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無題

今日も美味しいお酒のんでますか。
愉しい時間を過ごしてますか。
どんな小さな幸せでも
今ここにあるものを
大事に味わえているとよいですね。

私にはもちろん父がいまして
父が居て母がいたからこそ
私がこの世にいるのですが、
生を授けてくれた父とは
幼少期から疎遠です。

まぁ
私の半分である父のことですから
酒やら芸術やらに浸っているのではないでしょうか
泡のようなひとやったと
母が言いますから
私はそれを聴いて
ほくそえむのですけれど。

育ての父とは
年長さんくらいで会ってます
背の高くて
穏やかで静か〜なひとで
いつもにこにこ
みくちゃん、みくちゃんって
可愛がってくれました。

私は、
父の温もりを
ほとんど知らなかったので
突然自分の人生に登場した圧倒的な父性に
戸惑いながらも
大喜びした感覚を
今でも覚えています。

思春期というのは
自分の人生を身勝手に生きるというのは
仕方なくも残酷なもので
養父である「父」を
激しく拒絶するとは
もはやその感情の起源すらわかるまい。

ただ
大人になるにつれて
やはり養父はどこまでも他人で
当たり前の存在なのに
真に何を考えているのかがわからない
理解ができない

掠れた記憶しかない
声も温度も不確かな実父の
あの表情やあの背中
そこで全てを悟る感覚
わかってるよと
安心する感覚

それが
ない

だから
どこまでも遠くて
未知で
不思議で
不可解

あなたの無条件の愛は
果たして
本当に無条件なのか
究極の自己愛なのか
そんなふうに考えて
嫌気がさす。

長く長く、
養父の愛を避けて。
姿を避けて、遠くへ行って。

どんどん無口になる。
どんどんわからなくなる。

でも彼はきっと、
本当に、愛に生きるひとだったんだ。

私が子どもを産んで
父に「孫」ができて
初めてわかった。
というか、
よくわかった。
その愛に。
よく見えた。
その愛が。

息子を通して
感じる父の愛

直接はできなかったこと
直接は言えなかったこと

私の息子は
間違いなく
父に溺愛された

そんなふうに息子を愛してくれる父が
愛おしくて
ありがたくて
うれしくて

だって
微塵も血が混じっていないのに
そんなこと
お構いなし
200%の愛を
息子に注いでくれた

息子も
じいじが大好きで
たくさんの笑顔
たくさんの抱っこ
たくさんの想い出

それを眺める私は
幸せだった。

父が亡くなって
もう1年以上経つ。
2年もきっと、
すぐ来てしまうね。

今更になって、
父の写真が見れない私。
今更になって
寂しいの。

亡くなる前後は怒涛すぎて
母を支えなくちゃって必死で
気丈に振る舞っていたけれど
ほんとうはね
すごくすごく
寂しいの

あんなに愛してくれたのに
あんなに想ってくれたのに
だってあなたはもう
この世界にはいなくて
一緒に笑うことも
ご飯たべることも
触れることも
できない

亡くなる間際、
その直前まで側に居られた

もうあちらの世界へ歩む彼に
だんだん冷たくなる額を撫でて

愛してるよ
ありがとうね
何遍も伝えた

後悔なんてない。

それでもね
寂しいの

写真が
見れないんだよね

息子もきっと
寂しいんだろうな
息子の心を
私は埋めれてるんかな

あの神様みたいな父性を
私は
与えてあげることが
できるんだろうか

ついね
泣いちゃって。
じいじに似た人見ると
思い出しちゃって、
だめだ。

そいで、
書きたくなった。


私、
あんなふうにまた、
誰かから愛を感じること
できるのだろうか。

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