産むかどうかは許可をもらって

2018年残暑 鈴木みさき
#リプロダクティブ・ヘルス・ライツ #学習性無力感

蝉の声がアスファルトから立ち上る熱風を煽っているみたいだ。陽炎に阻まれるように、みさきの足取りは重い。腹に鉛の塊を抱えているように、前屈みになりながら紫外線を一身に受けて引きずるように歩く。赤みのうるさいのぼりが、風に煽られて、みさきのシャツに無遠慮にぶつかってくるが、手で払う余裕などない。

遅い歩みとは裏腹に、脳内では必死に頭を回転させている。何度もまだ変化のない腹をさする。
「うまく伝えなきゃ。じゃないとこの子が・・・」

一昨日産婦人科医から言われた無機質な言葉がリフレインしている。

先月から気分が悪く、念のために使った妊娠検査薬。それが陽性だったから、狐につままれたような気分で、そのまま近所の産婦人科医を訪れた。ぬか喜びになってはいけないので、夫にも、その日産婦人科に行くことは伝えなかった。

型どおりの問診票と薬手帳を窓口でだした。型どおりを検査を終えた後、「・・・妊娠はしていますね」と、しばしの空白を含んだ声で、ちっともめでたくなさそうに、初老の産婦人科医は告げた。

ドラマのように「おめでとうございます」とは言われないんだなと他人のように思っていると、「でも」とかの医者は続ける。

「鈴木さんは精神科を受診して、しかも薬も服用しているんですね」
「うちでは責任持てませんよ」
「産むかどうかは主治医の許可をもらってください」

産婦人科医は目線はカルテから動かさず、ため息とともに一気に言い捨てた。最後まで、彼はみさきの顔は一度もみなかった。

それからずっとあの無機質な言葉が、頭の中では鳴り止まない。「仕方がないんだ」とみさきは自分に言い聞かせる。精神科に通院している自分なんかが、子どもを妊娠したことが間違いだったんだ。どうせ自分には育てられない。そもそも親になるスタートラインにたつことだって、「監察官」のお墨付きが必要なのだ。

精神病患者には何をしでかすか、わからない。ましてや、親になろうとするなんて、自覚が足りない。そう、はっきりと告げられた気がした。

仕方がないのだとみさきは自分にもう一度唱える。中学生の頃起きた大量殺人鬼は、TVや新聞で通っている病院も診療科も、性格の異常性もすべて曝されていた。みさきも彼の病名をよく覚えている。1年前に交付された障害者手帳には、殺人鬼と同じ病名が記されている。みさきはまだその手帳を使ったことはない。

「それでも」とみさきは思う。今はまだ名前もない我が子に会うためには、今日主治医である精神科医の【許可】をもらわなければならない。

「どんな顔をするのだろう」と想像する度に、産んではだめだという許可がもらえない想像ばかりがリピートされ、より現実味を帯びていく。それだけはどうしても避けなければいけない。子どもぐらい、マトモに産まなければ、義実家へ申し訳が立たない。

そのために、自分がすべきことをもう一度反芻する。異常などどこにもないように振る舞う、何を言われても問題ないと笑顔で返せるように振る舞う、ふつうであるふりをするように振る舞う。親になるためには、ともかく自分を偽らなければならない。蝉のかしましい声が頭の中でさらにがんがんと響く。汗が止まらないが、みさきの体は指先から冷えきっている。

そう思っているうちに、病院の入っているビルにみさきは到着する。目当てのかかりつけはこのビルの三階だ。日頃、家に閉じこもっていることも多いから、ここの階段だけは昇ろうといつも思っているが、今日はたった48段の段差を踏みしめる気力がわかない。

「こんなことすら、私にはできないんだ」とエレベーターを乗っている間すらも、みさきは憂鬱になる。扉が開けば、そこはなじみの病院だ。顔なじみの、けれども名前は知らない看護師に、診察券と保険証を手渡し、待合いで順番を待つ。

「鈴木さん、どうぞ」

主治医に導かれ、みさきは診察室に入る。南向きのこの部屋は、背の高い観葉植物や外国をモチーフにした洋画が飾ってある。インテリア雑誌から切り抜かれたようなこの場所が、みさきは嫌いではなかった。しかし、今日は絞首台のように感じる。判決を待つ執行人のようにうなだれた気持ちだ。

「この1週間はいかがでしたか」「眠れていましたか」「ごはんは食べられましたか」「外出はできましたか」等、定型の質問には「はい、いつも通りです」と定型の模範解答で答える。もちろん、「ふつう」にみえるように、笑顔を添えることも忘れないように、みさきは心がける。淡々と進む「いつも通り」に、みさきは焦る。伝えなければならない、伝えて【許可】をもらわなければならない。

「最後に、何か伝えたいことはありますか」
「・・・妊娠したんです」

滑り込ませるように、みさきはか細い声を発する。主治医は一瞬、わずかに目を見開き、即座にほほえみをたたえて答える。

「おめでとうございます」

繰り返した脳内シュミレーションと異なる返答にみさきはたじろぐ。

「・・・おめでたい、ことなんでしょうか。診断を受けた産婦人科では、出産には主治医の許可がいると伺いました。私が精神科に通院していて安定剤を服用しているから」

主治医の顔色が変わる。みさきはこのままではまずいと感じる。

「もちろん、今の自分が不安定で足りないことは私が一番わかっています。親になることや子育てに責任が伴うこともわかっているつもりです。力不足かもしれません。でも・・・できれば・・・」
「先生、この子が産まれる許可を、いただけないでしょうか」

みさきはリピートしてきたせりふを間違えないように、慎重に声にだして、主治医の顔色を伺う。

「許可なんて必要ありません。そもそも、そんな大切な判断を、医者が下せるはずがありません」
「その答えが出せるのは、鈴木さんと、あとは鈴木さんのご主人だけです」
と、主治医はみさきの目を見つめ、穏やかにゆっくりと言い切る。そのときになって、今日ようやく主治医と視線を合わせられたことに、みさきは気づかない。

「鈴木さんご自身が決めることなんです」
「私が決めること・・・でしょうか」
「そうなんです」
「それにしても」と言葉を少し濁しながら主治医はつづける。

「その医者は何を考えているんでしょうか。腹がたつ」

「え、先生のほうが?」とみさきはたじろぐ。想像を超えた返答に、みさきの頭はいったんフリーズするが、かまわずに主治医はさきほどよりも早口で続ける。

「鈴木さん、お薬手帳を見せましたか。ちゃんと薬を調べたら、ぜんぜん重くない処方だとわかるはずなのに!いや、たとえ重かったとしても、その対応はありえません」
「はあ・・・そういうものなんでしょうか」
「そりゃあ、そうですよ。だって、産むのも育てるのも鈴木さんなんですから」
「いや・・・まあ、産婦人科の先生も、たぶんよかれと思って・・・」

主治医のヒートアップに、なんとなくみさきが産婦人科医を擁護する側にたつ。

「出産や子育てには、いろんな制度があります。いろんな病院もあります。使える物はたくさんあります。当院もできる限りのサポートをします。でも、もちろん、鈴木さんがどうしたいかが一番です」と続ける主治医は、いつものにこやかな先生に戻っていた。

「・・・私が産んでもいいのでしょうか」
「もちろんです、でも・・・」
「でも?」
「産むにしても産まないにしても、とりあえず産婦人科を変えてはどうですか。個人的にはそんなこと言う医者は信じられないし、何より気分が悪いじゃないですか」と最後にちょっと不機嫌そうに付け加えることも忘れない。

「一週間、大切な方とよく話して考えてみてください。また来週、鈴木さんがどうしたいかを教えてください」
「とても、大切なことなので。ゆっくり悩んで、選んでいきましょう」

エレベーターを降りて、扉を開けると、ムッとした熱気がみさきの体をつつむ。そうだ、今日は暑い日だったのだと気づき、空を見ると、頭がくらくらした。そういえば、最近ほとんど、ろくな食事をとっていなかった。つわりとなれば、数ヶ月食べれない日々が続くと、第2子を出産したいとこから聞いたこともある。

「食べれるときに食べておくか」

みさきの行く手には吉野家の「土用の丑の日」と書かれた旗がひらめいている。昼食としては豪勢だ。けれど、二人分の精をつけるためなら、うなぎも悪くはないだろう。


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