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療養日記 2022年12月26日 『恩師』

 僕には本当に師と呼べる人は一人しかいない。いろんな人にいろんな事を少しずつ教わり、人間関係を築いては来たが恩師と呼べる人は一人だ。中学高校と素晴らしい先生には出会ったがそんな先生たちをも凌駕する存在が一人いて、その先生こそが自分の師であると思っている。

 そんな大切な恩師が昨日亡くなった。それも病気だの老衰ではなく、交通事故で亡くなってしまった。それを知ったのは今日のニュースだった。

 事細かに恩師の華々しい経歴を書こうとは思っていないが、ある年代以上の人で受験勉強の経験のある人には結構知られたラジオ講座の先生だった。同じ頃僕は大学で先生のゼミに所属して先生のもとで言語学と音声学を専攻していた。正直言って僕はラジオ講座は聴いていなかったし、ゼミでの先生は愛想のよいラジオ講座の先生ではなく、まさに阿修羅そのものだった。

 今日もツイッターのキーワードを検索すると夥しい数のツイートがヒットして、高校生の頃、受験生の頃お世話になりましただとか、あんなに楽しいラジオ講座はなかったなどと言ったような書き込みが多数寄せられていた。その中には僕が知っている先生のイメージはなかった。

 多くの受験生に慕われ、多くの受験生を支えて合格へと導いたんだなと今日の書き込みを見てもわかる。ある人は先生に憧れて母校の明治学院大学へ、またある人は東京六大学はじめとする名門大学へ、そして一部は先生が教鞭を取る関東学院大学へ行き僕の先輩や後輩、他学部に学籍を持つようになった人もいた。人生の青春真っ只中の苦しい試練をひとときの楽しくて役に立つトークで癒されたという人がたくさんいたのだ。

 今日は何を書いたらいいのかわからない。でもきっとラジオ講座を聴いた人達には想像できないようなもう一つの顔の話になってしまうのでそれはやめておく。

 先生のゼミは学内でもエリート集団だったが、そんな中に僕のような人間がなぜいるのか先生と飲んだ時に訊いてみたことがある。その時に、

あのさ、男はみんな拒まないんだよ。男はゼミのために働いてもらう事も多いし、ゼミを盛り立ててくれる貴重な存在なんだよ…英語できなくてもね。英語はダメでもあんな絵を描いてくれる。(ゼミの沖縄研修記録の美術担当をしていた)他に誰もできないだろ、だからな陽一(僕の名前)、陽一がゼミのために働いてくれてありがたいと思ってるんだよ。

 男女比2:8の英文科の中では男子は貴重な存在だったわけだ。

 しかし先生はそう言っておられたがやっぱり男子だってかなり絞って選ばれたのは知っている。ゼミ選考の時に男子の不合格者も結構いた。

 その後卒業をしても大学事務やらないかと声をかけられたり、大学院で勉強しないかと声をかけられ1年間聴講をしたり、付属高校で働かないかと声をかけられ5年以上も働いた事もあった。僕にとっては先生から何を学んでどう活かしているのか定かでもないのに、先生からは色々と世話をしてもらった。他のゼミ生とも違ってゼミに在籍した期間よりもずっと長い間先生にはお世話になった。そして声をかけられる時はいつだって下の名前呼び捨てだった。

 今でも英語はそんなに上手には話せない。しかしながら発音には自信がある。これは全て先生に叩き込まれたものである。この英語で学校の英語の授業ができたのも先生のおかげだった。その恩は一生忘れられない。英語を日本人っぽく下手くそに発音できなくなったのは先生のおかげだ。

 今年も先生には年賀状を書いて投函した。それももう見てはもらえない事を思うと残念でならない。どうして、なぜという気持ちが募るがそれを今ここで問うてももうどうにもならない。終わりが交通事故というのはキツイものだ。それも横断歩道を渡る時に車が止まってくれて渡り出したら止まった車が追突されてそのはずみで轢かれてしまったというのだからやるせなさ過ぎる。

 今日1日だけでも何回涙が出てきたかわからない。ゼミの仲間の中には厳しすぎて卒業後には疎遠になったなんて仲間も多いが、僕はいろんな場面でお世話になって可愛がってもらった。

 今日は先生がこよなく愛した「五番街のマリーへ」を聴いて思い出に耽るしかする事がない■


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