[エッセイ]イマジナリーフレンドが欲しかった

全ての出来事に置いて危惧ばかりしている。これから想定される起こるであろう事、その全てを悪い方向にしか考えていない。その為人間関係、特にコミュニケーションの面が壊滅的だった。誰と話していても大抵の場合「相手は今『つまらない』と思っているんだ…」という思考が止まず取り巻いて絶えず会話の出口を探している。

そんな考え方のせいで誰かの為に何かをするという事がとても出来やしなかった。行動に移すメリットデメリットを天秤に掛けると必ず前者に傾いて足が竦んでしまう。だったら感情を押し殺すしかない。そんな毎日だった。

「本物の自分を露呈させれば周りからは拒絶されてしまうんだろう」ともずっと思っていた。

だから私は自分の本性をひたすらに隠した。折角の機会が訪れたとしても、いつも仮初の自分を取り繕って話を進めていた。取り繕った私は良く言えば大人っぽくてルールを重んじる優しい人間。悪く言えば黙りとして冷めたチャレンジ性がないつまらない人間らしい。少なくとも周りからはそう見えていたらしい。でも、私はそんな奴の事は知らない。

「本当の自分は……。本当の自分はなんだ?」

仮面を被り続けた結果、どれが本当の自分でどれが取り繕った自分なのか分からなくなってしまっていた。周りの人が見ている私が誰なのか分からない。自分自身ですら演技なのかそれともホンモノであるのか、あやふやになってしまった。そんな嘘つきな人間は孤独になって当然だ。居たはずの誰かは次から次へと去っていき、顔を上げた頃にはもう周りに人影は無くなっていた。

その頃にはもう自分から言葉を発する事も自分を好きになろうとする事も諦めてしまった。

ただ、残った自己嫌悪ばかりをする誰かと数字を重ねる毎日を送っていた。

そんなある日、ふと目の前に置いてあったぬいぐるみと目が合った。無機質な目で綿いっぱいの身体を傾かせている何の変哲もない塊。それを見た時にハッと気づいた。

自分はイマジナリーフレンドが欲しかったんだと。

今、目の前に置いてあるぬいぐるみに綿いっぱいの身体で抱きしめてもらい他愛ない話を時間の許す限り、厳密には日が昇って暮れるまでの間ずっとしたかった。

私が嫌気を差していた誰かに求めるコミュニケーションの出口は自己完結にあった。自分で自分に対して話しかける事が出来るのなら何も心配する事はない。自分であるなら落胆されようが、嫌われようが別に構やしない。そしてそれを叶えてくれる存在がイマジナリーフレンドだった。何だか、大きな伏線を回収した映画のラストシーンを見て腑に落ちたような気分に包まれていた。

でも、私にイマジナリーフレンドは出来やしない。だって自分の魂を他のモノに移して言葉を発するなんて器用な事は出来ない。そんなのオカルトだ、非現実的だ、と早い内に割り切ってしまっていたから。

当たり前の事だけど自分の中に居るのは私だけだ。冷螺の中に居るのは冷螺だけ。それ以外の人格が混在しているはずが無い。この文章を打っているのだってそいつ一人だけだ。そしてそいつは仮初から生まれた何か。

私はイマジナリーフレンドが欲しかった。

けど、出来ない。私が誰であるか自分で分からないから。

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