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東ドイツという亡国

『冷戦はソ連が崩壊して、アメリカ率いる、民主主義、資本主義体制側が勝ちました。悲劇的に国が東西分裂していたドイツは統一されみんな幸せになったのでした。めでたしめでたし。』
...という程度の認識で日本から出て暮らしてみると、いつからかこれはすこし違うのかもしれない、と感じるようになった。
 そもそもこれはアメリカとヨーロッパの西側から見た一方的なお話だ。ヨーロッパでの冷戦のカタは付いたかもしれないが、いまだに朝鮮半島は南北に分裂しているんだからアジアの冷戦は終わっていない。そしてヨーロッパの東側からみた冷戦とは、特に東ドイツから見た壁の崩壊とはまったく違う意味さえ持つ。
 ドイツ人はいまだにオッシー、と東ドイツ出身を揶揄したりするときがある。どういう時に言うのかというと、メンタリティの違いを感じたときだ。
北と南でもメンタリティは違うが、東の、という時は少し違う意味合いを含む。
 行ってみるとわかるが旧東地域だった場所は、貧しい場所や殺伐とした場所が多い。失業率も高い。外国人に対して非常に排他的な地域もある。
 一時期、親しかった知り合いがいる。その人と家族は東ドイツの奥深くに住んでいた。当時東ドイツの人達は家にアンテナをつけて西ドイツのテレビを見ていて、西側がどんな暮らしをしているのか知っていたのだが、その家族の住んでいたい場所はアンテナをつけても西の電波が入らない場所だった。通称、無知の谷。壁の崩壊を知ったのは一週間くらいしてからだったそうだ。
 

彼は東ドイツで軍の大学を出た将校で、壁が崩壊した時、大尉だった。奥さんも高等教育をうけた整体師。よい暮らしをしていたそうだ。地位が高かったから、新婚当時、アパートにバスタブが欲しいと言ったら、順番をすっとばしてすぐバスタブが付いた、という話をしていた。趣味はカメラで、東ドイツ製のパッとしないカメラだったけど近所の人とも写真を見せ合ったりして親しい近所付き合いがあったそうだ。当時は小さな不自由があると、そういう付き合いを通じて融通させる方法があったりして、人との関係がより密だった。贅沢ではなかったけど自分たちはそれなりに幸せだったよ、といっていた。彼らにとって壁の崩壊とは、そういう質素だが穏やかな生活の終焉だ。
 まず西ドイツと東ドイツの軍は統合された。大尉から降格されて年限付きで少尉になる。契約を終えて軍からは出たけれど彼が大学で勉強したのは経済だった。計画経済だ。壁が崩壊した社会で役に立つわけがない。そこからは職を転々として、失業することもあった。住んでいた町は軍の駐屯地だったから基地がなくなるとぐっと人は減った。

 西側が自由だというのは知っていたけど、自由と引き換えに競争がやってくることは東側に住んでいた人にとってはなにか騙されたようなショックだったのだろう。勝つ人と負ける人がいる世界だ。彼らが住んでいるアパートで仕事をしているのは自分たちだけだと言っていた。他はみんな生活保護を貰っている。同じアパートでも生活に差が出てしまい、もう前のように親しく付き合う事はできなくなったそうだ。
 東ドイツというのは、同じドイツでありながらも負けた側であり、すべて西側に吸収されて西側のやり方になる。東ドイツは否定されていくけれど、住んでいた人間たちは必ずしも自分たちを不幸だと思っていたわけではないし、みんなが東ドイツから出たかったというわけでもない。しかし、彼らの祖国は消えてなくなり、時代遅れの二等ドイツ人のような扱いをる。

オスタルギーという造語がある。東の人が昔の生活をなつかしむことを揶揄する言葉だ。西側の人間はそういう気持ちを笑うが、私はむしろ悲しい気持ちにすらなる。東ドイツは消えてしまい、取り残された東ドイツ人が、質素だったけどみじめな思いをすることのなかったころを懐かしむ気持ちになるのは共感できる。今は無き故郷なのだ。

『あなたたちは、壁の向こうではかわいそうな暮らしをしていると思っていたのかもしれないけれど、少なくとも自分は不幸ではなかったし、壁が崩壊した後は非常に苦労した。』彼は必死に働いてきたし、少なくとも働く気も働ける場所もあった。でも働く場所は与えられるものではなく、勝ち取らなければならない、という新しい西のやり方に納得できなかった人もたくさんいる。

体制に振り回された人たちの不満というのが、30年たった今も東ドイツには薄く残っている。めでたしめでたし、の後にもお話は続いていて、東ドイツの人にとってはすべてが思った通り、という未来ではなかった。
西側の人間には見えていない、すこし悲しいストーリーが東側にはたくさんある。

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