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ヒーロー映画の黄金比に絡めとられてしまった|『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』感想

『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』の感想をネタバレありで書きます。







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まず、前提として、めちゃくちゃ面白かった。



が。

少し歯がゆいのは、この映画の面白かったところも、悲しかったところも、どちらも「ワンダをヴィランとして描き切ったところ」だから。

額から血を流しながら、ガラス片の飛び散る廊下を裸足で追いかけてくるワンダは、これまでのMCUで見たことのない怖さだった。車のドアで頭部を破壊するフィスクとは別種のヤバい奴。

「貞子」のごとく、反射から出てくるワンダの肉体の不気味なカクつき。

アメコミ映画における「キャラクターの一面を磨き上げたジャンル映画的な面白さ」の極致と言えるでしょう。

ただ、その割り切り方には・・・『ワンダヴィジョン』の9話、352分を完走した人の目線が欠けているようにも思う。

『ワンダヴィジョン』の好きなところは「ワンダの失意」の解像度でした。親が死んで、弟が死んで、人々を傷つけて、愛する人が死んで…と、全て知っているはずの情報なのに、それに伴う心のダメージにこれまで寄り添えていなかったことに気付いてハッとさせられたのが良かった。痛感する8話。何度も映画観てるのに、全部知ってるのに、分かっているようで分かっていなかった。

その彼女のケジメの“つけさせられ方”が、これで良かったのか…

『ドクター・ストレンジ』と名の付く映画だからこそ、それに匹敵するヴィランが必要で…という、「必要な図式」、ヒーロー映画の黄金比とも言える”キャスティング”に、ワンダの物語が絡めとられてしまった…という印象です。『アントマン&ワスプ』みたいに『ドクター・ストレンジ&ワンダ』なら、こんなストーリーじゃなかったはずだろ、と思ってしまう。


失意から独善的に「ウェストビュー事件」を引き起こしたが、ドラマで家族との交流を経て、自らの過ちを反省…したと思いきや、ポストクレジットで「ダーク・ホールド」という禁断の書に手を出してしまい…【善の心のまま悪の手段を】という話かと思いきや、外的要因としてのダーク・ホールドがワンダの心をも蝕んでいて、彼女の主体性は薄まってしまい…という。

せめて、暴走や闇堕ちが彼女の感情の発露に起因するものならよかったものの。結局ダークホールドの影響を受けた「被害者」の側面が上乗せされてしまう。

もう「強大な力に振り回されてしまう女性」じゃなくても…と思ってしまった。

あと、別に前作のオチからの繋がりで大きな矛盾はないんだけど…でも、ドラマを全部完走した後ではワンダの今作の動機に違和感がある。

「あの子供たち」を愛したワンダが、「あの子供たち」を再び取り戻すということなら分かるのだが、あのドラマを経た後に「顔が一緒な並行世界の別の子供でも良い」という方向に流れるとは、とても僕は思えない。

それこそ彼女はドラマ内で、「本来のヴィジョン」と「創造した偽ヴィジョン」という、マルチバースと近しい構図の中で正しい離別を行った後ではないか。そもそも、ドラマのポストクレジットシーンで最後に聞こえた子供たちの声も、決して「マルチバースのどこかにいる同じ顔の子供たちの声」ではなく、「共に日々を過ごして、消えてしまったあの子供たちの声」を想定していたように見える。

「ドクター・ストレンジ」の単独作で、かつ「マルチバースを扱う」という、これまた映画の前提条件によって、その愛情が「マルチバースの子供たち」に向けられてしまった? 映画への合流と同時に、ドラマの9話/352分の機微が歪められてしまっている。

長いシリーズだからこそ、物語による心境の変化ではない唐突な「そんなやつじゃなかっただろ」が一番キツイ。

ドラマに限らずキャラクターと物語は不可分で、別に顔が一緒の役者だから嬉しい!というわけじゃないんですよ。…「ホークアイ」でのフィスクの扱いを思い出して沸々としてきた。

まぁ、そんなキャラクターの心変わりも「だって心が蝕まれちゃったから」で説明してしまいそうなダーク・ホールドという装置が、相変わらず面倒である。


ワンダのMCUでの進退はまだ分からないが、さすがにこんな形で彼女の物語を終わらせてしまってはいけない、という思いが制作側にあってほしいよ。もうワンダに「強大な力を持て余す不安定な女性」という描き方を押し付けなくていいでしょ。白ヴィジョンとの邂逅で様々なものが報われてほしい。



さて好きだったところも振り返り。

結婚式を飛び出してから始まるストレンジの一連の戦闘シークエンスはもう一生見てられますね。「スパイダーマン2」の市街地戦に通ずるワクワク、ビルの高低差を活かしたバシバシ決まるアングルに脳汁が。久々に「楽しいアクションシーン」を見た気がする。

正直、サム・ライミ作品は「スパイダーマン」シリーズしか見ていないので、ホラー演出に関しては2のアーム手術シーンの印象ぐらいしかなく、SNSで広く言われているように、この映画が「サム・ライミ節全開である!」とまでは自分には分からない…と思いきや、終盤のゾンビ・ストレンジの大暴れを見ていると、「死霊のはらわた」を観ていない自分でも「これはサム・ライミ節だ」と分かるほどには、作家性が溢れていた。

あ、魔法のバリエーションも「化け物の身体の一部を召喚する」といったような目新しい技がたくさんで最高でしたね。楽譜バトルのシーンとか馬鹿すぎて最高。

アメリカ・チャベスのキャラクター造形、並びにパワーの演出も最高。ポータルの円、ガーディアンズのジャンプの六角形に続く、平行世界をつなぐ星形ポータル。文字通り「ブチ開ける」ようなエフェクトがかっこいい。

ドラマ「インヒューマンズ」も観ていたので、瞬間最大風速はブラックボルトの登場シーンかもしれない。よくぞ同キャストでやってくれた。

一方で、先ほども言ったように「別に顔が一緒の役者だから嬉しい!というわけじゃない問題」という意味では、プロフェッサーXやキャプテンカーターの登場には、インスタントな盛り上がりはあるものの、途中からはワンダの恐怖演出の装置に成り下がってしまう悲しさもあった。

「あの人があのキャラを演じる!」のハードルが上がりきったノーウェイホームのあとの今作だからこそ、かもしれないけれど。ちょっと、舌が肥えてしまった。

ドラマ「レギオン」のシーズン2の終わり方のような、虚しさとどうしようもなさからコロッと、紙一重でヴィランの境界線を超えてしまうような、そういった展開は好きではあり、ワンダのポジションには後ろめたい共感もあって納得できなくはない。が、もう少し寄り添ってあげても良かったように思う。

『ワンダヴィジョン』への向き合い方が“整合性をとる”に留まっている一方で、モルドーの登場や、ボムガリアスの火鉢の伏線回収など、1作目の『ドクター・ストレンジ』への向き合い方には、真摯なものがあった。クリスティーンへの気持ちを数多の宇宙の自分の失敗を通して改めて飲み込む。そしてソーサラースプリームとして“ではない”魔術師としてのアイデンティティ。止まっていた時計を動かして、街へ繰り出すまでの話。“続編”として偉くて、最高の映画でした。

はてさて、インフィニティーサーガが「サノス」という明確な一本道へと向かっていったのに対し、今のMCUはどこへ向かっているのか。「マルチバース」がその大きな舞台になる?インカージョンとは?マルチバースの始まりはドラマ「ロキ」で起きた時間軸の分岐から?カーンとストレンジは接触するのか?ふぇ???




ふぇ???

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