これぐらいのことで

2013年 上村明佳里(仮名)
#PTSD

その封筒は、今秋も上村明佳里の元に届いた。明佳里の母はそれが明佳里の所属する社会人サークルの会報誌で、毎号娘が楽しみに読んでいることを知っている。だから、出勤前であっても他の郵便物と混ざらぬように、わざわざ声をかける。

「今日は遅くなるからね。勝手に食べてて。それと、あんたに来ていたわよ、封筒」

一瞬、明佳里の顔が強張った気がしたが、もう時間がない。就活後の疲れからか、このところ、娘の体調不調が続いていることが気になりつつも、ステンレス製のドアを押し開ける。

バタンという音とともに、明佳里は一瞬、我に返り、ガタガタと震え始めた。あんなに毎号誇らしい気分で心待ちにしていた萌黄色の封筒も、今は青カビが生えているような、禍々しい物体に見える。しかし、生来の几帳面さから一応封を切り、回覧を試みるが「支部長、決定!」の下に見えた見慣れた顔が見えた瞬間、あのときの手の感触が股を駆け上がる。

吐き気を催し、トイレへと駆け込む。最後の理性で、このまま吐くか、我慢して横になるか一瞬悩むが、今日は5日ぶりに外出する予定がある、少しは持ち直さなければいけない。

昨日の晩も吐いたから、あとは吐けるものなんて、苦酸っぱい胃液しかない。それでも、外出先で吐くわけにはいかないので、やむを得ない。胃液と気力を便器に流す。酸っぱい匂いのする冷たい床に座り込みつつ、「あの日の記憶事、吐き出して流せればいいのに」と、明佳里は心の底から願う。なけなしの力を振り絞って立ち上がり、ノロノロと玄関ドアを出る。

待ち合わせ場所は一見小綺麗だが、トイレの芳香剤の香りがした。
「お疲れ様―。しんどいのにありがとうね」
「いえ、こちらこそ・・・お忙しい中、本当にごめんなさい。」
顔を上げると、社会人サークルの先輩、多川さんが立っていた。

手近なカラオケボックスに向かう間は、どちらも話さなかった。
「本当に大変な目にあったよね、ジュースとお茶どっちがいい?」
「あ・・・私が」
明佳里を制して、多川さんがドリンクバーへ向かう。
戻った多川さんは淡々と話し始める。

「上村さんにいたずらした人たちだけど、今はこんなことをいっているわ」と紙切れをみせてくれた。

「ズエさんの話を牧さんが聞いてくれての、まとめた。その場にいたもうひとりは、真っ青になってその場でサークルをやめます、と言ってたわ。」

明佳里はズエさんの顔を思い出して、あのときの手触りがゾゾゾと湧き上がってくる。それでなく、首への締付け感を苦しいほど感じる。存在はしない股を突く、ぬるっとした生臭い痛みも感じる。

「真っ青だけど、大丈夫?」
「あ、はい、時間おけば、たぶん」
「そう・・・本当に残念だけど、サークルとしてはここまでしかできないの。知り合いの弁護士に相談したけど、ハラスメントになるかもしれないけど、サークルの責任では問えないって。だから、上村さんの為にも、この件はここまでにしましょう。」
「・・・ここまでありがとうございました」
「フリータイムのお金、ここにおいておくね」

カラオケの扉が閉まると、明佳里は席に倒れ込んだ。

これぐらいのこと?ちょっとしたユーモアが伝わらなかったぐらいのこと。そうきっとズエさんにはこれぐらいのことなのだ。でも、これぐらいのことは明佳里を、黒い記憶の塊に取り込むのに十分な量だった。

夏の蝉が姦しい蜃気楼の上で、声をかけられる。道案内をする。人気のない場所に連れ込まれる。服の間に手と舌と、ズボンの中へ生臭いものを押入れられる。首を締められる。泣きじゃくる自分の声とそれをかき消す笑い声が聞こえるが、苦しさの中で、意識が遠のいてくると、姦しい蝉の音が聞こえ、また同じ人に声をかけられる。
カラオケの呼び出し音で、我に帰った。そうか、ここはカラオケだった。どれぐらい、ここで眠っていたのだろうか。時計を見ると、フリータイムはあと5分で終わる。涙で濡れたソファを簡単に拭き上げて、明佳里は部屋をでる。

フラッシュバックの事後処理は慣れている。あの日からに事件の記憶を生生しくループと、ずっと明佳里は付き合ってきたからだ。些細なことをトリガーとして、黒い塊はあっという間に明佳里を包んでしまう。
日常生活を著しく阻害するそれを乗り越えるため、バイトで治療費を貯め、隠れてカウンセリングに通ってきた。「終わった」事件に、振り回される自分の弱さを恥じながら、それでも大学の卒業と就職だけを目指して、必死に積み重ねてきた。それが今回のことで、すべて崩れた。薬でセーブできていた過去の事件のフラッシュバックも再発した。カウンセリングで抑えていた男性への恐怖心も、以前に戻ってしまった。また数年間は女性専用車両しか乗れないだろう。

明佳里が血をにじむような思いで積み上げていた自己効力感は、賽の河原であっけなく、くずれちった。何度、この終わらぬ徒労を繰り返さねばならないのだろう。

「俺、こんなことで辞めさせられそうなんだけど。ちょっと大げさすぎない?」
「えー、ひどい。たかがお酒の席でしょ」
「その女性会員にも、隙があったんじゃないの」

そういう会話が、ズエさんの周辺の秘密のFacebookグループでなされていることは聞いている。希望した会員が入れるそれは以前明佳里も入っていたが、知らないうちにグループからブロックされてしまった。明佳里を当事者だと知らない周りから、内容だけはよく届く。

これもあのときと同じだ。警察の人は誰にも言わないと言ったのに、次の日には町内で、「不審者情報」の張り紙が貼られ、クラスでは「犯人探し」がはじまった。あのときは被害者として「特定」は免れたが、今回はズエさんが明佳里自身の名前を匂わせているらしい。

もう、限界だな。
楽しい思い出のほうがよっぽど多かった、素敵な先輩方にはこれからも会いたかった。
でも、もうここにはいられない。治療費を少しでも捻出するためには、サークルの更新料すら惜しかった。明佳里はサークルの退会ボタンを押したのは、椿の首が落ちた頃だった。

内定していた会社の路線には女性専用車両がなく、一般車両で試しに通ったら、朝から救護室に運ばれ、話し合いの末、内定を辞退することにした。それからは自宅近くの短時間バイトと通院を優先し、それ以外は家に籠もる。

明佳里は賽の河原で石を積み上げては壊されるような心境で、淡々と日々を過ごした。
蝉の声をきっかけとした発作が起きなくなるまで、蝉が土から上がるように7年が、本当に過ぎた。

「あれ?」

郵便受けからよい香りがしたと思ったら、金木犀の花が手紙の間に混じっていた。豊かな秋の香りだ。明佳里は階段を登りながら、郵便物の選別を行う。そろそろ結婚式の出欠ハガキが戻ってきて良い頃だ。
サークルで出会い、いきなり消息をたった明佳里を心配し、マメに連絡をとってくれた敏史とは、付き合って3年が経つ。共通の友人も多いので、見知った名前が多い。
明佳里側の客人と、敏史側の客人を仕分けつつ、まだ返答がない幾人かを思い浮かべつつ、封を切る。

「あー、多川さんきてくれるんだ」と久しぶりの名前に頬が緩む。出欠ハガキに混じって、久しぶりに萌葱色のそれが、明佳里の前に現れた。敏史はしばらく通っていないはずだが、会費だけは収め続けているらしい。

「開けていい?」
「いいよー。振込用紙だけ抜いて、捨てといて」

彼は中身に興味がないらしい。封を切ると「理事決定!」というでかでかした文字の下に、ゾエさんの張り付いた笑顔が見える。一瞬身がすくみそうになる自分に気づき、明佳里は大きく3回息を吐く。大丈夫、大丈夫、あの頃の私と今の私は違うから・・・と自分に言い聞かせる。

あの頃持っていなかったものを明佳里はゆっくり数える。内定がなくなったあとに拾ってくれた今のボス、3年続いている今の仕事、かけがえない今のパートナー、そして、2人で少しずつ作り上げた、今のこの部屋。荒くなった呼吸を落ち着かさせるため、部屋を見渡すと、ぴったりのものが見つかった。「在宅勤務が始まったら情報管理が大切だから」とあのとき半ば押し切って、セール品のシュレッダーを買った自分を、褒めてあげたいと明佳里は思う。

久しぶりにコンセントを指し、運転ボタンを押すと、キンキンキンという刃を回す控えめな始動音がした。その中に会報誌を躊躇なく、差し込むと、パリパリという音のともに、あっという間に新しい理事長の顔写真は吸い込まれた。

「今はこれでいい」
明佳里は冷えた自らの肩を抱き、大きく息を吐く。息を吐いた唇が歪んでいることにはさっきから気づいていたが、とにかく大きく、大きく大きく息を吐く。


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