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13年

【療養日記2024 3月11日(月)☀️】

 東日本大震災から今日で13年。13年か。もうそんなに経ったんだなと思う反面、それまでの事を思い返せばやっぱり長い。とてつもない時間がそこにあってそれが現実味を取り戻すのにちょっとだけ時間を要する。

 あの日、職員室で年間成績の集計をしていた。これまでの評価材料をパソコンに入力し、あと少しで完成するところだった。数日前に卒業した3年生が呼びもしないのにやって来て勝手に校内をうろついていて、それに職員が数名対応していたが僕はそれどころではなくとにかく成績の集計を急いでいた。

 周りの同僚の数人が

🐸あれ、揺れてる?

 と騒ぎ出したかと思うとやや強めの揺れが始まった。自分は一旦PCの画面から離した視線を再び戻し、揺れている中で再び作業を始めた。揺れがしつこいなと思った瞬間、廊下の電気が消えてすぐにPCの画面が暗くなった。その時のことを考えると何してくれてんだよと腹が立ったがその後すぐ、

🐼外に逃げろ 

 と誰かが言い出して慌てて外に逃げ出した。校内は帰りの学活も終わり帰宅する生徒とこれから部活を始める生徒が一斉に校庭に避難をしているところ。まずは生徒を校庭へ誘導したあと、校舎内を巡回して残っている生徒に急いで校庭に避難する様に呼びかけた。

 その時の職場は本牧にあり目の前は工業地帯。窓から外を見るとあちこちから黒煙が立ち上り、炎が勢いよく立っているのも見えた。目の前で大爆発があったらたまったものではない。これを見て事の重大さを改めて知った思いだ。

 揺れは相変わらず止まらず、グラウンドに戻ると取り敢えず自分の見てきたことを他の同僚にも報告して生徒には落ち着くように声かけをした。

 当時はまだスマホなんてものは一般的ではなかったが僕は携帯とPHSの両方が使え、インターネットのブラウズもできる端末を持っていたので校内でも一番早い情報を得られた。

 校庭に生徒たちを退避をさせている段階で震源地、主な地域の震度と津波警報が発令されたことも掌握できていたので同僚とその場にいる生徒達にも見たままの事を伝えるように心がけた。

 当時は存在したハイブリッド端末はこんな災害の時は大いに役立った。とりあえず情報をいち早く捉えて他の人とも共有できたからた。しかし今となって思い返すとその情報が正しいのかどうかまで気が回らなかったと思う。

 その間にも揺れが激しくなると生徒たちは悲鳴を上げ、呼んでもないのにやって来た卒業生連中はすっかり腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。起震車で体験した通り立っていられない状態だった。

 そこに受け持ちの柔道部の1年生の生徒がやって来た。彼は日頃から態度が大きくていわゆる「やんちゃ」な部類の子。身長も180㎝を超えていていかにも柔道部員。僕を見下ろすとしおらしくひと言、

🥋先生、僕のおばあちゃんが岩手県で海のすぐ近くに住んでるんです。大丈夫かな。

と訊いてきた。話し口調でかなり不安なのが良くわかる。平時ならもっと口の利き方か横柄になるはずた。

💩それは心配だね。岩手のどこなの。

🥋山田ってところです。知ってますか?

💩山田は心配だね。すごく揺れたと思うな。海の横だもんな。

 山田は三陸の町で本当に海沿いだ。しかし自分の記憶が間違っていなかったら山田は深い入り江に面した町なので津浪も届きにくいんじゃないかと思った。学生の時に宮古にあるキャンプ場に住み込みで働いていて山田にも行ったことがあった。

💩でも山田は入江が深いから津波が来る前に逃げていればきっと大丈夫だよ。

🥋おばあちゃんが心配だよ。

💩大丈夫だよ、こんなでっかい地震なんだし、絶対に逃げなければダメだって思ってるはずだから。逃げていれば大丈夫。

 このように口から出まかせでもとにかく不安を取り除くことが大切だと思った。

 そんな間にも揺れは強まったり弱まったりを繰り返し、身長180㎝を超える生徒もふらついていた。

💩ほら、立っていられないだろうからここにしゃがんで揺れが収まるのを待っていよう。

 自分も一緒にしゃがみ込んで揺れがおさまるのをじっと待っていた。携帯端末でネットを見ると横浜は震度5強だった。本震は2分程だったらしいが、その後も立て続けに揺れていたはずである。地震の震度も4くらいならこれまでに何度か経験があるが、震度5弱ともなるとこうなのかな、しかし起震車に乗ったときはもっと激しかったような、これで震度5強でいいのかな、などと疑問を抱きながらも揺れの収まるのをじっと待っているしかなかった。

 震源地付近の津波も気にはなるが何より自分のいる場所も津波の危険があるのではと気にはなった。本牧は東京湾の内側だと云うことを思い出し。ここまでは来るまいと高をくくっていたところもある。こういうのを正常化バイアスって云うのだろう。

 この時点では津波被害と言えば北海道南西沖地震で奥尻島の集落が一瞬にして消えただの、秋田県沖地震で幼稚園児が流されただの、局地的な被害の例しか思い出せなかったのだ。

 やがて地震がおさまると全校生徒の点呼を取り無事を確認すると各地域グルーブ毎に別れて集団下校。職員はそれぞれの担当地域へ同伴して最後の一人が帰宅するのを見届けたら学校に戻るよう指示された。この時の自分の担当は比較的海の近くの住宅地。このグループは集団下校の際最後に集まる場所が決められていてそこまで行くとそこで最終点呼をし人数確認するとその場で解散をした。

 その最終地点に向かう際にも植木鉢が落ちて割れていたり、壊れた窓ガラスや立てかけていた棒などが散乱している家を何軒も見かけた。ちょっと視線を遠くに移すと工業地帯のあちこちから黒煙が立ち上っていて生きた心地はしなかった。あの中のどれかが爆発でもしたらただでは済まないはずだ。

 最終地点で無事解散。一息ついて気がついたことは職員室から飛び出したのでサンダル履きだったこと。この地震を境に楽ではあるがサンダル履きはしなくなった。

 ひとまず自分のグループが無事解散できた事を報告しようと携帯電話を出しても使えず、先ほどのハイブリッド電話のPHSは回線が使えたので学校に電話をするも先方が断線しているようで繋がらなかった。

 帰り道も住宅地からラジオのニュースが流れてくるのを聞いていた。思った以上に地震は激しく、宮城県や岩手県では建物や家が倒壊したというニュースや津波がやって来るという話まで忙しく伝えていた。全てが止まった、そんな気がした。

 学校に戻って下校の報告をすると勤務している学校は指定避難所になっていないので各自5時になったら退勤して良いと聞かされる。その後帰る方向が同じ者同士グループになり車で来た人はできるだけ他の職員を乗せて帰ることにして解散。僕も方向が同じ人の車に乗せてもらったがそこもかしこも渋滞してとにかく時間がかかった。

 帰宅中妻のことが心配で何度となく電話をかけてみたがつながらない。家のわんこも実家に住む母も心配だったがどうにもならなかった。実家にPHSで電話をかけてみたが応答がない。全てが突然孤立してしまった気分だった。しかしこれが携帯電話の普及する前のもともとの生活でもあったことを思い出す。

 併走する高速道路は大渋滞。上りも下りもどうにもならないほどだったが後で思えばあれは高速道路を通行中に地震に遭ってそのまま下りられなくなった車の列だったのだ。すぐ横の工業地帯が大火事でその上誰とも連絡がつかずさぞかし心細かっただろう。

 2時間以上かかってようやく家の最寄りの駅まで到着、同乗した人達のことを考えるとここまで乗せてもらっただけでもありがたく、そこより先、普段ならバスに乗る区間は歩いて帰ることに。

 駅前も混乱し列車の再開を待つ人、つながらない携帯電話を耳に当てながら狼狽える人、とにかく何も彼もが非日常だった。

 駅から歩いて帰る途中も歩道には大勢の人たちが帰路を急ぎ、みんな同じ方向に向かって携帯電話を耳に当てながら足早に歩いていた。道沿いのおそば屋さんは

🍙トイレ使えますよ。どうぞご利用ください。

 と道行く人に声をかけていた。この地震でいち早く停電になりトイレが使えなくなったと言う人もいたはずだ。率先して人を助けようと必死になっている姿には感激した。それに較べて自分は家のわんこと家族が心配なばかりに他人を顧みることすらできなくなっていた。

 その先にあった電話ボックスで実家に電話をし、母親には無事を伝えることができた。それだけでもかなり安心できたし、母も安心できたはずだ。

 なんとか家に着くとまずはわんこにご飯をあげ、その後のことはあまり覚えていない。妻から携帯にメッセージが入っていて、どうやら新横浜から和田町方面に向かい、そのまま相鉄沿線を歩いているようだ。

 それから数時間後妻から電話があり、二俣川まで歩いたところで相鉄線が運行再開したらしくこれから湘南台行きの電車が再開したら乗るという事だった。

 ゆめが丘駅で降りてすぐ近くにある地下鉄の下飯田駅まで行くように指示し、車で迎えに行く。時間は何時だったか定かではないが、だいぶ遅い時間だったと思う。車のラジオからは地震関連のニュース一色だったがその中で突然福島にある原発が現在停止状態だが原子炉の温度が上昇して危険な状態に陥っているという一報が入ってきた。それがその後どんなことになるのかその時にはまだ全然想像ができなかった。

 この日だけを振り返れば地震と津波のことで情報は溢れかえり、その上まだ被害の全容なんてものは到底つかめるものではなかった。炎上する気仙沼の映像を見て本当に色んな事が突然起きてしまったことに愕然とする。そして原発の原子炉がコントロール不能で怖いことになっているニュースが飛び込んで来て一日が終わった。

 妻は地震直後から帰宅をはじめ、会社の同僚と一緒に新横浜から片倉町、和田町まで行き相鉄沿いに二俣川まで歩いたらしい。そこからいずみ野線でゆめが丘まで行き、なんとか帰宅困難者にならずに済んだようだ。

 しかしその翌日地震だけでは済まないことが起こってしまう。コイツさえなければもう少し東日本大震災は受け取り方も変わったと思う。全くもって最悪最低の事態に陥ったのは一つは地震という天災、もう一方に原発という人災のハイブリッド災害が起きたからだと思う。

 翌3月12日は休校となり出勤する必要はなかったが出勤した。苦労して入力していた成績データはまったく残っておらず、一からのやり直しをした。何をしたかなどあまり覚えていないが、さっさと成績の集計をして早めに退勤した。

 翌週月曜日、おばあちゃんが山田にいる柔道部員の生徒が僕の所にやって来て、嬉しそうに僕を見下ろしながら、

🥋先生、おばあちゃん無事だったよ。地震のあとすぐに逃げていたって。

 と、嬉しそうに報告してくれた。どん底の中久しぶりに嬉しいニュースを聞いた、そんな気分だった■



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