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お遍路ウォーキング日記(138:四十四番大寶寺へ)

【2024年5月22日(水曜日) Day 138】


 今日は札所四十三番明石寺を打った。この明石寺から次の札所の四十四番大寶寺だいほうじまでの距離は四国八十八ヶ所中で三番目に長く、約70㎞ほど(車は78㎞。霊場会HPによる)の長距離だ。

 まずこのアプリ「お遍路ウォーキング」に設定されている遍路道だと内子までは国道56号線、そこから先は国道379号線を進む。この間ほぼ東に進路をとる。国道379号は国道380号と分岐をすると進路を北にして最終的には砥部町経由で松山に出る。この国道が県道42号線と分岐するところで今度は県道42号線に入り久万高原町方面へ向かう。

 こう書けば簡単だが途中にはGoogle Mapsも対応していない場所を通り何日かは現在地不明となる地点がある。

 文化庁が発行した歩き遍路道マップでも内子までは国道沿いを歩き、その先はいくつかのルートに別れる。先ほどの国道380号線を辿るいわゆる「真弓峠越え」(車のルート)や県道42号線を行く「下狩場峠越え」、真弓峠手前から県道42号線の三島神社へ向かう「畑峠はたのとう越え」と数通りの道がある。


 今日打った札所四十三番明石寺について簡単に書く。この寺の寺伝では六世紀に欽明天皇の勅命を受けた清澄上人がもともと開かれていたこの地に唐から来た千手観世音菩薩を祀るために建てたのが始まりと言われている。これが誠の話だとしたら奈良の法隆寺よりも前に建てられていたこととなる。

 その後役小角えんのおづの(呪術者)の末裔である行者により熊野の十二者権現を分霊してこの地に12の坊を建てて修験の拠点としたが荒廃。それを再興させたのが弘法であったと言われている。

 その後源頼朝がこの寺に阿弥陀堂を建てその他の堂宇も再建させ、山号を源光山と改めた。そのためこの寺は源氏との繋がりが深いとも言われている。その後廃寺の危機を迎えるも何とか復興をし、修験者や時の藩主などの手によって再興を繰り返している。

 明治の神仏分離の時に十二者権現は明石寺とは切り離され同敷地に柵を立てて分けられてしまった。

この寺はもともとは「あげいし寺」と呼ばれていたが今は漢字の音読みで呼ばれている。地元の人は親しみを込めて「あげいしさん」と呼ぶ。

 こういった寺伝などを調べ、また実際に観て触れたときのことを思い出すとこのお寺は本当に六世紀からあったに違いないと思ってしまうものである。

 今日から札所四十四番大寶寺への長い旅が始まる。次のお寺を打つのはおそらく来月の話になるのではないだろうか■


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