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お金の持つ自由について考える

 日本ではお金の話(特に投資や資産運用の話)はタブー視されている感がある。投資は「楽して稼いでいる」という印象があって、汗水垂らして稼いだお金に比べて、あまり感心されないようだ。しかし、投資で稼いだ100万円でも、労働で稼いだ100万円でも、資本主義経済の中にあって持っている力は同じだ。本来色がついていない「お金」に変な色を付けて考えるのは無知な人間のすることだ。お金とはシンプルに、そしてドライに付き合いたい。さて、本日はそんな嫌われ者(?)なお金の自由について考えてみる。

 「お金は手段であり目的ではない」。よく聞く言葉である。お金は食べることができないし、乗って移動することもできない。お金は別の何かと交換しなければ、それ自体では何もできないという理屈で、確かにこの言葉は正しい。しかし、お金には、それ自体を目的にさせる強烈な引力があるのも事実であろう。住宅ローンに囚われているような場合は、かなりの長い期間「お金そのもの」を目的として生きる必要があるかもしれない。「貯金が趣味」という人もいるだろう。そのような人物が面白みのある人間かどうかの議論は棚に上げるとして、毎月貯金が増えるのが唯一の楽しみだという人は、お金自体が目的になっている可能性がある。本来お金は冷静に、淡々と、色を付けずに、必要な時に必要な分だけ使うような極めてドライな付き合い方が望ましい。(そもそもお金に色を付けると冷静な判断ができなくなる。恋は盲目という言葉があるが、同じようにお金に何か特別な感情を抱くと判断が鈍る。)
 ただ、当たり前だがお金は「自由に使える状態」でなければ、そもそも使うことができない。銀行の普通預金に預けているお金は、いつでもすぐ使えるという点で極めて自由だ。一方、これを定期預金に入れてしまうと、必要な時に必要な分だけ淡々と使いたいのに、その許可(定期預金の解約など)を銀行に取らなければならなくなる。途端にお金が不自由になってしまう。そこで、改めてお金の持っている自由を考えてみると、注目すべきいくつかのポイントがあるようだ。

・使途の自由
・形の自由
・大きさの自由

 投資に限らず、お金に関わる判断をする時、この「お金の自由」を制限する行動や判断は、お金に対する付き合い方として正しくない可能性が高い。

その1:使途の自由とは

 お金には使う人の判断で「どんなことにでも使える」という使途の自由を持っている。遊びに行くことも、欲しいものを買うことも、老後の資金として使うことも、病気になった時の治療費として使うことも、いつでも使えるように持っておく(貯蓄しておく)ことも可能だ。そして、お金はいずれの用途でも大いに力を発揮してくれる。お金の使途は、その時その時の状況変化に合わせて、必要なことに自由に使うことができる。これはお金の持つ大きな魅力の一つだ。言い換えると、お金が持っている大きな力である「使途の自由」を制限する判断はやめた方がいい。
 例えば、民間の保険を例に考えてみよう。前置きとして、筆者は保険会社の商売にあまり良い印象を持っていないので、少々厳しい言い方になるかもしれない点はご了承いただきたい。
 さて、ここでは保険会社が老後の備えとして販売している「年金型の保険商品」を例に考えてみよう。仕組みとしては、加入時から定年前後まで保険料の積み立てを行い、老齢期に入ると定額の給付が受けられるような商品が典型だろうか。まさに国民年金のようなシステムだ。(ただし、一番重要な給付金の捻出方法が国民年金とは全く異なるので、似ているだけで別物である。)
この「年金型の保険に加入する」ということは、言い換えると保険料として積み立てたお金の使い道を「老後の資金」に限定し、お金の持つ「使途の自由」を放棄しているに等しい。可能性の話として保険料を払っている保険会社が潰れることもありえるし、そもそも自分に「老齢期」はないかもしれない。想定以上に人生が短いことが判明した際、人生の最後に世界一周旅行をしたくなったとしよう。その時、保険料を真面目に払っていたせいで、手元に自由なお金がないということでは、なんとも悲しい。お金の使い道は「後から」「その時の状況に合わせて」「柔軟に」決めることができるのだから、お金の使途を前もって限定するのは良くない。(そもそも、平均的には保険会社の儲け分を必ず損するのだから、保険に加入するのはお金の預け先としても賢くない。)
老後や病気が心配なら、保険会社などに頼らず「自分で」備えた方が良い。医療保険、学資保険、生命保険も全て同じ理由で、基本的に付き合わない方が賢い。病気などは気になるかもしれないが、国民健康保険は想像以上に手厚い。国保の加入者であれば高額医療費制度で高額な医療費は発生しない仕組みになっている。医療保険に積み立てるはずだった分を代わりに貯めておけば、日本の福祉制度の中で医療費の支払いに困ることはあまりないはずだ。想定していたほど体調を崩さなければ、貯めたお金を別のことに使えばいい。お金の使途は自由であるべきだ。

その2:形の自由

 全財産が「現金のみ」という人は少ないはずだ。不動産や自動車、預金、株式、債権など、さまざまな形で資産を持っているだろう。お金はどのような形でも持てる「形の自由」を持っている。これも「使途の自由」と同じで制限しない方が良い。
 例えば、普通預金、株式、投資信託などは流動性がよく、お金の持つ形の自由を制限しない(他の形に変えたくなった時、速やかに変えられる)。一方、不動産、定期預金、保険などは流動性が低く、お金の形を1つに固定してしまう。お金は必要になった時に必要な分だけ淡々とドライに扱えることが大切なのだった。お金の形は常に自由に変えられるようにしておこう。

その3:大きさの自由

 お金の多寡は、小さすぎると大変に困る重大な問題なのだが、反対に大きすぎたからといって困るということはない。「お金はありすぎて困ることはない」というのは重要な事実だ。要するに、お金を運用や投資に目標額など不要であるということと同義だからだ。
 例えば、子供の教育に平均〇〇円かかることが想定されるので◇◇円を目標に運用しようとか、住宅の頭金にいくら必要だからいつまでにいくらを目標に投資しましょう、というような話は「お金の大きさが自由であること」を無視した話だ。なぜならば、そこで決めた謎な目標よりお金の規模が大きくなったところで困ることはないのだから、目標額など決めずに、今の時点で最も期待値が高い方法のみを考えて実行すれば良いはずだ。
 具体例を示そう。例えば、将来のお金の不安に備えたいという人が、教育費はリスクを抑えてAという方法で、老後の資金は少しリスクを取ってBという方法で運用するようなポートフォリオは全く賢くない。AとB、今の時点でどちらの期待値がより高いかのみを真剣に考えて、教育費も老後の資金も同じ方法でやれば良い。はっきり申し上げれば、運用の「目標額」など決めたところで、個人投資家にそれをコントロールすることはそもそも不可能である。相場の大きな濁流の中で個人投資家にできることは、そんなに多くない。少しでも正しい知識を身に付け、最も期待値の高い(と思われる)ポートフォリオを作り、可能な限り長い期間相場に参加して、後は祈って待つことくらいだ。
 お金の大きさが自由であることが理解できると、運用や投資を考えるときは、最も期待値の高い方法1つのみを考えれば良いという事実が、すんなり理解できるはずだ。

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