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落語「三年目」がしびれる

※この記事は落語「三年目」の魅力を語る記事となっております。重大なネタバレを含みますので、まだ聴いたことがない人は、先に落語をお聴きすることをおすすめします。
落語あらすじ事典 Web千字寄席 さんねんめ【三年目】落語演目

あらすじ

起:

仲の良い夫婦のおかみさんが病床についてしまった。
おかみさんは、自分が死んだあと旦那が後添えをもらうことに耐えられないので、その婚礼の日の夜に化けて出る、という。
旦那の方もかみさんを愛しているため、「後添えは貰わない、万が一もらうことになったら婚礼の晩、必ず出てきてくれ」と、約束した。

承:

おかみさんがなくなって四十九日が過ぎた頃、後添えの話が出てきて、しばらくして婚礼の儀を挙げることになった。
旦那は約束だからと夜寝ずに前のおかみさんが出るのを待っていたが、結局かみさんが現れることはなかった。
どうしたことだろうと思ったが、所詮幽霊なんてものはいないのだと旦那は納得し、新しいおかみさんと新しい家庭を築く。

転:

しかし3年後のある夜ついに、枕元に前のおかみさんの幽霊が現れて恨み言を言う。
「後添えを貰わないと言ったのに、約束が違う」と。

結:

約束を違えたのはそちらだと、旦那が反論すると、おかみさんは3年前、婚礼の晩なぜ出てこなかったのか理由を告げる。
「私が死んだとき、私の頭を剃り上げて坊さんにしたでしょう。そんななりで出てきてはあなたに愛想を尽かされるから髪が伸びるまで待っていました」

※注釈
後添え:後妻のこと
坊さんにした:当時は亡くなった方の髪を納棺前に剃り上げる慣習であった

所感

聴いている側としても、婚礼の晩におくさんが出てこなかったことで、「なぜだろう」と強く引っかかる。
その後の旦那さんと新しい家庭の話が展開されていく間も、どこかもやもやしている。
そのため、前のおかみさんが満を持して現れたときにはこちらの盛り上がりはひとしおだ。
明かされる理由がまた良い。
髪が伸びるのを待っていた。
これはしびれる。
つまり、ここにも落語によくあるズレのユーモアがあるわけだ。

例えば「明烏」の一幕。

(真面目すぎる息子を心配して手を焼く父親に対して)
「子供が道楽者なら心配するし、堅いなら堅いでまた心配をする。親になんざなるもんじゃないね。俺は生涯せがれでいようと思う。せがれができたら、せがれを親にしちまう」

落語「明烏」

子を親にするという、このめちゃくちゃな論理の飛躍に笑ってしまう。
おかみさんもそうだ。
幽霊だから霊的な力がどうこう、仏教がどうこう、というのでは面白くない。
幽霊なのに、出てくるのをためらう理由が坊主頭では恥ずかしいという、ごく人間らしいところに、落語の世界の豊かさを感じる。

見た目を過剰に気にするという人間の性質―業といってもよい―はある種悲劇 ( Tragedy )と言える。
それを幽霊という人間とは異なる存在に付与することで、人間であるわれわれとしては客観視でき、喜劇 ( Comedy )として笑える。
人間の業を愛でる落語としては実に本質を突いた噺だと思う。

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