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『街道をゆく −三浦半島記』

 歴史作家の司馬遼太郎さんが亡くなってから、もうじき30年になります。既に司馬遼太郎さんの足跡やその著作も、歴史上の出来事になりつつあります。
 しかし、最近『街道をゆく−三浦半島記』を読んでいたところ、司馬さんの存在の余韻が感じられました。
 自分は歴史上の人物には、特別な場合を除いて、敬称を付けないにしています。司馬遼太郎さんの場合も、その代表作は自分の生まれる以前に発表されたものが多いので、歴史上の人物のように感じていました。なので基本的には、存命中や最近亡くなった方には、“さん”や敬称をつけますが、司馬遼太郎さんには敬称を略すことにさせて頂こうと思います。

 ただ、『街道をゆく』を読んでいる自分の内面では、歴史の案内人を“司馬さん”と呼んでいました。その存在を時間を越えて感じながら、三浦半島の旅を想像するという、贅沢な読書でした。

 以下、史上の人物含めて敬称を略させて頂きます。

 『街道をゆく』シリーズは、週刊誌の連載ものの紀行文ということもあり、気楽に暇つぶしのつもりで読んでましたが、途中から三浦半島の歴史の面白さに夢中になっていました。

 『街道をゆく−三浦半島記』で、いくつか印象深い歴史エピソードを上げます。
 
 三浦半島の西の付け根は鎌倉です。平安時代末期、この国の歴史は、三浦半島とその周辺の武士の選択に左右されました。

 流罪人の身だった源頼朝が、平家に戦いを挑み石橋山で負けます。伊豆半島方面から三浦半島方面へ、つまり西から東へと逃げる源頼朝。三浦半島の平家側の武士は三浦一族でした。しかし、三浦一族は、平家側の軍勢に加わらず、頼朝側に付くことになります。

 三浦一族の長は、三浦義明という人でした。義明は、三浦党全軍に源頼朝の元へ馳せ参ずるように指示しました。そして、義明ら数人が衣笠城で平家の軍勢と戦い、城ごと焼け落ちてしまいました。

 三浦党はせいぜい百騎ほどでしたが、敗走する源頼朝の兵は十騎ほどしかいなかったそうなので、この上ないくらい心強かったろうと思います。

 自分は、歴史上の偉人として源頼朝の名は知っていました。でも、三浦一族や三浦義明については全然知らなかったです。 

 三浦党が反旗を起こしたところで、強大な平家の勢力は全く揺るがなかったでしょう。それなのになぜ、三浦一族は源氏についたのか。三浦義明の目には未来の何が見えていたのか。一つ言えるのは、普通じゃない選択をする人が歴史上時々現れて、時勢の方向を変えることがあるようです。

 司馬遼太郎は、「三浦姓についての根拠のないむだばなし」として、三浦姓の人物には学芸において出色する人が多い、と述べています。
 その中で、特に興味深かったのは、旧幕府海軍士官の三浦功。彼は、戊辰戦争では五稜郭まで官軍と戦いました。その後、明治政府の海軍に属して、日露戦争時には中将になってました。軍の主流から外れていた三浦功は、沈没船引き揚げの名人で、日露戦争後に多くの船を引きあげたそうです。華形ではないとしても、しっかり己の役割を持っているところが、三浦姓らしいという話でした。

 鎌倉時代の三浦一族といい、明治時代の海軍の三浦功といい、多くの無名の士が歴史をつくっていることを、改めて思い起こされました。
 

 
 

 

 

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