お遍路ウォーキング日記(253:八十四番屋島寺へ ⑤)
【2024年9月14日(土曜日) Day 253】
夕方わんこの散歩に出掛けて5,000歩程は歩いたが、今日は早朝から厭になるほどの暑さで家の外には出られないなと諦めるくらいだった。
幸い夕方は気温が下がったのと、少し風が強かった為に外に出られたが、日中はまさに避難生活みたいな気分だ。今日も真夏日が観測され、もっとも遅い真夏日の記録も更新されたらしい。
さて、今日も札所は打てなかったのて昨日予告したとおり今日はお遍路の「お札」について書こうと思う。
とは言っても少し前に巡礼の回数とお札の色、そしてお札泥棒については書いた。今日はもっとお遍路目線で見たお札の話。
お札(納経札)は自分がそのお寺のお詣りをした証しとして寺に納める。かつては木札をお堂の柱に打ちつけたことからお寺をお詣りすることを「打つ」と言うようになった。
これは四国霊場でなくても、全国の神社や仏閣で普通に見られる「千社札」と同じものだ。今は木札を打ちつけるのは勿論、千社札も嫌われる。昔の千社札は和紙に墨で書かれた物、またはインクで印刷されたものを糊で貼り付けた。そして貼り付けられた千社札はインクや墨だけが最終的には柱に残ったらしいが今はそうでもなさそうだ。
お遍路の納経札は納経入と書かれた箱がお堂の賽銭箱などの横に設置されているので通常はそこに納める。この納経箱が札所によっても違う。何が違うかというと大抵の納経箱はみなうろこ模様のステンレスで変わりはないが、札所によっていつも空に近い状態を保っているか、その逆にもう溢れそうになっているかの違いがある。
それはおそらく頻繁にお札を取り出して別の場所に保管をするか、箱がいっぱいになったら取り出すかだけの違いだ。ちなみに収められたお札は年に一度札上げといってお焚きあげされる。
お寺によってはその中の金札や錦札はお焚きあげにせずお札そのものが貴重で御利益もあると言われることから他のお遍路への接待にも用いられる事もある。我が家も錦札を四枚お接待で頂いている。
そもそもどうして「納経」札というのか、それは昔は写経をお寺に納めていたからだ。ところが四国八十八箇所の場合は一カ所で二つ納めなければならず、その数も多くなり持ち運べない事から写経を納めるのは少数派となり、大多数は札所で読経をするようになった。どちらも同じ事で写経を納める代わりに読経をし、お札を納めるためにお経を納める意味で「納経」という名前なのだ。
この納経札には名前、所在(市町村くらいまで)、日付(年月+吉日)と願い事を書いておく。何も書かずにお札を収めたらそれはちょっと勿体ないような気もする。中には手練れた者もいてあの小さなお札の裏面にお経を書く人もいる。勿論その場合には読経は必要としない。
自分はお札の裏面には昔から
日々平穏で皆が幸せに
と書いている。
ところでこのお札も最低176枚は必要だし、お接待を受けたときにもお礼の代わりにお札を渡す。その時に何も書いていないのは個人的な感覚ではあるけど失礼かなと思う。
この凡そ200枚ほどのお札だって最初から全部書く人はいないと思う。相当な手間になるし中には月をまたいで巡礼をする人もいる。なので手元にはだいたい10枚ほどの「完成品」を持っておいて、お札入れか経本に挟んでおくのが普通だと思う。経本は読経の度に使う(空で読経ができても経本は手にするというマナーがある)ので使い勝手も良い。
それでもたまにお札を納めようとしたら切れていたなどということもあり、お堂の前でお札を書くなんてことをやってしまう。
お札はたいていその日の夜のうちに翌日何ヶ寺打つか予想をして書いておく。バイク遍路時代は野宿がメインだったのでお札というと東屋で書くものという印象がいまだにある。四万十川沿いの蒸し暑い東屋、川之江の山奥で満月が見える東屋、色んな場所でお札を書いた事は今になると良い思い出でもある。
四度目の結願が終わり、お札の色が変わったときには感無量だった。しかし五巡目から新たな悩みも生じ、色の付いたお札は書き込みがしにくい事に気がついた。お札の紙質や色の濃さ等手に取って見る必要が生じる。最たる例は筆ペンのインクが乗りにくく乾かずにはじかれてしまうお札が意外と多い。白札の時にはない悩みだ。
こうしてお札一つとっても色んな話ができる、というよりはお札だから色んな話ができるのだろう。
さて明日もし札所が打てなかったら今度はそうね、金剛杖について書こうかなと思う■