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八方美人の放送作家

「面構えが違う」

知り合ってから初めての企画会議の後、ディレクターさんが私に言った。

「面構えが違う」と、まんまではないが、そんなようなニュアンスのこと。放送作家としての、会議での私の「立ち回り」の話だ。

「なんか、たくさんの会議で死ぬほど“揉まれてきた”感じが分かりました」

めちゃくちゃ恥ずかしいところを突かれているような気がした。

が、赤面を我慢してその真意をよくよく聞いてみれば、企画の提案する際の「言い方や声のトーン」であったり、話の広げ方が「傲慢な精神の相手にも通用する様式」だった、というニュアンス。

要するに、「散々理不尽な会議で叩かれて泣いてきたんだね」という同情と共感に近い分析だった。

「元カレ、ひどい男だったんだね」みたいなね。多分そのまま頭なでられてたら号泣してたので、リモート会議で良かったです。


「歯車・愛人・八方美人」

「放送作家はディレクターの愛人である」というのは、某有名作家さんの言葉で、密かに私の心のブックマークに保存している名言なのですが、この仕事を8年続けてきて、だんだんと実感としてその意味が理解できるようになってきた。

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これは私に限った話かもしれないが、始めたばかりの若手の作家は実力も地位も常識もないので、目に映る全ての人が「絶対的な正解の年上」であり、仕事の9割が「同調と増幅」。

出されたお題に対して、ただひたすらに肯定し、その先を作っていく。ゴウゴウと黒光りする列車の先頭にしがみつき、走る列車に急かされながらレールを敷く作業の繰り返し。

一方、残りの「1割」は、私にとっては「企画書の中」にあった。会議で並べられた情報を紙面化する過程で、「自分はこっちの方が良いと思う」というアイデアの種を滑り込ませる。「この企画書は私の領域です」という秘めたる思いを、数行に潜ませる。肯定だけでない、そうした小さい自我に気付づいてくれる先輩作家やDが、結局今でもお世話になっている人たちだったりする。


そんな仕事を続けていって、運よく素敵な出会いがあれば、「列車を作る」機会も増えてくる。例えば、担当作家は自分だけ、ひとつの番組/プロジェクトの「舵を取る」ような立場の仕事。比喩に戻るなら、地図や線路でなく、「どんな乗り物かデザインする」ような仕事。

ここでは、自分の中の同調:自我の割合を変動させなくてはならない。9:1だと話が進まないので、徐々に7:3とかの出力にしていく。

で、まぁ結局「0:10」みたいな仕事にばっかりになれば楽しいのだろうが、なかなかそういう人は一握り。自分でプラットフォームを作ってマネタイズして自分とその周辺を食わせて行けるようなシステムを作れる、みたいな、放送作家とはまた別の素養も必要になってくるので。作家が一人だけの番組でも、結局は演出がいて、プロデューサーがいて。自分はチームのひとつの歯車でしかなく、決定権もない。

で、まぁ何が言いたいかというと、「自分で列車を作る仕事」が増えてくると、「自我の出し方」と同時に「引っこめ方」もなんとなく分かってくるわけです。

ひたすらプロジェクトに則った仕事をしている時には見えてこなかった、ものづくりの景色がチラっと見えてきたりするので。軋轢も、思うようにいかないもどかしさも、責任も味わいます。
こうした経験が最初で言うところの「“揉まれてきた”感じ」なのかも。

で、そうすると、結局は最初の同調:自我=9:1みたいなスタンスに戻ってきて、仕事をしていくことになるのだが、作家を始めたばかりの頃とは少し変わってくる。経験を積んでいくと、これを9:5とか、8:7にできるようになってくるわけです。

これは別に「100%を超える」でもなく、「64:36」みたいなことでもなく、そもそも比率では言い表せない様態か。「相手に合わせること」と「自らのアイデアを主張する」ことが混然一体となっていく。「あなたの脳で考えたらこんなアイデアも生まれそうじゃないですか?」みたいな姿勢、だろうか。

膝を突き合わせるというよりは、カウンター席の横並び。「あなたに寄り添い、尽くして、そこに居て、あなたの欲しい言葉が、私の言いたい言葉」で、と。まさに愛人とはこのことか。

「クリエイター」的な仕事のスタンスとは対極にある成り方だが、でもそれこそが強みのようにも思う。それを極めている人が、私にはカッコイイ。

座右の銘を聞かれるシチュエーションはこの人生でもまだ数回ほどですが、いまもし聞かれたとしたら私は「八方美人」かな、と思う。「(いい意味で)」を前に付けて。


良くない意味で使われますが、こと放送作家に関しては「最高のスキル」なんじゃないかな、と思う日々です。


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