧しいバラモンの夫人のわずかなアマラカ(梅干のようなもの)の喜捨に感動しました。そしてシャンカラは、その場でラクシュミー女神のバジャン(讃美歌)を即興で歌い、女神を降臨させ、夫人の家に黄金のアマラカで満たしました。

8歳になるとシャンカラは故郷に戻り、さまざまな聖典を学びつつ、母に仕えました。母が沐浴のために長い道を歩かずに済むように、シャンカラは「河を家の近くを流れるようにしてください。」と祈りました。すると、翌朝プールナ河がシャンカラの家の側をゆったりと流れていました。シャンカラの神聖な生活は、多くの人々に知れ渡りました。さまざまな職業の人や国王からも尊敬されるようになりました。

8歳で既に、シャンカラは隠遁の生活に入ろうと決めていましたが、母に反対されました。ある日、母といっしょに河に沐浴している時、1匹のワニがシャンカラの脚をくわえ深みに引きずり込もうとしていました。ワニの力に抵抗できず、溺れそうになったシャンカラは「お母さん、私はワニの口に飲みこまれてしまいます。せめて私の魂だけでも救われるように、どうか苦行者になろうという私の願いをお許しください!」と叫びました。母アリアンバは他になすすべもないまま、息子の願いを許しました。シャンカラは大声で「私は世を捨てた!」と3度叫びました。するとすぐにワニはシャンカラを放し、シャンカラは岸に上がり、母にお礼を言いました。母は愛するシャンカラと別れることに耐えられませんでしたが、真実を尊ぶ彼女は約束を守りました。母はただひとつ、自分の死の時にはシャンカラが家に戻り葬儀を行うことを約束させました。シャンカラは喜んで母の願いを受け入れました。シャンカラはついに、オムカラナートの師ゴーヴィンダパダーチャリヤをたずねる旅に出ました。

シャンカラはゴーヴィンダパダ師のもとで3年間過ごし、すべての経典とヨーガの奥義を極めました。すべての学習を終えたシャンカラに対して、ゴーヴィンダパダ師は「ヴィシュヌ・プラーナに関する注釈書を著しなさい。」と命じました。シャンカラは見事にそれをやってのけました。シャンカラによるウパニシ ャッドの注釈書はこのように世にあらわれたのです。師はシャンカラに希望をききました。シャンカラは 「瞑想して常に至高神の至福に浸り味わうことが望みです。」と答えました。するとグルは「お前はまだなすべき仕事が終わっていない。カシに行き、ヴィシュワナート神に祈りを捧げ、指示を待ちなさい。」と言いました。そう語ったゴーヴィンダパダは瞑想に入り、まもなく肉体を捨て大三昧に達しました。

その後シャンカラはガンジス河に沿って、ヴァラーナシーのカシへ向かい、大勢の人々がシャンカラのヴェーダーンタの奥儀を深く学びました。『究極のすべてであるブラフマンこそ、唯一の絶対実在である。最高の神我顕現は、感覚による誘惑をいっさい克服することによってのみ可能である』ことをシャンカラは自信を持って教えました。この地でシャンカラは、後の弟子パドマパダとなるサナンダナに教えました。 そしてシャンカラは、アーチャリヤ(霊性の師匠)の称号を受け、後にシャンカラチャーリヤと呼ばれるよう になりました。

画像1

ある日、シャンカラがガンジス河の沐浴を終えて帰る途中、シュードラに属する下等のカーストの男が犬を4匹連れて、道をふさいでいました。バラモンの階級の者が、シュードラに触れることは、厳しく禁じられていたので、シャンカラは男にどいてくれるように頼みました。

すると男は「どかなくてはならないのは、彼の体か?それとも彼の魂か?」と問い返しました。さらに続けて問いました。「高貴な苦行者よ、 あなたは常に絶対実在は遍在であり、あなたの中にも私の中にも等しく存在すると教えている。なのになぜ、私とあなたが違うように、私に触れないように身をすくめるのか?あなたは食物からなる私の身体を、 同じ食物からなるあなたの身体を遠ざけてもらいたいのか?それとも、ここにある純粋意識を、そこにある純粋意識から離してほしいのか?聖なるガンジス河に映る太陽と、汚い水溜りに映る太陽とは、違うというのか?」と。

シャンカラは自分の非を悟りました。シャンカラの英知の眼は開かれ、彼はもっとも卑しい中にも絶対実在をみて、その男に深々と頭を下げました。その場でシャンカラは次の詩をうたいました。

『誰であれ万物を等しくみなす英知を備えた者は、たとえシュードラであろと、我が師である。絶対実在・純粋意識・至福、すなわちブラフマンには区別はない』

その瞬間男は消え、代わりに光輝を放つシヴァ神が美しい御姿であらわれました。シヴァ神はシャンカラを祝福し、当時インドにはびこっていた誤った迷信にとらわれている考えを排除するために「経典の注釈書を著し、真の教えを人類に広めよ。」と命じました。

シャンカラは、バドリカシュラムへ弟子とともに長い旅に出、それから隠遁し注釈書を著しました。さらに国中の村から村へと旅し、ケダルナートやウッタラカーシーへと旅を続けました。その頃、年老いたバラモンが毎日シャンカラを訪れては、ブラフマスートラの定義についてシャンカラと議論を交わしました。 それは数日続き、弟子たちはこのバラモンはただものではないことに気づきました。シャンカラはバラモンに「本当の名前を名乗ってください。」とお願いしました。するとバラモンは仮の姿を捨て、真実の姿を あらわしました。彼は、バガヴァン・ヴェーダ・ヴィヤーサでした。シャンカラは感極まって、ヴィヤーサの御足にひれ伏しました。ヴィヤーサはシャンカラの注釈書に、ヴィヤーサの教えが忠実に施されてい ることを承認し、里に下りて儀式偏重主義に陥った人々の誤りを正し、ヴェーダーンタの英知の卓越性を確立せよと指示しました。その時、シャンカラは16歳でした。彼に定められた寿命は16年だったのですが、この使命を完成させるべく、ヴィヤーサはシャンカラにさらに16年の寿命を与えました。

シャンカラは弟子と共に、ヤムナー河を下降して旅を続け、多くの聖地を詣でつつプラヤーグに到着しま した。この地でシャンカラは、頑固な儀式偏重主義者のヴィシュワルーパと論戦を交わし勝利しました。 この時の審判はヴィシュワルーパの妻であるウバヤ・バラティでしたが、夫がシャンカラに敗れると今度は自ら論戦を挑んできました。シャンカラはウバヤ・バラティの愛の技巧についての論戦には苦戦しなが らも、何とか勝利しました。二人は規定に従い、シャンカラの弟子となりました。この勝利からシャンカラは最期の大三昧に入るまで旅の連続でした。彼は学者・宗教指導者・王や首領・国民が抱える難題を理解し、状況を改善しました。シャンカラは国中を歩き、哲学体系の過ちを根絶しました。

シャンカラは故郷カラディの母が危篤であることを感じました。出家前の母との約束を思い出し、ヨーガ の力であっという間に帰宅しました。12年も会えなかったシャンカラを見て、母は喜びの涙を流しまし た。シャンカラは母を優しくいたわり、シヴァ神を讃える歌を歌うと、シヴァの使者がその場に現れまし た。すると母は恐れおののき近くに来させないように嘆願しました。シャンカラは母がクリシュナ神を信仰していたことを思い出し、ヴィシュヌ神を讃える歌を歌いました。すると今度はヴィシュヌ神の使者が 美しい装いで姿を現しました。彼らは、聖母のみたまを、神々の永遠の住まいヴァイクンタに連れて行きました。シャンカラは着ていた僧衣を脱ぎ、白い衣に着替え、母の遺体を火葬する準備をしました。シャンカラは、親戚に手伝いを依頼しましたが、彼らは協力を拒みました。なぜなら、隠遁者であるシャンカラには、生家のしきいをまたぐことは許されず、まして母の葬儀を行うなんてとんでもないと考えられていたからです。仕方なくシャンカラは一人で母の遺体を置く壇を作り、マントラを唱えながら遺体に水を振りまいてから燃やし灰にしました。

シャンカラは弟子たちと再び布教の旅に出、重要な都市・寺院・文化の中心地を残らず訪れました。宇宙万有に浸透する真理を認識した高い識見により、シャンカラは一見して異なるように見える習慣・伝統・ 礼拝形式は本質的にはひとつであるという真理を人々に伝えることに成功しました。このようにして、シ ャンカラと弟子たちは、インド国中いたるところに、無知と分裂を根絶し、普遍的な同胞愛と相互援助という合一性を確立し、まさに勝利の旅を続けました。シャンカラは、『どの道を選ぼうとも、究極の目的地 は不二一元の絶対実在を直接体験することである』と教えました。シャンカラと弟子はネパールのパシュ パティナートへ進み、さらにバドリカシュラムから、ケダルナートに着きました。

シャンカラはこの時32歳で、肉体を離れる時が近づいていました。彼は神聖なケダルナートの地で肉体を捨てたいと願いました。その時、シャンカラは弟子たちに「疑問があるのなら、今のうちに尋ねるように。」と言いましたが、誰ひとり言葉を発するものはいませんでした。

その場にいた国王スダンヴァは、師から弟子へと不滅の英知を伝えさせるための学舎をインドの4ヶ所に建て、シャンカラの弟子であるパドマパダ・スレーシュワラ・ハスタアマラカ・トタカに、それぞれ学長になってもらうよう懇願しました。 シャンカラは、西のドワラカにカリカマットを建て、ハスタアマラカ(溺死した子供を悲しむ両親のために、息子の体に入り、白痴として蘇らせた弟子)に託しました。東のジャガンナートプリーにゴーヴァル ダナマットを建て、パドマパダ(カシで弟子入りを志願した信愛深い弟子)に託しました。南のシュリンゲーリーにサラダマットを建て、スレーシュワラ(かつて儀式偏重主義者でシャンカラと論戦した弟子) に託しました。北の聖地バドリナートから 30mのジョーティルダムにジョーティルマットを建て、トタカ (正規教育を受けていなかったが神の恩寵により英知を授けられる)に託しました。シャンカラは、それぞれの学舎の規定を口述しました。

その後、弟子たちは、シャンカラの輝くお顔を見守りつつ静寂に浸っていました。国王スダンヴァが沈黙を破り、シャンカラに「すべてのヴェーダーンタの教えの真髄と、熟考すべき点について、助言を求めたい。」と尋ねました。シャンカラは、かつて彼が師に初めて会ったときに歌った10の詩を教え、この詩の意味を熟考するならば、すべてのヴェーダーンタの教えを理解できる。」 と語りました。彼らは高められた気分になり、深い瞑想に入りました。シャンカラもまた、深い三昧に入 り、ヨーガの力で自分の肉体を五大元素にとかし、物質界の視野から自分の姿すべてを消しました。シャンカラは本来そうであった完全な至福の況位に帰融しました。

愛と優しさをいっぱいありがとうございます!