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疾風(シップ)伝説・2   会社にメールで「退職届」を出そうとしているキミ、ちょっと待った! その退職「届」は、退職「願」に書き直した方がいいのかも……   としいけわかお・著

(この伝説・2には、いわゆる『昭和のY談』が含まれています。そういった話が苦手な人や抵抗を感じる人は、スルーしてください)

 ――さてさて、「柿の木坂の家」のカイシャに入社して、社会人になって初めて与えられた俺の「仕事」といえば……
 40年前に初めて出版業界の魔道世界に入って、ド新米のコミックスの販売営業マンだった俺が初めて上司から与えられた仕事は、その上司とお得意先の会社の偉い人を車で都内某所へご案内する役目であった。

 ある日の朝、上司から何のレクチャーも無く社有車の運転を命じられた俺は、しずしずと車を会社のガレージから発進させた。
 助手席に座る「部長」氏はむっつり押し黙ったまま、しきりに貧乏ゆすりをしている。俺は何か口を開けば怒鳴られそうなピリピリした空気の中、ひたすらステアリングを握る事だけに専念した。
 やがて、お茶の水駅前にあるお得意先の会社のビルに着き、ビル裏口で待っていた偉い客人を一人拾って後部座席に乗せた。
 そこで初めて我が上司から指示を受けた。
「おい、これから銀座へ行ってくれ」
「えっ、銀座ですか? 銀座のどこへでしょう?」
「バカヤロー! 銀座といえば銀座だよ。東京の銀座の場所も知らんのか。この田舎もんのドン百姓野郎がッ!!」
「す、すみません……わかりました」
 俺はステアリングを回し、本郷通りをゆっくり南下した。とにかく、都心の有楽町の繁華街あたりを目指せばいいのだろう。

 やがて、車は皇居前を左折した。
 前方に、出来たばかりの有楽町マリオンビル(当時)が見えて来た。
「部長、間もなく銀座です。このままでよろしいですか?」
「ああ。このまままっすぐ行け。その先に歌舞伎座の建物が見えて来る。すぐ手前にある狭い横道を曲がれ」
「承知しました」
 俺は素直に車の取舵を切った。
 ルームミラーを見ると、後部座席に座る客人がソワソワしてる姿が目に入った。このお得意先の偉いお方は、車に乗ってから何も喋らず咳ばらいばかりしている。
 車は、歌舞伎座の古風な建物の裏手の狭い路地で停車を命じられた。  
 我が上司は、しばらくそこで待ってろと言い捨て、後ろの客人をエスコートして二人で出て行った。
 一人残された俺は、何が何だか判らず何の説明も聞かされず、ガキの使いみたいに運転席でステアリングにもたれて時を過ごす事になった。
「まあ、お二人はきっと歌舞伎の公演でも観に行ってるんだろう。日本の古典芸能が大好きな大切なお得意様を、ウチの上司はビジネス接待してるんだろうな」
 それをサポートするお抱え運転手役の俺は、なんだか政治家の秘書みたいで格好いいな、なんてあれこれ勝手に妄想しながら、俺は重くなる瞼を擦って、居眠りしないよう自分自身を叱咤し続けた。

 やがて3時間くらい経ち、上司と客人が帰って来た。にこやかに談笑している。どうやらビジネス接待はかなりの効果をあげたらしい。
 二人を後部座席に乗せ、社有車はしずしず発進した。

 車内では、来る時とうって変って、饒舌になった客人と我が上司の会話が弾んでいる。
「いやぁ、意外と早く終わりましたな。私は、もっと時間がかかるのかと思ってましたが」
「ああいうのは早く済ますんでしょうねー。医者やナース連中だって、テキパキというよりもサッササッサという感じで診療してましたから」
「でもまあ、部長サンがいい病院をご存じだったので何よりでした」
「はい。あそこは、けっこう知る人ぞ知るのその道で有名な所ですぅ。腕もブラックジャック並みの名医なんだそうですよ」
「いやぁぁ~~。でも、今回は私は正直申し上げてかなり焦りました。もう目の前真っ暗になりましたよ。もうこれで私の人生は終わったかと思いました。オトコとしての未来が無くなったと覚悟して来たんですけどねぇ」
 軽い口調で重い内容の言葉を吐くセレブの客人に対して、
「まあまあ、まあまあーー、申し訳ないですぅ。ホントに申し訳ないです。恥ずかしい限りです。面目ないです。穴があったら入りたい。あー、穴があったから入れたのか……あっはははー」
 と、これまた軽~~く受け流す我が上司。
「も~~う。部長サンは今だから笑ってられるけど、この私は、昨夜は生きた心地しなかったんですよ。女房に万一迫られたりしたらどうやってゴマかそうかビクビクしてたんですから」
「まあまあまあ。役員にはホントに申し訳ありません。大変申し訳ありませんでした」
 ひたすら平身低頭する我が上司。
「いやはや、楽しい事の裏にはリスクが付きものと言いますけどね。しっかし、あの新宿歌舞伎町のクラブの女、あんな美人であんなイイ体しといて、とんでもない爆弾持ちだったとはねぇ」
「はは。まったくですぅ。人は見かけによらないもんですねぇ」
「ま、交通事故に遭ったと割り切るしかないもんですかね。出会いがしらにドカーンと」
「役員にそうおっしゃっていただけると、ワタシもいささか心が晴れるんですが。ま、いずれにしましても、あの店のママにはガツンと言っておきましたんで。後できっちりオトシマエつけさせますんでー。役員には、今回はホントにホントに申し訳ありませんでした」
「いいんですよ、今さら。これが私一人だけの貧乏くじだったら腹が立ったかもしれないけど、こうして御社の部長サンまで一緒に同じスカを引いてくれたんだから」
「はい。ワタシと役員はこれで義兄弟になったという事です。同じ穴を共有した賢兄と愚弟という事で」
「そう、そして、共に同じバイキンを貰っちゃって」
「病院で同じ注射器でペニシリン打ってもらっちゃったりして」
「そう、まさに我々は同じ穴のムジナなんですな。がはははは」

 そして、二人の業界セレブは、後部座席にふんぞり返って、ワッハッハハハハハと高らかに大笑いをした。

 運転席で前を向きながらステアリングを握る俺の両の手は、自分でも抑えられないほどブルブル震えていた。
 驚きと落胆と悲しさと怒りが、当時豊富だった俺の髪の毛を針の山のように逆立てていた。
 半人前社会人の自分でも、今自分の後ろで交された老練な会話の内容がどんなものか判る。自分の耳に向けて発せられたガハハ笑いの醜さぐらい理解できる……

 ブレーキを踏んで車を停め、憤然とドアを蹴飛ばして車外へ飛び出して行きたい衝動を俺は堪えた。堪えた……
 大学を出て憧れの出版の会社に勤め始めた俺が一番最初に与えられた仕事は、お得意先のセレブ接待の補助係どころか、クソッタレ助平オヤジたちの夜のお遊びの不始末の事後処理係だった。ガハハ笑いの嫌らしいオトナたちを場末の性病科の病院にこっそり連れて行く大間抜けの与太郎運転手だった……

 ステアリングを握りながら、零れ落ちる涙を拭けずにいる自分が情けなかった。
 悔しかった。悲しかった。怒りを抑える限界を感じた。
 こんな会社、こんなクソ野郎ばかりの出版業界なんか、今日限りで辞めてやるッ!
 明日、いや今日これから会社に戻ったら、俺は「退職願」を書いて、あの鉄面皮の上司に叩きつけてやるッッ!!

                ※
 
 ――月日は流れ、勤める出版社も二度ほど替わり、ハゲ頭の百戦錬磨のクソオヤジになった21世紀の現在の俺は、今、社有車の助手席にふんぞりかえって、若い後輩の運転でお得意先の会社へ急ぐ。
 つまらぬ与太話を若手社員とかわしてガハハ笑いを繰り返す今の俺の姿は、タイムマシンに乗せて現代に連れて来たあの時の上司の姿そのものであろうか……
 社会人になって初めての仕事で強烈なブチかましを食らった俺は、その後の数年間の超絶忍耐生活の中で、さまざまな学習をした。
 夜の接待でお得意先のセレブを籠落させて新雑誌創刊にこぎつけた当時の会社の「取締役部長」氏は、その後も手柄をあげて、30代半ばで常務候補にまで出世した。
 絶体絶命のピンチを驚愕のフォローでチャンスに替えて行く魔術のようなビジネスマン忍法帖を、俺は、身近にいて学んだ。

 そういったものが許されてしまう冥府魔道の時代だったのだ。それが通用する大雑把で気まぐれコンセプトな世間だった。コンプライアンスが厳しい21世紀の現代では、もはや飲み屋で酒が入って語るオトナの「お伽話」「夢伝説」になってしまったけれど……
 
――余談だが、40年前のあの日、会社に戻って「退職願」を提出した俺に、上司が返してくれた言葉を紹介する。
 眦を決して白い封筒を突き出した俺に、当時の上司の取締役部長はこう言い放ったものだ。

「なんだこれ? これが退職『届』だったら労働ナントカ法の決まりで受け取んなきゃなんねーけど、退職『願』じゃ、ただのお願いだから、受理する義務なんかねぇや!」

 その後に、部長氏は少しだけ優しい声になって、
「……そういえば、おめーの新人歓迎会をまだやってなかったな。おめーも新宿歌舞伎町に行きてーんだったら、今夜オレが連れてってやるぞ。そのかし、後で泣かねぇように、薬局行ってちゃんとアレ買っとけよ」

                   1981年の伝説・2 ――了

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