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アートと本とコーヒーと:濃いめの昭和

おこもり生活を少しでもいい気分にしたいと思い、久しく足を向けていなかった、サードウェーブ的なコーヒー店へ。「どんな豆がお好みですか?」と店主。「深煎りの濃くて苦味のある豆が……」「あっ、そういうのないですね」「……、ごめんなさい、昭和の人間のせいか、そういうのが好きで」と、自虐的な苦笑いとともに、テイクアウトのアイスオレを買って帰宅しました。

そういえば、仕事で色校正をするときも、写真に「もっと、クリアに、濃度アップ」などつい赤字を入れてたっけ。

たくさんの良いものおもしろいものが溢れるなかで、どすんと振動とともにわたしの中に入ってくるものは、特徴の強い濃いもの。これって、昭和の痕跡なの?とつらつら考えた今週末、偶然、通りかかったのが『没後30年 倉俣史朗』展です。

倉俣史朗は、1960年代半ばから店舗、家具、プロダクツまで幅広く手掛けてきたデザイナー。写真上、手前は1989年の作品、飾り棚。奥のソファは、1982年の作品。写真下、赤いキャビネは1970年の作品です。

急逝されてもう30年経つのかという思いとともに、同時代を生きていながら、活躍の全盛期をリアルに実感しなかったことが悔やまれ、かつての展覧会の図録(『倉俣史朗の世界』企画原美術館)を求めました。

学生の頃に足を運んだファッションビルや大学の近くにあった憧れのレストランが倉俣の仕事だったことや、アクリルに赤い薔薇が浮遊する椅子や引き出しの家具と名付けられたソファといった作品に、いまさらながら、衝撃を受けました。

日本が高度経済成長の真っただ中だったからこそ、商業的な空間であれ、作品であれ、ジャンルを超えて、自在に羽を広げ、創造を追求できる時代だったのかなあ……などと中途半端な解釈を巡らせていたら、磯崎新氏が寄せた下のような文章を見つけました。



あの頃、東京はまるで戦場だった。平和という時代の戦場は、敵が見えない。<中略>その平和の時代はバブル経済期といま呼ばれている。東京は奇妙なうなり声をあげて衣替えをやろうとしていた。<中略>インテリアの仕事は消えていくんだよ、ともいった。消えることを覚悟の上で、もしくは消えていく、そのことを目的として、君はデザインした
地上げ屋があおった金ピカの成金趣味のデザインは、みるみる色褪せていった。そんな死骸のなかで、シロー、君のやったデザインだけが発光を続けている。微光といったらいいか、あやしい光なのだ。

小枝の時計、煮干し・蝶・てんとう虫の5本針の時計、硝子の椅子、光の棚……、いまも、発光を続ける倉俣作品には、昭和的な濃密さのなかに繊細さと物語性を感じます。

わかりやすい個性や特徴にだけとらわれず、繊細な差異や個々の物語に目を向けること。もしかしたら……こういうところに、持続可能で、よりやさしいものを生み出すヒントがあるのかもしれないなあ。

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