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桂米朝さんの「始末の極意」と「京の茶漬け」

最近、桂米朝さんの「始末の極意」と「京の茶漬け」が好きだ。

どちらも話としては短めでさらりと聞けると思うので、まだ聞いたことがない人はYouTubeかCDでぜひ。


始末の極意

「始末の極意」の『始末』とは、ここでは『倹約』を意味する。

タイトルの通り、ケチな人が如何にお金を使わずに生活するかを語る話となっている。

それも―米朝さんもまくらで言っていたが―落語になるくらいなので並みのケチではない。

常軌を逸したケチなのだ。

それがよく出ているのが「扇子を長く使う方法」について登場人物二人が話すシーン。

一人が「まず扇子を半分だけ広げて5年。5年も使うとさすがにボロボロになるので、次は残り半分に変えてさらに5年、合わせて10年」というと、

もう一人は「それではたった10年しか持たない。私なら贅沢に、扇子をはじめからいっぱいに広げて、顔の方を動かす」。

この問答には痺れた。

「目的を達成できる範囲内で、なるべく消費を抑える」というのが普通の倹約の考え方だ。

食費は抑えたいが食べないわけにはいかないのでなるべく安い食材を買う、とか。

移動の際に2駅程度の距離であれば電車を使わず歩く、とか。

しかし、ここでは「倹約」が扇子で涼むという「目的」よりも優先されてしまっている。

主従が完全に逆転しているのだ。

なるほど、確かにここまでいかなければ落語にはなるまい。

この逆転現象があるからこそ笑いが起きるのだ。


京の茶漬け

「京の茶漬け」は、立川談志さんが著書のなかで評するところの「酢豆腐」と通じる面白さがある噺だと思う。

ケチはケチ、泥棒は泥棒、キザな奴はキザな奴とそれぞれルールを持っていて、また、まわりも、それに徹しているものにたいして敬意を払っている楽しさが落語の世界にはある。これがまたいい。
『酢豆腐』という噺では、通人ぶった若旦那に寄ってたかって、くさった豆腐を食べさせる。やっと、ひと口たべた若旦那に"オイ、食べたよ。やったよ、偉いネ"と最後までキザをとおした若旦那をほめる豊さ。
(中略)
これが落語にはおおいに必要なんだし、これがあるから噺というのは楽しくなるんだとわたしは思う。

立川談志 『現代落語論』

噺のなかでは、帰り際の客人に対する「ちょっとお茶漬けでも」が主題となる。

字面を見るとこれは客人を引き留める文句なわけだが、気持ちとしては本気で引き留めているわけではないし、ましてお茶漬けを出す気などさらさらない。

それでもこのような言葉をかけるのは、客人に対する気遣い、社交辞令の一種と言えるだろう。

これ系の社交辞令に対するもどかしさ、もっというと苛立ちのようなものはよく分かる。

例えば、会社で顔見知りくらいの人と雑談して、別れ際に「今度飲みに行きましょう」とか。

このセリフの後、実際に飲み会がセッティングされる確率をぜひ統計調査してもらいたい。

話が逸れてしまったので元に戻すと、おかみさんのその「ちょっとお茶漬けでも」に反抗しよう、というのが大阪から来た男の魂胆なわけだ。

この噺の面白いところは、男もおかみさんも本音を直接ぶつけないところにある。

両者の言葉のやり取りの裏に腹の探り合いがあり、その二重構造のままサゲまでいく。

男が「出す気がないのだから、『お茶漬けでも』という社交辞令はやめてください」とか、あるいはおかみさんが「そんな社交辞令を真に受けるな」と言ったのでは落語にならない。

談志さんの言う『豊さ』に欠けるのである。

男とおかみさんが最後まで『豊さ』を貫くからこそ、サゲの空の茶碗と空のおひつを突き付け合うシーンで、私は彼らに「あっぱれ」と言いたくなるような清々しさを感じるのだ。

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